2019年6月25日火曜日

東大受験体験記

これは筆者が20192月に東京大学を受験した記録である。

個人的回想を多分に含むが、ノンフィクションであり、幾らかは受験戦略に役立つことも書いてあると思うので、そこだけでも読んでいって欲しい。

(2022.10.6 加筆訂正の後再公開)

 

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中国共産党の指導者鄧小平は人生で三度失脚したという。長征時、大躍進政策時、そして第一次天安門事件の時。

だが、彼は三度復活した。そして現代中国への道を切り拓いた。

 

2019年、2月。

ただひたむきに必死に演習を重ね東京に乗り込んだ「僕」は、しかし、三度倒れた。

だが、三度立ち上がった。時に人の助けを借りながら、僕は立ち上がった。

ありがとうを、君に。

ありがとうを、全ての人に。

 

 


試験前日の朝。これまで続けてきた始発登校・23時睡眠のおかげで生活リズムは完璧で、普通に早起きできた。高校入試の前夜は寝付けなかったものだが、今回はとにかく睡眠を希求していたのですぐに寝ることができた。大学受験は三大欲求との戦いだ、僕は概ね全ての欲に毎日敗れ続けたが……


 地方から東大を受験しに行くのは受験「旅行」だ。サブバッグには着替えや歯ブラシ、カイロ、マスクなど細々としたものを入れ、いつも使っていたリュックサックには勉強道具を詰め込んだ。何なら少しサブバッグにも参考書を詰め込む。


 詰め込んだ教材は鉄壁とまだ解いていない東大オープンの過去問、青本東大世界史25カ年や、「去年出たから出ないだろう」という考えから解いていない2018地理を一応持っていった。これら『最後の足掻き』グッズに加え、御守りとして恩師に出し続けてきた添削ノート、奇跡的に満点を取った夏の東大実戦数学の問題用紙、書き込みまくった地図帳、原研哉『白』、そして近所の神社の御守りそのものもカバンに納めた。


 意気揚々と駅まで自転車を漕ぎ、電車ではキムタツの東大リスニングのピンク色をやった。これまで30日間、毎日1問ずつ解いてこの日に完結した。自信を高めて学校に行く。


 僕の高校は各地方に受験引率の先生が付いてくれ、さながらツアー旅行のようだった。広島方面のバスの隣に我らが関東方面のバスがあり、空港まではそのバスで行った。後で聞いたところによると、広島方面の受験団はそのバスで8時間かけて広島にそのまま突っ込んだそうだ。地方生の大学受験には限界旅行が伴うリスクがある。


 JALで東京まで行く。僕は北海道まででも新幹線で行くタイプなので飛行機は滅多に乗らないのだが、それが仇となったか、着陸前から耳が急激に痛くなった。着陸後も痛みは続き、空気が入ったように音がくぐもって聞こえる。「リスニング試験の詰み」を感じ必死にネットで調べ、空気を抜こうと試みる。昼食は理系の友人と食べたが、化学の会話をされたので耳がクリアでも何も解せなかっただろう。


 母校御用達の新宿のホテルにチェックインした後、高校OBの東大生に案内され文系志望4人と共に駒場試験場へ下見に向かった。

 歩いていると代ゼミタワーが見え、次いで巨大な新宿駅に圧倒された。山手線に乗ったらしいが、今自分がどの方角に向かっているのか全くわからない。少しして渋谷駅に着き、京王井の頭線に乗り換えた。僕は、駒場が渋谷に近いということさえ知らなかったのだった。


 駒場東大前駅には駿台や河合塾の受験生応援広告が掲示されていた。ある先生は「予備校は、本当は受験生に落ちて欲しい癖に」と言っていたが、僕としては、結局落ちる人数は同じわけなんだから、予備校は善意で予備校生はもちろん全受験生の健闘を祈っている、と信じたいのだった。


 昼下がりの駒場キャンパスは閑散としていた。受かったら、二年間通うことになるキャンパス。銀杏並木も枯れ果てていたが、銀杏の金色をこの秋に見てやろう、と闘志が沸き上がった。KOMCEEや生協の建物の真新しさに驚いた。


 先輩に1日目がどうあろうと関係ないから最後まで頑張れ、と助言を頂きつつ帰途に着き、ホテルで夕食を食べた。校長や学年団の先生方に応援の言葉も頂き、一層やる気になった。寝る前に、東大では無いが同じく関東方面の某大を受験する彼女に会い、互いに励まし合い就寝。やはり、すぐ眠ってしまった……

 

 


僕が東京大学を本気で志したのは、確か高二の冬休みだった。遅い方だと思う。というのも、僕はそれまでは大して東大に興味はなく、写真への熱い思いから東京藝大の芸術学科(或いは先端芸術表現科)を志していた。とにかく東京で写真を撮りたかった。そして高二の夏に、東大のオープンキャンパスに行くと言って東京藝大のキャンパスを見に行った。だが、何かが違う……。そもそも僕は写真が好きであって、芸術は好きではないのではないか。しかし、だからと言って芸術を諦め東大に行くのは妥協、逃げではないのだろうか……。

