2022年9月30日金曜日

豊予海峡ルートの話題(2022年9月)

15日 小嶋県議が豊予海峡ルートについて質問

23日 西九州新幹線、長崎まで部分開通

27日 大分市が5月東京シンポの報告書を公開




15日 小嶋県議が豊予海峡ルートについて質問

大分合同新聞16日朝刊より引用

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■豊予海峡間の交流を推進へ

 小嶋秀行氏(県民ク) 大分、愛媛両県を結ぶ「豊予海峡ルート」について予算計上を止めるべきという意見もあるが、県としてどのような対応を取っているか。

 広瀬知事 大分、愛媛両県を中心に構成する推進協議会などを通じて、国に対し引き続き必要性を訴えていく。豊予海峡をつなぐトンネルなどの建設は技術、経済的観点から近い将来の実現は困難だ。まずはフェリーを活用して海峡間の人や物の流れを活発化させ、交流をさらに促進する好循環を生み出せるよう取り組みを推進していく。

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・大分県の豊予海峡ルートへの支出について

県は平成5年(1993)に設立された「豊予海峡ルート推進協議会」へ負担金を支出し続けています。

その詳細が不明だったので県にメールで問い合わせました。財政課の方がすぐに返信をくださりました。

令和4年度当初予算 予算説明書 一般会計 歳出予算 第2款 第2項 第6目「交通対策費」「太平洋新国土軸構想推進事業費」1,154千円のうち、440千円が負担金に該当します。

とのことです。

推進協議会では、「豊予海峡交流促進事業」に補助金を出すということをやっているようです。大分県では企画振興部交通政策課が担当しています。

2022年度豊予海峡交流圏交流促進事業の募集について

引用〜〜〜〜〜

豊予海峡ルート推進協議会では豊予海峡交流圏で地域間交流を行う団体からの申請を募集しています。

1 目 的

広島県、山口県、愛媛県、高知県、福岡県、大分県及び宮崎県の区域からなる豊予海峡交流圏域内(以下「圏域内」という。)で、経済、文化、スポーツ、観光など、様々な分野の各種団体等が取り組む交流事業に係る経費を助成することにより、豊予海峡ルートの実現に向けた地域間交流を促進する。

2 対象団体

圏域内に活動の本拠を置く次の団体等であって、豊予海峡ルート推進協議会代表理事(以下「代表理事」という。)が地域間交流の促進に役立てると認めるもの。

○経済団体や文化・観光団体、地域づくりグループ

○スポーツ愛好者による団体等

○その他、代表理事が地域間交流の促進に役立てると認める団体等

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・小嶋秀行

gooブログ「小嶋つうしん(号外)」より自己紹介を引用。

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活動テーマ「くらしに安心」。好きな言葉「日々新しく」。「万物は流転する」の諺の如く、もの事は常に発展することを念頭に。天秤座67歳。妻・ニ男一女。子どもは福岡で独立(孫7人)。長女も本年出産。

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会派は県民クラブ。民主系。

県民クラブホームページによると、大分市選挙区選出で、当選回数は3回。

ブログは2006年からぼちぼち更新しているよう。

介護や防災、デジタル化、など、まぁ色々やってるんだなぁということです。

会派代表で代表質問も度々しています。過去五年分では豊予海峡ルートに関する質問はありませんでした。

 

23日 西九州新幹線、長崎まで部分開通

長崎県民待望の西九州新幹線が23日、武雄温泉〜長崎間66キロで部分開通しました。

JR九州公式ホームページより引用〜〜〜〜〜

西九州新幹線は、「全国新幹線鉄道整備法」に基づき昭和48年に「整備計画」が決定された九州新幹線西九州ルート(福岡市・長崎市間)のうち、2022923日に開業した武雄温泉・長崎間の路線名称です。

武雄温泉・長崎間は線路延長約66kmをフル規格(標準軌)により整備し、武雄温泉駅で博多・武雄温泉間を運行する在来線特急列車と同じホームで乗換を行う「対面乗換方式」により運行します。

西九州地区と福岡・中国・関西地区との更なる交流拡大をもたらし、西九州地区の振興と発展に大きく寄与するだけでなく、既に開業した鹿児島ルートと連携することにより、九州地域全体の更なる浮揚に重要な役割を果たし得る交通インフラです。

この開業を契機に、生活と観光の両面での開業効果を高め、沿線のみならず、佐賀県、長崎県の各地に効果を拡大させるため、地域の皆さまの生活利便性の向上、魅力ある観光ルートの新たな構築に取り組んでまいります。

