2019年5月4日土曜日

第三夜

 秘境の旅人の朝は早い。僕は常にそう言い続けて4時起き5時起き上等な旅を行なってきたが、今朝は例外だった。6時に優雅に起き、適当に支度をして6時半頃にホテルを出た。窓の様子からてっきり雪だろうと思ったが、今朝は雨だった。らしくないじゃないか、北海道。そう呟きながら駅へ向かった。
僕がいくら優雅な朝だと言っても世間的には早朝なわけだが、帯広駅ではもう既に駅弁が売り始められていた。名物の豚丼の駅弁を買って3番のりばの列車に乗り込む。
始めはそうでもなかったが、次第に通勤・通学の乗客が増えてきた。適当にほっつき回っている身としては、なんとも肩身が狭い。さらに、普通列車もほとんど止まらないような辺鄙な駅で降りるというのだから最悪だ。車両の乗客全員が怪訝な目で、立ち上がる僕を見つめる。
旅を始めた頃は、この視線はなんとも耐え難いものだった。悪いこともしてないのに謎の罪悪感に襲われる。しかし最早秘境の旅人たる僕はこの視線に慣れ、むしろ旅人としての誇りすら感じていた。チャオ、皆さんお元気で!なんて思いながら降りる。

降りた羽帯駅は林の中の駅だった。近くの国道を除けば、在るものは木々と雪原、鉄路のみ。惜しくも来春(2018年春)には廃止が決まっているこの駅は、やはり期待通り非常に長閑な駅だった。直近の雪が降ってから駅に降りるのは僕が初めてのようで、ホームに降り立つと新雪に足型が付く。歩けば足跡が残る。歩くのが勿体無い、なんて初めて思った。
駅ノートを書きながら1,2本の通過列車を見送った後、札幌方面新得行きの普通列車に乗り込み羽帯駅を脱出した。春にはこの駅は林に還る。今僕が居た空間はただの鉄路となり、もうそこに訪れることはできない。春は別れの季節だ。

新得で折り返し、釧路方面の列車に乗る。出発まで構内を歩いていると、作業員が二人、スコップでホーム上の除雪を行なっていた。北の大地で鉄路を維持する大変さが思われ、実状を知らず南の九州でJR北の駅廃止策に苦言を呈すだけの自分の愚かさが思い知らされたと同時に、こういう実状との出会いが旅で得られる成果だ、とも思った。若き日のチェ・ゲバラが思ったように、僕も思う。もっと旅をしなければ、世界を見なければ……。

帯広を過ぎると、列車は広大な大地を走り始める。遠くの林が地平線を隠す、そんな車窓だった。霧が立ち込め、やがて右手に海が見える。低気圧で荒れた日本海を眺めるうちに、尺別駅に着いた。
跨線橋に上ると、強風が身を打つ。どこまでも白い空と、荒涼とした大地。人が住むには険し過ぎたのだろう、駅前には骨組みだけになった民家の廃墟が数軒点在する。尺別はそんな場所だった。
特急との交換を済ませた普通列車が去ると、何者の気配も消え去る。地球に一人取り残されたような気分で周辺を散策した。
荒れた草原の中の獣道を進むと、海に出た。海風が草を薙ぎ倒し、雪を溶かす。砂浜には荒れ狂う日本海の熾烈な波が襲い、流木が打ち付けられていた。行ったことは無いが、北極海沿岸などもきっとこんな様相なのだろう。
日本の最果てに来てしまったのだな、と心から思った。

砂浜で写真を撮るのに夢中になり、大きな波が迫るのに気が付かなかった。ええい、ままよ、乗るしかない、このビッグウェーブに!というわけにもいかずに命からがら波から逃れるも砂浜に足を取られ、結局靴がどっぷりと浸水してしまった。ぬちゃぬちゃと駅まで歩き、必死に乾かした。そんなバカなことをしている間に、だんだんと日が差してきた。
尺別に似つかわしく無い高規格な道路をしばらく歩くと国道に出た。トラックが猛スピードで脇を通り抜け、一台通る毎に寿命が縮むような思いだった。道路脇で行くべき場所を探り、暫く彷徨った末に遂に辿り着いた。
眼下には広大な原野が広がっていた。先ほどの尺別駅も遠く見える。白い雲は東の彼方に去り、代わって青空が延々と続いていて、僕が好きなオレンジ色の午後の太陽光線が世界を温かく包んでいた。静かな世界を一瞬特急が横切り、僕のカメラが子気味良い音を数度鳴らし、そして全ては元に戻った。



尺別の隣の音別駅まで歩いて、列車に乗った。音別駅には青色のニットを忘れたので、今も忘れ物入れに飾られていることだろう。列車は相変わらず日本海沿いを走る。夕暮れの黄金色の太陽光を海が、波が跳ね返す風景。旅をしていて良かったと思える至福の時である。やがて古瀬駅に着いた。

駅に着いた頃には、気が早い北海道の太陽はもう沈みかけ、暗くなっていた。古瀬駅にあるのは保線用の小屋だけ。ホームは木造で、待合は無い。何も無いのだ。
なんてつまらないのだろう、僕はそう思ってしまった。僕が求めているのは『広大さ』なんだと知る。薄気味悪い森の中に取り残された駅と僕、それはそれで趣があるが、僕が求めているものとは少し違う気がするんだな。
なんとかせねば、そう思いがむしゃらに駅前の道を歩き進む。暫く行くと、広い場所への入口があった。一瞬躊躇われたが、広大さを巡る先程の逡巡を思い出し進むことにした。
WindowsXPの丘みたいな場所に出た。もう日は暮れたのだろうが、ピンク色の雲が空を流れる。あの丘の向こうから、雲が生まれているように思えた。丘の向こうに進みたい衝動に駆られたが、周囲が本格的に暗くなったので駅に戻った。
未知のままにしておくのも良いだろう。謎は謎のままが良い、とも言う。

釧路に着いた。秒速24mの暴風が吹き荒ぶ中チェックインし、クリスマスの夜を一人で過ごす。気掛かりは明日乗る予定の列車が強風で止まらないかどうかだけで、クリスマスに一人で過ごしている虚しさなど気付きもしなかった。