 

 そうした青臭い葛藤を払拭するのに秋を費やし、ようやく東大志望を決意したのが冬休みだったというわけだ。成績はさして悪い方ではなかったが、なにせ藝大志望だったためにそれまで数学の授業を放擲してきたのが痛かった。特にベクトルなどは全授業で寝てしまっていたため、当然に苦手だった。そんな状況で冬休みに宿題として出された東大数学傑作選と対峙したために、正直すでに心は折れかけた。それでも、数学を自分の弱点として受け入れ、目を背けることなく春休みに対策したのは、我ながら賢明だったと思う。

 

 先輩が卒業し、学校は春休みになった。僕が始発で(といっても田舎の始発は6時過ぎだが)登校しても、勉強場所として便利な中央廊下には誰もいなかった。一人きりで7時から10時までは数学の薄い冊子を何周もやった。グランドからは野球部の練習の声が聞こえてくる。皆、まだ勉強より大切なものがあるのだろう。得したような、それでいて羨ましいような気がする。10時から1時間程度英語か地歴で息抜きして、11時になったら昼食休憩。陽気な日差しを浴びながら学校前のスーパーでカップ麺を食べることもあれば、数少ない登校してきた友人(もちろん「数少ない」は「友人」には係らない)と、丘を下った所にある回転寿司やラーメン屋に行くこともあった。春爛漫、桜が景気良く咲いていた。一年後、桜の下で僕は笑っているだろうか、なんて考える。そこで日をたっぷり浴びると勉強がどうでもよく感じて、しばらく追加で休憩。午後はぼちぼち理科基礎の課題をやったり読書感想文の本を読んだりし、4時頃学校が閉まるので駅前の図書館に移動し、怠惰な昼下がりを取り返すべくガッツリ4時間勉強する……。そんな日々を二週間繰り返した。長い昼食休憩はともかく、ここで僕の基礎力は一気に伸びた。春にダレていたら、以降太刀打ちできなかっただろう。

 

 そのようにして春から約一年間、僕は必死に駆け抜けてきた。いや、その言い方は適切ではない。駆け抜けてきたように見え、実際にはただ追いつかれないように逃げてきただけだ。追いかけて来るのはもちろん見えない敵……都会の超進学校の連中でもあった。だが実際のところ追ってきたのは『理想的に勉強を続けている僕』だった。理想に現実が勝てる筈はないが、理想的に勉強しないと到底超進学校連中には適わない。だから僕はそうした理想の自分に打ち勝つため、闇に紛れて開門前の高校の中央廊下で朝六時半から勉強し続けた。わけのわからない東大数学の添削に必死にしがみつき、国語も現古漢の添削に足繁く通い、英語も鉄壁を購入してやり込んだ。では地歴は、と言うと、むしろ勉強を我慢した。もともと地歴が好きであり勉強したくて仕方がなかったが、夏までは国数英だと思い懸命に我慢した。

 

 そう、夏までは……。全ては、夏の東大模試で良い判定をかっさらう為であった。代ゼミ、河合、駿台……全勝したいが、どれかだけでも良い。とにかく、超進学校連中と互角以上に渡り合えているという証左が欲しかった。それはまた、理想の自分でいられている自信にもなる。

 

短い春が終わり、勝負の夏が来る。模試の結果は、代ゼミC判定、河合オープンB判定、そして駿台の東大実戦はA判定だった。平均してB判定といったところ、まぁ上々。だが駿台のA判定は数学満点というミラクルによるものであり、他教科は平々凡々だった。本番でミラクルに頼っても仕方が無い。嬉しい気持ちもありつつ、自分の実力を過信しないように注意しつつ。毎日学校に行き、たまに友達とチャリで遠出したりしながら、短い夏は過ぎていった。

 

 秋になった。受験が迫るにつれ、中央廊下で勉強する人数も増え、仲間ができた。職員室に近いから、気軽にしつこく、様々な先生に教えを乞うた。例えば、数学克服の為、定積分が面積である理由とか自明な部分の証明とか細かい部分を信頼できる先生を訪ねて沢山教えてもらったり、語り合ったりした。

 

 地歴の勉強も遂に解禁した。世界史の論述本を読み漁り、地理のマンツーマン授業(東大地理受験生が僕しかいなかったために生じた、ドラゴン桜もびっくりの個別授業)での過去問対策も熱を帯びてきた。地歴は点差が開きにくいが、一点でも多く取っておきたい。受験戦略以上に、得意な科目へのプライドがあった。

 

 夜は図書館での勉強をやめ、溜まり場となっていた風吹き荒ぶ駅の机で友人と切磋琢磨し、やがて彼女に出逢った。電車の中では自作の英単語暗記カードや鉄壁、東大リスニングに励んだ。とにかく、一分一秒に必死だった。「刹那的」とはこの時期の受験生を形容するためにある言葉だろう。

 