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昭和48年といえば1973年です。半世紀越しの悲願達成ということですね。

しかしながら、まだ全通はしていません。メリットが小さくデメリットが大きい佐賀県が強硬に反対しているからです。この辺りはリニア新幹線問題と似ています。

長崎県としても、このままでは意味がありません。福岡、大阪まで直通してこそ意味があります。なんとか地元負担の少ない形で全通してくれればと思います。

さて、高速鉄道インフラがまた一歩充実しました。

次は24年の北陸新幹線敦賀延伸です。北陸新幹線は概して大成功と言えますから、それが遂に敦賀にも。元々関西方面と繋がりが強い北陸地域において、新幹線は東京への大きな吸引力をもたらしました。敦賀は東京から遠いですが、その効果がどれほどあるかが楽しみですね。

27年にはリニア中央新幹線の品川-名古屋間が開業予定。静岡関係で延期は必至でしょうけど。

31年には北海道新幹線の札幌までが開業します。まあ札幌止まりでしょうね。

そして37年には北陸新幹線全線開業、中央新幹線新大阪延伸開業です。37年は新大阪の年となりそうです。

さて、ここからが未定の話です。次の整備新幹線は何か?私は四国新幹線が当確だと思っていますし、大分市も、おそらく大分県もそう考えていると思います。

四国新幹線は四国4県が一丸となって、我田引鉄で睨み合いつつ熱烈な要望活動を行っています。JR四国の経営悪化救済という目的もあり得ます。

一方、我が東九州新幹線もある程度の要望活動は行っていますが、如何せん福岡・鹿児島は全く乗り気でなく、宮崎も「空港でいいや」と白旗をあげそうな気配です。

大分は四国新幹線・東九州新幹線の両睨みであらねばならず、そのため大分市と大分県で役割分担しているのかなと思います。

理想をいえば、小倉-大分-松山-岡山-新大阪-東京、と繋がって欲しいです。しかし、それは流石に筆者が首相になっても厳しいでしょう。

では、どうすべきか。私は、まずは豊予海峡ルート一択だと考えています。一応、四国新幹線は大分市まで延伸することとなっています。大分市が道路に寄りつつも道路・鉄道両睨みなのはこういう現実があるからだと思われます。

このために何をすべきか。第一に、もちろん大分110万県民が、めじろんダンスを踊るように豊予海峡ルートを熱望することです。

そして第二に、愛媛県よりもむしろ宮崎県との交流を促進することだと思います。

四国新幹線が松山まで開業したとして、そのタイミングで大分だけ手を挙げて、果たして人々が納得するでしょうか?海峡にトンネルを掘って、繋がるのが大分だけ?大分市50万と別府市10万ではトンネルを掘ってもらえないでしょう。

そこで、宮崎県にも手を挙げてもらいたいわけです。大分県は現在、東九州メディカルバレー構想として宮崎との産業連携を加速させています。この調子でどんどん宮崎と交流を続け、豊予海峡ルートのことを宮崎県105万県民に知ってもらう必要があります。

大分・宮崎が一丸となって手を挙げれば流石に説得力があります。そこで、東九州新幹線です。東九州新幹線は鹿児島-宮崎-大分だけで良いと筆者は思っています。それこそ「福岡まではソニックで充分」なのです。鹿児島も、博多まで2本目の新幹線ができるより新大阪まで2本目の新幹線ができた方がいいに決まっています。

大分県が豊予海峡ルート推進の予算を「太平洋新国土軸構想推進事業費」と未だに称しているのもそういう理由かなと思いました。以上、政治的主張でした。

 

27日 大分市が5月東京シンポの報告書を公開

しましたが、一旦削除した様子です。(2022930日現在)


【編集後記】

・卒論、目処がたった。

・豊予海峡ルートは道路で良いという確信を抱いた。

2022年9月29日木曜日

【JpnⅡ】船橋競馬に行ってきた【日本テレビ盃】

全場制覇チャレンジ22.09.28

【中央】

札幌/函館/福島/新潟/東京/中山/中京/京都/阪神/小倉

【地方】

帯広/門別/盛岡/水沢/浦和/船橋←NEW/大井/川崎/金沢/笠松/名古屋/園田/姫路/高知/佐賀

 

大分の話ばかりしている筆者ではありますが、実は東京に住んでいます。

大学生活は東京で謳歌したのです。なおコロナ

そういうわけで、東京競馬場には足繁く通いましたし、中山にも2回ほど行きました。

が、南関競馬には行ったことがなかったんですね。ダートに興味が出てきたのが最近なもので。

で、次の春には大分に帰ると。じゃあ、今のうちに南関競馬を制覇しておかなくては!

