2023年11月20日月曜日

学生猶予、追納する?投資する?

 一定の収入以下の学生は、学生である間、国民年金の保険料納付が猶予されます。その額は大体40万円です。

これはあくまで「猶予」なので、その後「追納」するかどうか、判断を要するわけです。


大前提:追納は義務ではない。


追納は義務ではありません。追納しなければ、その分ジジババになった時の年金支給額が減るだけです。

実際、日本年金機構のサイトには「​​将来受け取る年金額を増額するためにも、追納することをお勧めします。」と、控えめな表現がされています。


追納すべきか?自分で増やすべきか?

結論から書きます。



結論

・長期投資ができるなら投資せよ。

長期投資の方が「勝つ」蓋然性が高く、メリットも多いからです。

「長期投資ができる」とは、一定の余裕資金が別にあり、かつ、暴落時に売ってしまわないメンタルを持つことを意味します。

・追納するならなるべく早くせよ。

3年以上経つと、加算されるからです。

また、そもそも、10年以上経つと、追納できません。


以下、「追納」か「長期投資」の二者択一で考えます。浪費癖のある方は帰ってください。

それぞれ、何が起きるか書いていきます。


・40万円を追納する

→社会保険料控除で約8万円(高所得者はもっと)返ってくる

→年金受給が開始すると

(追納した月数)/480×(その年の老齢基礎年金額満額)

がもらえる。

(追納していない場合は貰えないのは当たり前)


・40万円を長期投資する

→平均年利数%で増えていく


これをグラフにしたものが、以下になります。

2000年生まれの人が、2023年に40万円を追納なり投資なりした、という内容です。


追納(受給額固定):追納によって増加する受給額が今と変わらずずっと4万円であるとしたグラフです。2024年に社会保険料控除で8万円が返ってきて、2065年の年金受給開始から、追納分が毎年4万円ずつ返ってきます。

追納(受給額単利1%増加):追納によって増加する受給額が、2023年の4万円から毎年1%ずつ(400円ずつ)増えていくという希望的観測をした場合の受給額です。例えば、2065年の追納分年金受給額は57200円、2066年の追納分年金受給額は57600円です。

年利n%複利運用:文字通りです。


このグラフを見ると、まあまず投資した方が「勝てる」ことが分かります。

一応、2087年に「追納(受給額単利1%増加)」が「年利2%複利運用」を上回りますが、はたして年金が毎年1%増える経済環境で、投資年利が2%しかないことがありえるでしょうか?

年金がそんなに景気がいいなら、投資年利ももっと良いでしょう、多分。


投資のメリット

・平均年利2%程度が出せれば得をする。

(参考:全世界株式の過去30年平均利回りは7%)

・早死にして「払い損」がない。

・追納した場合と比べて、証券口座に32万円+利息が余分にあるので、必要な時(事故、住宅ローンの頭金)に例外的に使うことができる。年金は引き出せない。

・年金制度の改悪を回避できる。

・猶予期間は追納しなくとも納付済期間とみなされるので、障害を負っても障害基礎年金はもらえる。

(追記:納付済期間とはみなされませんが、実質的に納付済期間と同じ扱いを受けます。障害基礎年金の保険料納付済期間と同様の扱いを受けますし、猶予期間は老齢基礎年金の受給資格期間にカウントされます。)


投資のデメリット

・長期投資が前提であること

浪費癖がある人・暴落に耐えられない人は、おとなしく追納した方が、老後のために良い。

・元本割れのリスクが、一応、なくはない。

・長生きするほど、年金額が追い上げてくるのが、嫌な感じがする。



追納のメリット

・放っておいても、納めた40万円が80歳くらいで80万円になる。

・毎月の年金額が増えて嬉しい。


追納のデメリット

・年金制度はほぼ確実に改悪されるので、そのリスクを負う。

言わずもがな。

・3年以上後から追納すると、若干加算される。


保険料の免除もしくは納付猶予の承認を受けた期間の翌年度から起算して、3年度目以降に保険料を追納する場合には、承認を受けた当時の保険料額に経過期間に応じた加算額が上乗せされますので、お早めの追納をお勧めします。

(「国民年金保険料の追納制度」)


・追納手続が面倒臭い。

年金事務所で手続きして追納した後、社会保険料控除を確定申告(年末調整)する。



2023/11/24追記
追納して受け取る年額4万円の年金は、雑所得として課税されます。そのため、人によりますが、4万円より目減りします。

2023年11月10日金曜日

イギリス領アデン

 


エウダエモン・アラビアはかつて一人前の都市であった。

インドからの船はエジプトに行かず、エジプトの船もあえて遠くには行かず、ここまでしか来なかった。

『エリュトゥラー海案内記』



イギリス領アデンは、1937年から1963年まで存在したイギリスの直轄植民地である。

1839年にイギリス東インド会社がアデンを支配して以来、インドの一部として統治されていたが、1937年に直轄植民地となった。

1967年に南イエメンの一部として独立し、アデンはその首都になった。


アデンはアラビア半島の最南端に位置し「幸福なアラビア」と呼ばれるほどに中継貿易で繁栄した。

鄭和も訪れており、その記録には「阿丹」と記されている。

ポルトガル、オスマン帝国、エジプトの支配を受けた後、1839年にイギリスが海軍基地を置き、アデン港とその後背地を支配した。




イギリスにとってのインドの価値は言うまでもない。その連絡航路に、アデンはあった。ゆえにアデンはインドの一部として統治されていた。

地政学的に重要とされるチョークポイント・マンデブ海峡の近くにまた、アデンはあった。


直轄植民地となって以降もアデンの栄華は変わらなかった。アデン港は東西貿易の要として、或いは燃料補給の地として繁栄を極め、1955年にはニューヨークに次いで世界で二番目に寄港する船が多い港となった。