 センター試験までのカウントダウンが始まり、すぐに冬休みに入る。冬休みも年末年始含め毎日学校に来た。この頃はもっぱらセンター対策が中心で、毎日本番通りの順番でワンセットをこなして合計点数に一喜一憂し、誤答を復習。時々気分転換に東大数学対策をする、という風に、2018年は終わった。

 

 新年、グランドに集合して初日の出を拝み、先生方お手製の豚汁を飲んで気合十分。目前に迫るセンター対策に最後の力を注ぎ、遂に一次試験、センター試験当日。

 

 世界史で満点を確信し、地理に備えてトイレに行ったり、隣の人がスマホを出しっぱなしなのを教えてあげたりしながら、センター二日間を終えた。自己採点は翌日に学校で行うことになっていた。学校までバスで戻り、解散。久々に彼女と会って、学校から海まで散歩した。気にしないようにしていた国語の失敗を吐露して慰められ、志望校の話をし、ちょっとした思い出話をした。今思い返せば、こういう友人や彼女との些細な会話が、勉強ばかりの忙しない生活においてとても尊かった。

 

 翌日、自己採点。僕の、隣の人の、後ろの人の、そして教室中の人の人生がある程度定まるという特異な空間に緊張したが、採点結果は上々。心配していた国語も評論文満点というファインプレーのおかげで持ち堪え、合計で目標の九割を超えることができた。この年のセンターは易化らしく、教室中がなんともホッとした空気に包まれた。この日はそれで解散となり、今日ぐらいは遊ぶかと思いつつも、コケた友達を回転寿司で慰めた後は再び勉強を始めた。センター試験を終えた程度で浮かれるほどの馬鹿ではなくなった、と自分の成長を想った。

 

 翌日からは二次試験対策講座が始まり、毎日東大の過去問と向き合い続けた。この頃に東大数学添削の目標60題を達成し、深い満足感を得た覚えがある。先生と、友人と共に向き合った60題だった。必ず実力になっているだろう。

 

 センター後も朝は始発で来た。いつも勉強していた中央廊下には、朝早く来ると後ろから陽が差した。放課後には窓から見えるグランドの空が時計代わりになり、冬枯れした木々は受験が近いことを思わせる。ここで僕は同志と語らい、切磋琢磨した。色々なことがあった。

 

 そして、受験を迎えた。

 

 


 若干の雨、駒場東大前駅には様々な予備校の職員が応援に来ていた。

「河合塾でーす!受験生の皆さん頑張ってくださーい!」

当然、その応援は僕ら予備校と無縁の地方生には関係無い。開門まではまだ時間がある。周りは皆勉強していたが、僕は最早あまり勉強する気になれず、ただボーッとしていた。じりじりと規制線が後退し、そして僕は試験場の13号館に向かった。

 

 トイレは混んでいた。着席時刻寸前になんとかトイレを終え席に戻ると、すぐに試験官たちが注意事項を喋り始める。しかし、その最中にもトイレから帰ってくる人は沢山居て、案外「ゆるい」印象を受けた。試験前三十分は出歩けないのが原則だが、それでもトイレは致し方ない扱いらしく、数人が一人の職員に伴われてトイレに行く様子が何度も見受けられた。ならば慌てず、空いているこの時間に行けば良かった……。しょうもないことで落ち込む僕であった。

 

 机は若干椅子側に傾いていた。普通に置けば鉛筆は転がってしまう……。ここで、昨日彼女から貰った消しゴムが役立った。消しゴムはずり落ちないから、鉛筆をその上側に置くことでこの問題は解決した。かくも悪戦苦闘をしていると、問題・解答用紙が配布された。解答用紙を見て、現代文は例年と同じ形式だ、などと確認する。

 

 僕の得点計画は、二次試験で国語65/120点、数学30/80点、地歴合わせて80/120点、英語で70/120点を何としてでも確保し、センターの圧縮101点と合わせて合格最低点をヌルッと超える、というものだった。さて、国語は比較的安定する教科だが、しかし古典は解釈を間違えれば大量失点の可能性がある非常にリスキーな教科だ。慎重に取り掛かろう。そうやって何度もこれまで考えてきたことを心の中で復唱しているうちに、遂に東京大学の二次試験が始まった。

 

 ルーティーン通り、まずは漢文に取り掛かる。漢詩じゃない、良かった!2010年代前半にあった過去問の漢詩は全くもって意味不明で、漢詩出るな出るなと切望していたのだ。本文の内容は学校教育を憂う話で、要所は抑えただろう。「東大の漢文は文章レベルこそ簡単だが、設問がいやらしい」というよく言われる言説を、見事に体現した問題だったと思う。

 

 漢文では失敗なく切り抜けた。次は、古文。僕の東大合格の必要条件は「古文と数学で失敗しないこと」であった。逆に、失敗さえしなければ絶対に合格する自信があった。というのも「試験勉強というのはどれだけ失敗しても何とか合格点を超えるように対策するものである」という真理に比較的早く気付いたからである。この真理に鑑みるに、古文と数学はギャンブル性が強過ぎる。だから、古文は過去25年分をみっちりこなしてきたがどうだろうか……