そういうわけで、同郷の友人を誘って、差し当たり船橋競馬に行ってきました。

 

友人が夕方頃行くというので、筆者も昼過ぎまでのんびりしていました。そんなに混んでねえだろと。しかし、筆者は関東を侮っていました。16時過ぎに着いたら既に大盛況。先着順に貰えるサコッシュは既になくなっていました。もちろん指定席も売り切れ。くぅ

 

船橋競馬場は20229月現在改装工事中で、場内は非常に狭くなっています。友人と合流する前に、一人でパドックで勝負服撮影。實川純一騎手(實=実)の勝負服がカッコよかったですね。最近、襷+袖輪がカッコいいなと思います。

 

友人と合流し、飲んじゃいます。肴は老舗の焼き鳥屋「田久保」さんのハツ・軟骨・タン・豚串。客が多いことと回転が悪いことが重なり30分並ばさせられましたが、上等な味でした。段ボールのトレイをくれて嬉しかったです。

 

さて、日本テレビ盃まで暇なので船橋競馬について紹介します。船橋競馬の面白い特徴は、オートレースとの関連が深い点です。「競馬場の開設時にはレースコースの内部に800メートルのオートレース用ダートトラックを併設しており、当所は日本最初のオートレースが開催された発祥の地にあたる」そうです。(ニコニコ大百科より)入場門の近くに1号車のモニュメントがありました。こういうモニュメント大好きですね。オートにあまり興味がないことが悔やまれます。

船橋オートレース場は2016年に惜しくも廃止されましたが、場外車券売場が競輪場外とともに船橋競馬場の駐車場に開設されています。船橋市には中山競馬場もあることを考えると、公営ギャンブルに非常に恵まれた土地であることが分かります。一般の船橋市民にそんなこと言ったら嫌な顔をされそうですね。

 

また、船橋競馬は「強い船橋」と呼ばれ続けていると自称しています。規模と比較すると騎手層が厚く、森泰斗や仲野光馬など名手もいます。Wikiには「南関東4場の中でも「船橋所属」の騎手は(各場の勝ち頭クラスの騎手でない限り)一つ格上として見られることが多い。」とありますが、まぁそのくらい「強い船橋」だということです。

さらに、日本のホースマンの始祖とされる函館大経の函館一族の者が調教師として在籍する全国唯一の競馬場であり、凾館一昭調教師が在籍しているそうです。第1回東京優駿の優勝騎手である函館孫作も戦後、この競馬場に厩舎を置いていたそう。

函館一族が初耳すぎてなんのこっちゃなのですが、函館大経さんという明治時代の方が馬術振興を頑張って、その門下生が日本競馬界にいっぱいいるそうです。その中で函館姓を名乗るのは凾館一昭調教師だけということです。本当は凾館師の管理馬を応援したいところでしたが、この日は出走無し。地方競馬の調教師事情には疎いですが、あまり管理馬も多くないようです。

 

10レース・ベゴニアスプリントでは7人気22.9倍のトーケンマッキーが勝利。なんと友人がこれの単勝を500円握っていやがり、見事に万馬券となりました。あ〜うぜ〜!!!という気持ちを押し殺しつつ「やるじゃん!」というのが競馬ファンのマナーです。降着にならねえかなぁ

 

なんてやっていたらメインレース、JpnⅡ日本テレビ盃が近づいてきました。日本テレビ盃は1954年から続く伝統ある競走で、秋の本番を見据えて有力馬が出てくる、砂の毎日王冠的なレースです。一着馬にはJBCクラシックへの優先出走権が付与されるRoad to JBC指定競争でもあります。

僕の本命は3ノットゥルノ。金子真人と心中。あと笹川翼を信じてジュランビルも買いました。

 

レースは1フルデプスリーダーがゲートで暴れて競争除外。某掲示板には武史が鞍上で淫語を囁いたからだとか書かれてましたが、まぁ無事そうで何よりです。

予定より遅れてスタート。3ノットゥルノは前々の競馬で4コーナー一杯。目も当てられない。今日は差し馬が届くんよ。見事に差し切りが決まり、9フィールドセンスが地元馬として久しぶりの勝利となりました。クソォ

 

レース後にはインタビューと表彰式がありました。藤岡佑介似の本橋騎手が長い表彰式を終えファンにも対応していましたが、本橋騎手は12レースも騎乗がありました。武史の淫語のせいで発走が遅れてましたし、その上表彰式も非常に長かったので本橋は最終レースは切りだなと思っていると本当に10着でした。ボケ

 