しかし民族自決の波には抗えず、1963年にアデンは南イエメン連邦に加盟した後、イエメン人民民主共和国・通称南イエメンとして独立した。イギリス連邦には加盟しなかった。

南イエメンは人民民主共和国の名前が示すようにバリバリの社会主義国家であり、アラブ世界やインド洋地域におけるソ連の足場となった。そしてソ連の崩壊とともに、北イエメンと統合した。


直轄植民地の旗には、世界史でお馴染みのダウ船が描かれている。

ちなみにダウ船は現在でもペルシア湾内交易などで使用され続けているらしい。



アデン植民地の1s切手(紫のもの)には、ご丁寧にそのダウ船の建造の様子まで描かれている。ダウ船の建造について、Wikipediaによると「外板を固定するための釘を一切使わず紐やタールで組み立てることが特徴」とのこと。流石にそこまでは図案からは読み取れない。

50セント切手にはアデン植民地の地図が描かれている。これを見れば、立地に恵まれていることが(嫌味なほどに)一目瞭然である。


インドの一部として統治された経緯から、独自の貨幣は発達しなかったようだ。一部、インド硬貨に加刷したような硬貨が確認されており、欲しい。


関連リンク

World coins chat: Yemen, South Arabia, and other Yemenite states

イギリス植民地帝国(準備中)



2023年11月4日土曜日

コンゴ自由国(ベルギー領)

 

「コンゴ自由国という名の私有地を持つベルギー国王レオポルド2世の私腹と彼と結託した各民間会社の金庫はいやがうえにも膨れ上がり、それに反比例して、コンゴの先住民社会は疲弊し、荒廃し、その人口は激減していった。

……正確な数字の決定は望めまい。」

<藤永茂『『闇の奥』の奧』>



コンゴ自由国は、1885年にベルリン会議で承認された国である。

しかし、その実態はベルギー国王レオポルド2世の私有地であった。

近代において、王が国を「所有」する中世的な事態が生じたことが興味深い。

ノルマ未達成で手首切断などの苛烈な支配が国際的な批判を巻き起こし、結局1908年にコンゴ自由国はベルギー領コンゴに移管された。



レオポルド2世は、ヨーロッパの小国が列強と対峙するには、列強と同様の植民地を持つことが必要と考えた。

隣国オランダの東インド経営に刺激を受けたと思われる。

彼は列強の支配が及んでいないところとしてコンゴ盆地を見つけ出した。

この領有がベルリン会議で認められ、ベルギーは本国の約80倍の広大な植民地を持つ植民地帝国として存在することとなった。

結局、苛烈な支配の末に、正式にベルギー領へと移管されたことは、先述した。


なぜコンゴ自由国は初めからベルギー領としてある意味通常の支配がなされなかったのだろうか?

これには、先代・レオポルド1世のハワイ戦略から考える必要がある。

レオポルド1世が即位した19世紀前半は、既に列強は潜在的な植民地を獲得しつつある時代であった。ここでレオポルド1世はハワイの領有を巡って現地会社ラッドアンドカンパニーと交渉していたが、ラッドアンドカンパニー側の財政事情で頓挫してしまう。「ベルギー領ハワイ」は幻に終わったのだった。

レオポルド2世は1世の息子であり、父の影響を多分に受けたものと思われる。そういうわけでレオポルド2世も植民地獲得に意欲的であった。

しかし、今度はベルギー政府が財政難を理由にこれを拒絶した。植民地はカネがかかるのだった。

こういう理由で、コンゴ自由国は国王の私領となった。


ベルギーの植民地は他にも僅かにあるが、コンゴはその中でも特に広大なものであり、また特に富を産出したことは議論がなかろう。



コンゴ自由国10サンチーム銅貨

コンゴ自由国の通貨単位はコンゴフランで、ベルギーフランと等価であった。

意匠はヒトデのように見えるが、コンゴ自由国はほとんど海に接していないし、おそらく国旗と同様の五芒星をデザインしたものと思われる。

裏面には

”LEOPOLD II ROI DES BELGES SOUV.DE L'ETAT INDEP.DU CONGO”

のレタリングがある。

”L'ETAT INDEP.DU CONGO”はフランス語で「コンゴ独立国」であり、「自由」の文言は含まれていない。

ベルリン条約第1条で​​​​コンゴ川流域は自由貿易とすると定められていることを意識した他称が「自由国」であり、自称はあくまで独立国であったことが、この銅貨から読み取れる。

自由とは自由貿易を意味し、住民が自由というわけではなかったことは、散々先述した。

紙幣は発行がなかった。

銅貨としてはかなり大型であることが、お気に入りポイントである。


コンゴ自由国のnumista(硬貨)

ベルギー領コンゴ(準備中)

ベルギー植民地帝国(準備中)