 

 課題文は易しく、設問も答えやすい。拍子抜けの感はあったが、事故を起こさないことが目標なのだから、つまり古文は成功だった。第一の難所を乗り切った。

 

 次に評論文に取り掛かる。評論は直近の添削で40点中25~30点を安定して取っているから、自信があった。一読すると既視感を受ける。そうだ、あの話に似ているのだ。

 

 それは東大現代文で出題歴のある原研哉の『白』という本だった。うちの高校では入学前の春休みから全生徒にこの本を強制的に買わせて読ませる教育が行われており、その為に出版社がわざわざ増刷したというのがもっぱらの噂だが、その増刷の真価が三年の時を経て発揮される時が来た、と感じた。

 

 天が僕に味方した、と思うと同時に困惑した。こういう場合の訓練を受けていないぞ、と。つまり、似た話に引っ張られずにその文章から解答を導き出す訓練だ。しかし悩む時間も惜しかったため、微かに『白』の内容を取り入れつつ書いた。恩師が東大現代文のキーワードとして『個』を挙げていたのを思い出し、最後の120字には思いっきり『個』を詰め込んだ。どれだけ効いたかは、分からないが。

 

 最後は随想か、高得点は期待できないし失敗しても大したことは無い。気楽にやると決めていた。作者は聞いたことがあるな……あぁ、彼女が好きな映画監督じゃないか。このように余裕をかましつつ、分からないのは飛ばしつつ埋めていった。最後に不明箇所にとにかく日本語を書いて埋め、国語の試験は終了となった。

 

 とにかく長い答案回収時間が終わると昼休みになった。高校の友達と会うのも面倒で、一人で食べた。周りにもぼっち飯の同志は沢山いたが、トイレのために外に出ると都会の進学校の連中が皆で飯を食っていた。僕には全く馴染みのないこのキャンパスも京王井の頭線も、全て彼らの庭なのだなぁ。やや虚しくなった。落ち込んでも仕方がないことくらいは分かっていたが、仕方がないから落ち込まないことは当時の僕には難しかった。僕はダライ・ラマではないのだ。

 

 午後、いよいよ勝負の数学の時間となった。この100分間が事実上合否を決める。天下分け目の決戦、皇国の荒廃この一戦に有り、身震いが止まらない。2完が理想だが、1完3半でも良いし、もうなんでもいいから30点を取りたい。これまでの努力を思い起こして自分を鼓舞し、試験が始まった。 開始の合図と共に用紙を開き、まずは4問を全て眺める。

 

これまでに問題の選球眼は養ってきた。第一問は図を描けば押し切れそうに見えて、()の計算に手間取って時間を取られそう。第二問はベクトル、()は丁寧にやれば解けそうだが、()は全く見えない。第三問は確率、随分簡単な設定だが、コインが一周する処理が面倒臭そうだ。そして第四問はまたベクトル、しかも一文字固定。なんとかいけるはずだ。

 

 以上が初見の感想だ。傾向から考えて微積は絶対に出るだろうと考え、万全の対策を施してきた。さらに、4問あるうちの第一問は比較的簡単だと聞いていたため、「微積の第一問」なんてまさに鴨ネギだ。絶対に完答したいと思った。第三問の確率は好きな分野で『ハッと目覚める確率』という参考書を何度も回して訓練していたので、出てくれて嬉しかった。長年東大文系数学で確率は鉄板だったが、前年は出ていなかったから不安だったのだ。

 

 しかし驚いたのは、ベクトル2問と一文字固定の出題だ。実は高校の担任で東大数学を担当する恩師にこれまで一年間散々、ベクトルが出る、一文字固定は東大数学永遠のテーマだ、などと言われてきたのだ。追い風に乗って意気揚々と解き進める。

 

 しかし物事はうまく進まない。第一問()を解き、()で計算に詰まり一旦飛ばした。第二問、第三問、第四問と解き進めていくがどうも要領を得ない。特に得意の確率の()がイマイチなのが精神的に辛く、正直言って絶望した。浪人だ〜。僕の東大受験の中で三度訪れた「もうダメかも。」の一回目だった。

 

 この時思い出したのは先述の『白』にも出てくる徒然草の『ある人、弓射ることを習ふに』の逸話だった。

 

標的に向かう時に二本目の矢を持って弓を構えてはいけない。その刹那に訪れる二の矢への無意識の依存が一の矢への切実な集中を鈍らせるという指摘である。この、矢を一本だけ持って的に向かう集中の中に白がある。

                       原研哉『白』より抜粋

 

 今、ここで諦める、浪人するという選択肢があること自体が一の矢への『切実な集中』を断つ。そう気付いた瞬間に僕は一度目の挫折を乗り越えた。なんとも単純でおめでたい性格だが、僕は元来単純な男だった。とにかく諦めかけた第四問とにらめっこし、一方を固定してもう一方を動かすという原始的な一文字固定法で()を何とか突破、()はわからないので適当に図だけ書いて部分点を乞う。第三問では文字通り二の矢すなわち()を捨て、()でしか使えないまたまた原始的な数え上げで何とか場合の数を数え上げた。第一問は気合で完答し、第二問は時間との勝負、最後の最後にグラフの間違いに気付き慌てて書き直したため、グラフに適切な数値を書かず、公式を丁寧に計算せず一気に答えを書く、という二つの手抜きと引き換えに時間ギリギリで何とか正解の値を得た。 