同行した友人は地方競馬が初めてで、曰く「馬との距離が近く楽しい」とのこと。スタンドが完成すればかなり楽しいテーマパークになるんじゃないでしょうか。以上、船橋競馬観戦記でした。

 

 

余談1 千円サコッシュ

 

先着のサコッシュは貰えませんでしたが、抽選会でゲットできました。抽選会は1000円以上の船橋の馬券1枚ごとに1回ガラガラ回せるということで、意気揚々とノットゥルノ複勝を1000円買ったわけです。サコッシュに1000円払ったと思い込むことにしています。

 

余談2 勝負服

 


入場門に、船橋所属騎手の勝負服が飾ってありました。いつの日か筆者も自分の勝負服を飾ってみたいものです。しかしながら、袖の飾り方がなんか、肩をすくめているみたいでダサいなぁとも思いました。

この中では山中騎手のものがいっちゃんカッコいいです。

 

また、船橋競馬所属の山﨑誠士騎手は騎手服が赤一色でカッコいいです。貴族みたいですね。ゴドルフィンみたい。


また、大井所属の菅原涼太騎手は7枠ということもあり、オレンジの勝負服が映えていました。地方にしかない色ですからね。


余談3 馬主

筆者は人混みが嫌いで、それもあって地元大分に帰るわけです。焼き鳥屋の長蛇の列に並んでると、来賓席?馬主席?から誰かが見下してやがりました。いいなあ。そっちになりてえよ、と思いました。


余談4 ナイター競馬撮影

初めてナイター競馬を撮ったんですけど、やっぱ暗すぎますね。シャッタースピードは最低限1/800を確保して、Fは全開となるとISOは3200でも全然暗いです。

パドック撮影に専念した方が良さげかもしれませんね。

2022年9月27日火曜日

「レア震源地」を紹介したい【震央地名】

 地震、怖いですよね。

揺れた!Twitterに集合だ!となって、探すツイートと言えば例えばこんなものではないですか?


 【緊急地震速報 第1報 2022年8月22日】

13時37分頃、茨城県南部を震源とする地震がありました。今後の情報に注意してください。


あ〜やっぱね。揺れたもんね〜。

じゃなくて。今回はこれに注目したいんです。

 

 【緊急地震速報 第1報 2022年8月22日】

13時37分頃、茨城県南部を震源とする地震がありました。今後の情報に注意してください。


「茨城県南部」って、どこ?


う〜ん、つくばは南部だね。水戸は北部かな。霞ヶ浦は、まぁ担当者ごとに気分で決めようか、とはなっていません。

日本の震源の名前(「震央地名」という)は、地図であらかじめ定められており、全部で292個の領域があります。

 

地震情報で用いる震央地名(日本全体図)

 

例えば、東日本大震災の震源「三陸沖」は耳馴染みがあるんじゃないでしょうか。

また、東京に住んでいる人なら「東京都23区」や「茨城県南部」はよく聞くでしょう。

 

では、逆にあまり聞かない「震央地名」にはどんなのがあるんでしょうか。

これを読めばあなたも「震央地名」通!地震がある度に震央地名を見て、レア震源地を見つけて嬉しくなりましょう。

 

「レア震央地名」については、実は先哲がいました。

奇抜な地震カウント集と地元の地震ブログさんの「日本の地震で観測数が少ない珍しい震源集」は、Googleスプレッドシートに移行して現在でも震源地別にカウントを続けています。


これがなければどれだけ筆者の作業が増えていたか。有り難く巨人の肩に乗って、2022927日現在で「過去10年以上(日本国内の地震計で)有感地震がない」震央地名をリストアップしながら、ボチボチ補足していきます。


 

○北海道

(画質が悪くてすいません)


後志地方東部 後志地方西部

上川地方中部 石狩湾

 

北海道は概して地震が少なく、5年以上地震がない震央地名も多かったです。

光り輝くのが「後志地方西部」で、なんと50年以上も出現していません。

リストの地名は単に震源地じゃないだけで、他所で起きた地震では揺れています。しかし、ここにランクインしてくる地名ともなると、やはり周囲でも地震が起こりにくいことが多いです。

「後志地方西部」の泊村には北海道唯一の原発が立地していますし、「上川地方中部」にほど近い滝上町と西興部村は平成の間に震度2以上の地震がありませんでした。

 

○東北地方


秋田県沿岸南部 山形県庄内地方

 

東北は地震が多いイメージですがそれは太平洋側の話。日本海側では地震が少ないことがよく現れています。秋田・山形の県境を跨ぐ沿岸部では地震が少ないようですね。

 