 

 一日目の試験が終了、高校の仲間と落ち合って(縁起でもないが)一緒に帰る。一緒じゃないと絶対に迷うからだ。会話は試験の核心をつかない当たり障りのないものだけで、結果を知るのが皆怖いのだな、と思った。

 

 新宿駅からホテルまでの道を歩いていると、闇に光が満ちる大都会の情景にふと心を奪われた。そして、明日にはここが僕の街になるということを確信し、ホテルに戻った。

 

 夕食の後、ホテルに自習室があるのに気付いたのでそこで勉強した。地歴の勉強は直前まで効く。東大オープンの過去問を解き、2009年の世界史を解いたところで眠くなって自室に戻った。自習室には落書き用のホワイトボードが備えてあり、様々な受験生がここで勉強し夢を書き付け、おおむねその夢を叶えたことが分かった。明日は僕の番だ。

 

 こうして長い一日目が終わった。

 


 

 それは未明のことだった。

 

 暑さで目を覚まし、ホテルの分厚い布団を脇に放って眠らんとするが、まだ暑い。暑いんじゃなくて熱いんじゃないか、体温が。そう気付いた瞬間全身から冷や汗が吹き出す。

 

 なぜ、どうして今日なんだ、なんで今日風邪を引くんだ。起き上がると頭がボーッとする。呆然とし、取り敢えず冷たいペットボトルを脇に挟みクールダウンを図るも、そりゃ無駄だった。ネットで『大学入試 風邪』で検索して地獄のような種々のエピソードを目の当たりにし、すっかり泣きそうになった。

 

 こういう時に頼れるのは何と言っても母親である。お母さん、風邪薬はどうすればいいだろうか……。そう聞こうと思い電話を掛けるも応答がない。クソババア!

 

 どうしよう……。僕はもう、誰かに励まして貰わないと泣いてしまいそうだった。そして、彼女が一日目で既に試験を終えていることを思い出し、電話をするも、出ない。そりゃそうだ、早朝と呼ぶには早すぎる深夜だ。取り敢えずLINEだけ送り、震えながら、若干泣きながら横になった。一体どうしよう……インフルエンザだったら試験どころでは無い。完全に終わりだ。

 

 もうダメかもしれない……。

 

 そうしているうちに少し眠ってしまった。起きた時、直前に彼女からLINEが来ていた。偶然目が覚めたそうだ。それから彼女は僕のために自前の薬を分けてくれ、更にホテルのコンビニまで薬や栄養剤を買いに行ってくれた。風邪薬はおろか保険証すら持ってきていないという自分の愚かさに呆れつつも、彼女の優しさが嬉しく、さっきとは別の涙が出た。心の底からのお礼を言って、短い睡眠をとると朝になった。

 

 幸いにも、頭がボーッとする程度で済みそうだった。しかし歩くと具合が悪く、朝食も碌に食べられなかった。友人たちは自分の試験で手一杯だろうに、それでも僕に手を貸してくれた。

 

 昨日で試験を終えた彼女含む数人に見送られ、昨日同様に駒場へ向かった。開門を待っていると、急に腹が痛い。具合も悪くなってきて、その場に座り込んだ。試験場で着席してからも具合が悪く、吐きそうだ。しかしどうにも吐けそうになく、結局腹が痛く熱っぽいまま地歴に突入した。

 

 風邪だろうが、ルーティンは崩さない。毎日丸亀製麺に行くのと同じだ。解く順番は世界史は3--1、地理は1--3で、予定の時間配分は5-20-40、地理で85分だった。つまり得意の世界史で時間を稼ぎ、熟考長考を要する地理論述に時間を割く作戦だ。東大地理はとにかく問題が多く、正直85分でも間に合わないかもしれなかった。世界史も正直に申せば65分は最速ペースで、70分は覚悟していた。得意な割に、時間配分はカツカツだった。

 

 そういうわけで、まず世界史の第三問・小問集合10題からとりかかる。()でドニエプル川かヴォルガ川で一瞬迷い、通常の世界史学習で出てくるのはドニエプル川だと判断して正解だった。細かくやり過ぎることで思考が邪魔される一例だ。一問あった奇問はすぐに捨てることを決意、これも好判断だった。

 

 予定通り5分以内に第三問を終え、短文論述の第二問に移る。テーマは国境、なんと昨日自習室でやった2009年の過去問と同じテーマだ。追い風を受けながら解き始める。練習通り要素を詰め込み、不明部分は誤魔化しつつ片付け、第二問終了時点で経過時間は25分、良い感じのペースで第一問に進む。

 