○関東地方(小笠原を除く)

(「東京都多摩西部」の42ヶ月が最長)

 

関東地方は他地区と比べて領域あたりの面積が小さいですが、それでもほとんどの地名で地震が頻発していました。東京に住んでからめちゃくちゃ揺れます。

Twitterで東京の人ばっかり「ゆれ」「ゆれ」言ってる気がしますが、単純に地震がメチャ多いんですね。さっさと遷都しましょう。

 

○北陸東海地方

(「駿河湾南方沖」の65ヶ月が最長)

 

この辺は逆に領域あたりの面積が大きいようで、この結果は妥当かと。

ちなみに補足しますと、当たり前の話なんですが、海で起こった地震はなかなか有感地震になりにくいですから、ちょっとズルイです。つまり、「東京23区」が震源の地震はM2.0でもどこかで「震度1」になる=有感地震にカウントされるけど、「駿河湾南方沖」でM2.0の地震があっても多分陸上では揺れない=有感地震にカウントされないということです。

海地名はズルしてレア度を上げています。

 

○近畿地方

○中国四国地方

兵庫県北方沖

島根県沖 鳥取県沖 隠岐島近海

 

中国地方の日本海沖一帯は全然地震が起きていないということが明らかになりました。

先ほど海地名のネガキャンをしましたが、ここら辺には隠岐島がありますから、多分本当に地震が少ないんでしょうね。流石に隠岐島にも地震計くらいあるでしょう、多分。

 

○九州沖縄地方


南大東島近海 沖縄本島南方沖 石垣島南方沖

 

九州本土では地震は少ないけど一定のペースで起きているという感じでした。熊本は熊本地震の余震もあってか、多くなっています。

沖縄地方では先ほどの中国地方と同様ですね。大東諸島はあるけど有感地震は起きていないということです。

 

○日本広域

鳥島東方沖 千島列島南東沖 北海道南東沖

本州南方沖 黄海 朝鮮半島北部

中国東北部 シベリア南部 フィリピン付近

 

日本広域には概ね領海外と小笠原諸島が分類されています。

そもそも領海外ですから人がおらず、有感地震が起こりにくくなっています。

また、例えば「シベリア南部」で地震が起きると「日本の地震計」は揺れなくとも「ロシアの地震計」は揺れているはずですが、それはノーカウントです。

ですからそもそも全部がレア震源地です。「四国沖」だけは南海トラフの関係で頻出ですが。

 

以上、レア震央地名を見てきました。全体として日本海側がやはり震源地となりにくいことが分かりました。皆様も防災に備えて楽しい震央地名ライフを!それでは。

 

おまけ1 変な震央地名

宮崎県は県の震源地名4区分を南北と「山沿い」「平野部」の組合せで表しています。

292の震央地名のうち、地名に「ひらがな」が入るのは「宮崎県北部山沿い」「宮崎県南部山沿い」、さらに東日本大震災の余震が頻発する「福島県中通り」「福島県浜通り」の4つだけです。

宮崎県は全域が日向国だったので「薩摩」「大隅」のようにできず、さらに東西南北で表しにくいから、地形を活かしたのかなと思います。「中通り」「浜通り」はまだ一般的に使われる地域名称なんですけどね。

ちなみに宮崎県の4地名では年イチくらいで地震起きています。

 

おまけ2 M0.9以下の有感地震

普通マグニチュードの相場といったら3くらいじゃないでしょうか。知らんけど。

しかし、震源が激浅で地震計のそばで揺れた場合にはマグニチュードが1以下でも地震が起こります。その直近の例が大分県でしたので、紹介したいと思います。

先述の「日本の地震で観測数が少ない珍しい震源集」の最下部にありました。

(気象庁地震分布データベースより)


大分県中部

2018112日 22:05 M0.8 震度1

2022年9月24日土曜日

藤原純友の足跡を辿る【前編】

台風が列島を襲ったり襲わなかったりする今日この頃、いかがお過ごしだろうか。筆者は台風に襲われ、待望の寝台特急サンライズが運休となってしまった。オエエエ

それでも頑張って四国をブラブラしてきたので、ぜひご笑覧ください。

 

☆筆者は藤原純友で卒論を書いている真っ最中。記述が概ね学術論文に基づいている点で、そんじょそこらのブログとは違うぞということは表明しておきたい。

(とはいえ、専門外の内容には好き勝手言っていることに注意されたい。)

 

本作では以下の場所を訪ねた。

・中野神社(新居浜市種子川)

・伊予国府跡(未確定)(今治市上徳)