 第一問は大論述。指定語句を用いて600字程度で課題に答えるという、世界史の試験の中で最も深い理解を要する形式で、これに挑むだけでも東大を受験する価値があると僕は思う。今年のテーマはオスマン帝国崩壊史。僕は一度思想も含めてその歴史をノートにまとめたことがあった。高校の前のスーパーで買った茶色いキャンパス・ノートの1ページ目、中央に思想の変遷が描かれ右端に子細が汚く書き連ねてあるという画像が鮮明に呼び起こされる。僕の勝ちだ。


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以下、問題文と再現答案。


1989年(平成元年)の冷戦終結宣言からおよそ30年が経過した。冷戦の終結は、それまでの東西対立による政治的・軍事的緊張の緩和をもたらし、世界はより平和で安全になるかに思われたが、実際にはこの間地球上の各地で様々な政治的混乱や対立、紛争、内戦が生じた。とりわけ、かつてのオスマン帝国の支配領域はいくつかの大きな紛争を経験し今日に至るが、それらの歴史的起源は、多くの場合、オスマン帝国がヨーロッパ列強の影響を受けて動揺した時代にまでさかのぼることができる。

 

以上のことを踏まえ、18世紀半ばから1920年代までのオスマン帝国の解体過程について、帝国内の民族運動や帝国の維持を目指す動きに注目しつつ、記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に22行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 

アフガーニ一 セーヴル条約 ミドハト憲法 ギュルハネ勅令 日露戦争 ロンドン会議(1830) サウード家 フサイン=マクマホン協定

 


かつて先進的官僚制・常備軍を誇ったオスマン帝国は、多民族国家ゆえに国民主義の高揚と共に解体していく。18世紀後半、アラビア半島でイスラームの原点に還ろうとするアラブ民族主義的ワッハーブ運動が活発化、19世紀にはサウード家と結び今のサウジアラビアの原型となるワッハーブ王国を建国した。19世紀、ギリシアが英仏の支援を受けロンドン会議(1830)で独立を達成すると、次にムハンマド・アリーとの間でエジプト・トルコ戦争が生じた。これを受けアブデュルメジト一世はギュルハネ勅令でタンジマートを開始、西欧化で帝国の維持を図ったがかえって西欧への経済的従属化を招いた。19世紀後半、オスマン主義や立憲化運動の高揚を受けミドハト憲法が制定されたが、アブデュルハミト二世により露土戦争を理由に停止された。露土戦争でバルカンのキリスト教圏を失うとアフガーニーのパン=イスラーム主義での帝国の維持が模索されたが挫折し、日露戦争での立憲政の勝利を受けトルコ民族主義的青年トルコ革命に至った。帝国は第一次大戦に同盟国側で参戦するも、同盟国の敗色が濃厚になると英の秘密協定により領土を分割された。だがバルフォア宣言とフサイン・マクマホン協定は各々ユダヤ人とアラブ人にパレスチナを与える点で矛盾していた。大戦後帝国はイズミルを巡りギリシアと戦争を継続、その最中軍人ケマル=パシャが台頭し帝国は滅んだ。彼はセーヴル条約で失ったトルコ人居住地を回復し代償にアラブ人居住地を放棄、英仏の委任統治領となり多くが第二次大戦前に独立したがパレスチナ問題は残った。クルド人問題も残った。


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 大論述に比較的素早く答えられたため、終わってみれば世界史に費やした時間は60分だった。地理に90分、つまり大問一問あたり30分も割けるのは、この本番が初めてだ。

 

 地理のページを開く。僕が初めて東大地理の問題を見たのは、春の課外講座だっただろうか。マンツーマン授業に戸惑い、問題を眺めてさらに戸惑った。図の意味が分からず、何を問われているのかもイマイチ分からない。最初の二ヶ月は毎回「これが本番で出たら落ちるな……。」と思っていた。苦戦はしたが、そこはマンツーマン授業、先生と発問・質問を投げ交わすうちに次第にやり方が分かっていった。

 

 解説において、東大地理の問題には出題者・東大教授のメッセージが多分に含まれていると先生は仰った。この知識を用いて、この図からこう考えられる学生が欲しい、と。言うなれば、地理の試験とは東大教授との対話のようなもの。これを信条にこれまでやってきた。

 

 オーソドックスな問題が続く。客観問題が不明なのは痛いが、論述は概ねできた。70分程度で一旦全て終わり、不明な空欄を埋める作業に入る。だがここで具合が悪くなり、頭がボーッとしてきた。そういうわけで、熟考ができなかったために空欄には適当に言葉を羅列してタイムアップ。無念だが、答案作成途上で具合が悪くなるよりはよほど良い。強引に自分を励まし、昼食休憩となった。

 

 昼ご飯は喉を通らず、彼女に貰ったラムネを数粒飲んだだけだった。段々と咳も酷くなってきた。リスニングで周りに迷惑をかけてしまうかもしれない……。隣のメガネ女子には悪いなあ。もはや勉強する気力はなく、天を仰ぐ。頭上には、なんと奇跡、リスニングのスピーカーが完全に頭上にあった。これは天が味方するどころか、勝利の女神が爆笑している。僕はなんて運が良いんだ。やはり日頃の行いだろうか。リスニングに関して、僕はドラゴン桜の愛読者なので早々に重要性を認識して取り組んできた。更に音の条件も良いときた。これはこの勝負もらった、と思った。しかし。