・日振島(宇和島市)【後編】

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朝の3時ごろ、豪雨で目覚める。台風14号がようやく関東まで来たらしい。

東海道新幹線の運行予定は「大幅な遅延が生じる可能性が高い」とのこと。だがサンライズに乗れなかった今、ともかく一番速い新幹線に乗ることが重要なのだ。この旅行に避ける時間は二日しかない。48時間を目一杯に使いたい。

 

こうした考えから、先行き不透明なまま始発で東京駅に向かった。台風の日の始発なんか誰も乗っていないと思ったが、結構な数の高齢者が乗っていた。丸の内線乗換で皆が席の確保を目指しせかせか歩いていたのが、案外滑稽な姿だった。プロジェクトXのオープニングだろこれもう。

 

東京駅に着くと、このページに従って東海道新幹線の乗換改札まで急ぐ。着いてみると果たして、JR東海決死の安全確認により新幹線は始発から平常通り運転とあった。滅茶苦茶安堵。

株を買ってあげたいくらいの気持ちになりながら、とりあえずは切符を買った。


のぞみ1号は東京駅6:00発。この時点で時刻は5:32。始発駅だし指定席を買うのもバカバカしいので自由席にしたが、いざ改札を通ってみると、案外人がいる。台風の翌日の始発列車、もしや混んでる?

不安になり慌てて自由席3号車までスプリントをする。こんなことなら指定席を買えば良かった。ロードカナロアもびっくりの東京駅レコードを叩きだして3号車に滑り込むと、果たしてガラッガラであった。二列に一人くらい。良かったぁ

 

新幹線は定刻通り発車。車内はだいぶ混み合い、ACE席は全て埋まった。

一息ついたところで、「藤原純友」について紹介したい。

中学の教科書にも登場する純友について、

「承平年間から日振島を根拠地に海賊活動を行い、遂に天慶二年、平将門の蜂起に呼応した」

という従来の説は、現在では否定されている。

現在の主流の見解は

「承平年間の純友は京から伊予に派遣され、海賊を追捕(逮捕)する側であった。追捕に成功したが、その過程で海賊と交流を深め、何らかの経緯で天慶二年に乱に至った。」

というものだ。

つまり承平年間は海賊活動を行っていないので、これら乱を「承平・天慶の乱」と呼ぶのはちゃんちゃらおかしい。現在では教科書にも「天慶の乱」と記載されている。

今回の旅は、そんな彼の旧跡を、史実も伝承もまとめて辿ってみようという試みである。

 

岡山駅で松山方面の特急しおかぜ5号に乗り換える。四国各方面の特急が岡山に集約されているのは本当に便利だと感じた。

列車は瀬戸大橋を渡る。児島駅を過ぎてすぐ左手に見える2つの島がある。左の小さいのが松島、奥の大きいのが釜島で、どちらも藤原純友に関係する。今回は日程の都合上訪れることができず残念である。

といっても、これらの島々と藤原純友との関係は史実では無い。

純友の活躍を描いた有名な絵巻に『楽音寺縁起』があり、その中で釜島は純友の根拠地とされている。楽音寺縁起自体の内容が通説と大きく異なるので、この釜島での活劇も虚構だと考えられてきた。

 

しかし、純友研究の権威である下向井龍彦氏は近年この『楽音寺縁起』に描かれる「藤原純友」は、純友の配下であり備前で大暴れした「藤原文元」のことではないかという説を唱えている。(1)

釜島には『楽音寺縁起』を背景に藤原純友伝承が残り、ついでにその隣の松島には純友神社が建てられている,

というわけである。

 

ダイヤ乱れの影響で、しおかぜ号は多度津止まりとなってしまった。そんなことあるんだ。一旦昼食をとることで混雑を避け、後続特急に乗り換えて新居浜駅に着いたのは13時過ぎだった。

駅の駐輪場で自転車を借りる。筆者は「秘境の旅人」を僭称しいかにも旅慣れた感じを出しているが、レンタサイクルを使うのは実は初めて。自転車に乗るのもほぼ高校時代ぶり。3段変速を操れず、すぐに脚があがってしまった。


片道五キロを漕ぐと、別子の山々が迫ってくる。新居浜はかつて別子銅山で大いに繁栄し、今なお住友グループの企業城下町として栄えている。だが、今回用があるのはそのスミトモではない。

 

自転車を停めて種子川集落を登ると、荘厳な神社がある。ここが「中野神社」である。

中野神社は藤原純友を祭神とする珍しい神社であり、新居浜の純友伝承の根拠となる場所である。

 

神社はもともとは背後の生子山(しょうじやま)にあったらしい。江戸時代の地誌『伊予二名集』に「此城往昔すみともか城と云、伊予掾純友籠りし所と云へり」とあり、ここから純友終焉の地という伝承も産まれたらしい。(2

中野神社の社は失われ、新高神社という神社の社殿だけ残されている。

その経緯は中野神社を訪ねたブログ『神は賽を振らない』さんの藤原純友所縁のお社巡り その三 新居浜市種子川 『中野神社』2010)に詳しい。(3)

この記事によると、中野神社を管理する新居浜市内堀江神社の宮司さんの話として

 

数年前(筆者註  2005-08年頃か)この地を襲った暴風雨で純友神社裏手の土手が崩壊、土砂崩れに飲まれて社殿は破壊されてしまったとの事。車内に奉られていた御祭神等は現在緊急避難的に新高神社内に奉られている

 

とのこと。つまり、新高神社の社殿に参れば純友にも参ったことになる。

 

ちょうど今日920日は純友の月命日である。

純友の安らかな往生と筆者の卒論成就を願った。

 


次の電車まで余裕が無いので、急いで自転車を漕ぐ。余談だが、実は新居浜にはかつて来たことがある。新居浜には世にも珍しいこんな標識があったのだ。

 

「並進可」

「自転車は二台並進しても良い」というあまりにもニッチな標識は、全国でも新居浜にしかなかった。(4)

住友化学の工場に自転車通勤する人が多かったらしいが、標識は2018年に撤去されてしまったよう。悲しい。詳細は次の記事を参照のこと。

道路標識「並進可」絶滅か 超レア標識、相次ぎ撤去のワケ | 乗りものニュース

 

そして筆者は、世にも珍しい道路標識オタクなのだ。訪問したのは2017年。筆者が道路標識に燃えていた時期であり、友人を引き連れて片道数キロを歩いた。新居浜、僕が見たいものをもっと駅チカに置いて欲しいところ。

ともかく、レンタサイクルを返却して松山方面の普通列車に乗る。ガラガラの鈍行はグリーン車より快適だ。体力を回復できた。

 

16時頃、今治駅の隣駅・伊予富田駅に着いた。ここでは伊予国府の跡を巡っていきたい。もっとも、伊予国府の場所は説が乱立し、正確な場所を特定できていない。おおまかな場所が分かっているのみだ。以下、『愛媛県史 地誌Ⅱ』(1986)より引用する。

 

醍醐天皇の時に作られたとされる『倭名類聚抄(和名抄)』には「伊予国、国府は越智郡に在り、行程上り一六日、下り八日」とあり、伊予の国の国府が越智郡にあったことはほぼ確かめられる。

 

越智郡とは現在の今治あたりのこと。現在の愛媛県最大都市は松山だが、古代の国府というのは国土のうち都に近い側に置くものだったらしい。

国分寺は現在も残っており、国府もその近辺にあったと考えられる。具体的な場所については次のお手製の地図を参照されたい。


当ブログでは(駅から近く観察しやすいので)上徳説を採る。上徳説の根拠は以下の通りである。これもまた『愛媛県史 地誌』からの引用である。やっぱり都道府県史におんぶにだっこですわ。(改行は筆者が行った。)

 

国分寺や国分尼寺に近いこと

伊曽乃神社の新居系図によれば、多くの新居氏・越智氏が在庁官人として付近に居を構えていること

小御門や閑ヶ内等の地名(ホノギ)から、国府の位置が推定できること

国分寺文書の中に見られる年中行事案に「拝志郷内正月修正田」とあるが、上徳に正月の転訛とする松ヶ月の地名が残っていること

一般に国府所在地の駅は国府の府頭に置かれることが多いが、当地では御厩を越智駅と比定し得ること

竜登川と銅川の合流する入江は河川の規模に比べて非常に大きく、人工的に開削された港(国府津)であったと推定し得ること

条里遺構がよく残り、周辺の遺跡から古代の遺構や遺物等が出土していること

 

は頷ける。はへぇという感じ。問題なのは③④⑤で、書いてある内容は面白いのだが、その地名がどこを指すのかが分からない!

これら地名はおそらく小字(こあざ)という一般的な住所表記では用いられていないものだろう。「実際に行って見て興奮して帰る」という営為を趣味にするものとしては、何とか探し当てたいところだった。しかし「小字は簡単には調べられない」ということに気付いたのが直前であり、今回は「松ヶ月」や「御厩」を訪ねることができなかった。これは悔しい!

なお小字に関してはこのブログが非常に参考になる。筆者も勉強するので、一緒に勉強しましょう!