 

 僕の座右の銘は『二度あることは三度ある』。

二度ある挫折も、三度ある……。

 

 試験の説明が始まり、ゾロゾロと受験生が着席する。配られた解答用紙を見て愕然とした。なんだ?裏に謎のⅣとⅤの解答欄があるぞ?新傾向か!?と非常に動揺した。(これは実は「英語以外の」外国語受験者用の解答欄だったが、田舎者には知る由もなかった。)他にも解答欄を確認すると、おぉ、悪夢の1B英英要約が姿を消している!1Aも少なめの80字、これは吉か凶かわからない。しかし1Aの分量が少ない分どこかが増えているかもしれない……2Bが英訳ではなく自由英作文に戻ったか?と分析した。さぁ、これを走り切れば全てが終わりだ。なんとかぶっ倒れずに済みそうだ、つまりこれを走り切れば受かる!圧倒的な自信を持ち、最後の試験を始めた。

 

 絶対にルーティーンは崩さない。まずは全体を概観する。2Bはそのまま英訳問題か、これは時間に余裕が持てそうだ。リスニングは五択のまま。4Aは一番ヤバいタイプの問題、潔く捨てようか。5は文章が少し長い。よし、普通通り解く!まずは和訳の4Bに取り掛かる。

 

 和訳は安牌、想定配点15点なら12点以上は欲しい。河合塾の大問別問題集で対策もしたので堂々と挑む。練習通り8分程度でそこそこの精度の答案を作成できた。

 

 よし、次!

 

 そう、東大英語は流れ作業、情報処理能力をも問うている。素早い切り替えが大事だ。次は2B、まずは簡単な英訳から片付ける。と、解けない!?学校配布の英作文問題集を「意味ね〜」と思いつつ勤勉に解き続け、例文集を暗記し、ドラゴンイングリッシュなる例文集にまで手を出したのに、この程度が解けないのか、なんて仕打ちだ!ダメだ、書き直しだ!やばい、分からない!

 

 脳内は大混乱、しかし落ち着け、切り替えよう、言ったばかり、切り替えが大事なのだ。自由英作文に移る。課題は新しい祝日について。じゃあ、好きな旅の日を作ろう。旅の日は旅をする日で……えー……過労死が増えている今、癒しが必要で……難しいな……じゃあもう過労死メインで書くか......。逡巡を経てなんとか自由英作文を突破し、2Bもなんとか書き上げ、ここまででおよそ25分が経過。試験開始45分後に始まるリスニングの前にやることで残すは1Aの要約とリスニングの下読み、ということは1Aには15分程度かけられる、なかなか贅沢だ、と問題を解きながら同時並行的に時間配分を考えるのも東大英語の実力のうちではなかろうか。

 

 1Aの英文要約は過去問に類を見ないような、問題文に具体的な指示がある問題だった。これは対策する受験産業側としてはつまらないだろうなと思いつつ、受験生としては面倒な思考が省けて、特にフラフラしながら問題を解いている僕にはラッキーだった。1Aを終えて現在35分。なんとリスニング下読みに10分も割けることとなった。一瞬色気を出して4Aを少し解こうかと考えたが、しかしリスニングの下読みに時間をかけ過ぎるということはない。You can’t do too muchだ。リスニングを盤石にしようと考え、完璧に下読みを施した。正直、下読み予定時間の5分で下読みが終わったためしがなかったので、10分も下読みできたのは非常に助かった。

 

 そして、にも関わらず、地獄が始まる。

 

 45分経過後、突如としてゴリゴリの肉声案内放送が始まる。「予備校模試の美しいアナウンスを見習え」と思うやいややゴリゴリ肉声かつボソボソ声の英語らしき言語が流れてきた。ふざけるな、ハキハキ話せ!しかし文章自体は遅い。なんだこの程度か、聞き取ろうとする。

 

 しかし、何も聞き取れないのだった。一体なぜだ!?確かに、これは僕に限らずだと思うが、僕にとっては結局英語はいつまでもどれだけ勉強しても外国語であり、日本語のように流暢には頭を流れない。しかし、集中しても聞き取れないのは久々だ。そして、これこそが僕が一番危惧していた状況だった。何が恐ろしいかと言えば、リスニングの試験は切り替えられない。2Bの時のように他の問題に移れない。単語を断片的に拾う高校入試のような戦法では到底五択を選べない。混乱するうちに声の調子が変わった。話は落ち着いたらしいが、こっちは入試に落ちそうだ、ヤバい、これはもうどうしようもない、完全に終わった。リスニングが出来なければ30点が吹き飛び、絶対に東大には受からない。脳裏には河合塾福岡校が浮かぶ、福岡校の世界史の鬼・青木先生が手招きどころか手を掴んでくる。ごめんなさい高校の先生方、あんなにリスニング演習をしてもらったのに、ごめんなさい……

 

 

 

 

 

 

何を諦めているんだ僕は!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

僕は今までリスニング演習を大量に積んできたじゃないか!!!!!!!!