ようこそ!地図に載らない小字地名の世界へ - ふれっしゅのーと

 

の国府津の件は後述。は、言われてみれば、条里制っぽい、気がする、かも?

ただし、上徳説は考古学的には現在のところ否定されているようだ。なんやねん。

 

さて、別に筆者は国府マニアではない。国府についてつらつら述べているのは、伊予国府と藤原純友には密接な関係があるからだ。

純友の生きた十世紀前半という時代は六国史も途絶え、もともと史料が非常に少ない。承平六年(936)以前の純友についてわかっていることは血統と「伊予掾だった」ということのみである。掾とは副知事のようなもの。純友は京から伊予に下り、国府で勤めていたことだろう。


伊予国府はまた、純友蜂起の最序盤の舞台であった。

『本朝世紀』天慶二年(939)一二月二一日条は、当時の伊予国司・紀淑人が書いたであろう伊予国解(地方国司が朝廷に宛てる手紙)を載せている。

 

前掾藤純友去承平六年可追捕海賊之由蒙宣旨。而近來有相驚事。率随兵等。欲出巨海。部内之騷。人民驚。紀淑人朝臣雖加制止不承引。早被申上純友。鎭國郡之騷云々。

 

筆者の拙い現代語訳を以下に載せる。

「前伊予掾の藤原純友は承平六年に海賊追捕の宣旨を下されていたが、最近驚くことがあった。兵を率いて瀬戸内海に打って出ようとし、伊予国中の人民が大騒ぎしている。紀淑人は制止したが、純友は承服しなかった。早く純友を召し上げ、国の騒ぎを鎮めて欲しい。」

 

純友と紀淑人は共同して「承平南海賊」の平定にあたり、その後数年間の伊予国経営も協力して行っていたと推定される。そんな盟友純友の出奔を、淑人は何とか抑えようとした。

「紀淑人朝臣雖加制止不承引」のやりとりは伊予国府で行われたことだろう。出奔した後も淑人は殺害を認める「追捕官符」ではなく「召進官符」を政府に要請するなど、純友に味方をし続ける。

しかしながら純友は天慶三年(940)八月に伊予国を占領する。それが武力を伴うものであったか、伊予国衙の勢力が純友に従って蜂起したのかは分からない。この時点で、紀淑人と純友は訣別した。その訣別もまた、伊予国府で行われたことだろう。

 

純友は伊予の勢力を結集して瀬戸内海に打って出た。先程の、国府津跡と考えられているのがこの入江である。確かに、河川規模に比して異様に大きいように思われる。純友は希望を抱いてこの入江から出奔した筈だ。その後、ここに戻る機会があったかどうかは分からない。しかしながら、その時には全ての希望は失われていたであろう。

 

駅に戻り、松山まで移動した。松山といわれて真っ先に思い浮かべるのは司馬遼太郎『坂の上の雲』である。そういえば、坂の上の雲で描かれる主役の一人・秋山真之は海軍戦術の天才であった。

日本海海戦でバルチック艦隊を打ち破った秋山は、大宰府艦隊を打ち破った純友と重なる。伊予の海は海軍の天才を育むのか、とか適当なことを考えながら快活クラブに直行。死ぬほど歩いたので死ぬほど寝た。


後編・日振島に続く

 

【註】

(1)下向井龍彦『物語の舞台を歩く 純友追討記』(山川出版社、2012年)、同『平将門と藤原純友』(山川出版社、2022年)など。

(2) 亀井英希「藤原純友伝承に関する一考察」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』六、2001年)

(3)このブログには先述した松島・純友神社の探訪記事もある。

また、中野神社関係の論文として井ノ口正明氏の「生子山と純友の伝説」(『郷土研究』一八六、1979年)があるので、興味がある方はぜひ。

(4)都道府県公安委員会設置のものとしては、という条件付き。 

 

《訪問メモ》

・中野神社

新居浜駅から4-5km。新居浜駅レンタサイクルは1500円。身分証必須。コロナ関係で貸し出しをしていない場合があるので、電話で確認すべし。

駅南口へはエレベーターと跨線橋が便利。

・伊予国府関連

時間があれば伊予桜井駅から国分寺などを見て歩くのがよい。

富田駅から国府津までは片道2.5キロ。大きい道路を信号無しで横断する場面が複数回あるので、時間に余裕を持った方が良い。


【その他参考文献】

愛媛県埋蔵文化財センター「伊予国府研究史 推定地諸説と研究の現状」

http://www.ehime-maibun.or.jp/sell/app/static/images/sample_03iyokokuhu.pdf