何より、僕は今までどれほどの人に助けてもらってきたんだ!!!!!!!

一年の頃からT先生は僕を特別に鍛えてくださった!他の英語科の先生方もいっぱい添削してくださったじゃないか!いや英語科に限らない、国語も飽きるほど添削に通ったし、S先生は東京藝大に行きたいと駄々をこねる僕に親身に相談に乗ってくれたじゃないか!数学だって同じだ、添削はもちろん、H先生なんて他学年部なのに放課後に毎日毎日数学談義に付き合ってくれたじゃないか!世界史の先生も偉そうだけどよくしてくれたし、地理なんかマンツーマンだぞ!両親は浪人費用が無いから本当はリスキーな東大受験は嫌だろうに受けさせてくれたし、色々な面で応援してくれた!友人達も、一緒に模試終わりにラーメンを食いに行き、一緒に色々なことをやって、そして一緒に勉強してきたじゃないか!

 

 そして、何より彼女だ……。大学生になって東京で一緒に遊ぼうという約束の為に会う回数を減らし、それでも会いたい僕を諌め、今朝は早朝にも関わらず駆けつけてくれた彼女……。

 

 僕の受験は僕だけのものじゃない。簡単に投げるわけにはいかない。全てのお世話になった人への感謝と共に、そう感じた。

 

 そして、こんなにも恥ずかしいことを真剣に、心から思える日が来るとは思わなかったし、こんなことを思えただけでも受験を頑張った甲斐があったと思った。

 


 既に3Aの一回目の放送は終わりかけていた。でも、二回目がある。絶対に諦めないと誓った人間は強かった。続くリスニングをなんとか切り抜け、小説文である大問5にかかる。5は、リスニングよりも分からなかった。だけど、もう負けない。悩んで分からない問題はもう空欄で良いや、でも分かりそうな問題にその分思考をつぎ込もう。5を終え、残すは1B4A1Bは段落整序問題で、多分人生で一番集中して英文を読んだだろう。リスニング以降の失敗を取り返そうと意気込んでいた。本当は意気込み過ぎるのはダメだが、仕方ない。いいじゃないか、1Bは全問正解だった。結果オーライとはこのことだ。

 

 最後は難解な文法問題の4A。いや〜、この問題に限っては精神論でどうにもならない。一応長い英文を読み、記憶に留めておいた引っ掛けパターンを想起するもパターンに当てはまるものはなし。経験に基づく勘で不適部分を選び、僅かに残った時間で英作文の訂正をし、そして全てが終わった。

 

 会場に気怠い空気が立ち込める。試験終了後一時間は経ったが、未だ退出指示が無い。スマホも触ることができない。皆、項垂れるか、近くの者と喋るか、本を読むか……。だが皆、出来た者も出来なかった者も、ある種の安堵感を抱えていた。ある者が挙手し、新幹線の時間に間に合わないと言い出す。どこ出身だ、という試験官の質問に彼は盛岡ですと答え、会場に笑いが起こる。皆、お疲れ様。

 

 

 

 

 遅い遅い合格発表の日まで、僕は予備校各社の解答速報から自分の点数を何度も何度も計算しては一喜一憂し、後期試験の小論文添削をそこそこに受け、僕を三年間鍛え上げてくれた高校を卒業した。沢山映画を観て、居ても立っても居られず四国に渡って放浪し、遂に3月10日を迎えた。ドラゴン桜に則り合格発表は独りで見ようと決めていたので、10時頃高校の最寄り駅に行った。早く行き過ぎたので駅ビルの本屋をブラブラするも、どうしても足は参考書のコーナーに向かってしまう。勉強に集中できない時、よくここに来たものだ。そして、持っている本を仕上げてから次の問題集を買おう、なんて思ったものだった。

 

 やがて、12時になった。東大のホームページを再更新し続け、繋がると一思いに自分の番号があるらしきところを拡大する。あった、あった!思わず叫びそうになり、叫んでも良いやと思って、でもガッツポーズで留めた。まずは学校に電話、先生も確認しており、よく頑張ったと言われる。次に塾に電話、大学受験とほぼ無縁だった小さな塾なので、すぐさま塾に大きな『〇〇君東京大学合格おめでとう』のノボリが立ち並び、町中に僕の合格体験記のチラシが配布された。恥ずかしいが、誇らしい。

 

 そして彼女に電話した。彼女は既に合格を決めていた。彼女は今、高校にいると言う。そして、高校には友人や、お世話になった先生方がたくさんいると言う。電車で行こうと思ったが、流石は田舎、次の電車は30分後だ。天気は悪いが、仕方ない。僕は今までの全ての感謝を伝えようと、高校まで雨の中を走り出した。

 

 そうして、僕の東京大学物語が始まった。