台風が列島を襲ったり襲わなかったりする今日この頃、いかがお過ごしだろうか。筆者は台風に襲われ、待望の寝台特急サンライズが運休となってしまった。オエエエ
それでも頑張って四国をブラブラしてきたので、ぜひご笑覧ください。
☆筆者は藤原純友で卒論を書いている真っ最中。記述が概ね学術論文に基づいている点で、そんじょそこらのブログとは違うぞということは表明しておきたい。
(とはいえ、専門外の内容には好き勝手言っていることに注意されたい。)
本作では以下の場所を訪ねた。
・中野神社(新居浜市種子川)
・伊予国府跡(未確定)(今治市上徳)
・日振島(宇和島市)【後編】
-----
朝の3時ごろ、豪雨で目覚める。台風14号がようやく関東まで来たらしい。
東海道新幹線の運行予定は「大幅な遅延が生じる可能性が高い」とのこと。だがサンライズに乗れなかった今、ともかく一番速い新幹線に乗ることが重要なのだ。この旅行に避ける時間は二日しかない。48時間を目一杯に使いたい。
こうした考えから、先行き不透明なまま始発で東京駅に向かった。台風の日の始発なんか誰も乗っていないと思ったが、結構な数の高齢者が乗っていた。丸の内線乗換で皆が席の確保を目指しせかせか歩いていたのが、案外滑稽な姿だった。プロジェクトXのオープニングだろこれもう。
東京駅に着くと、このページに従って東海道新幹線の乗換改札まで急ぐ。着いてみると果たして、JR東海決死の安全確認により新幹線は始発から平常通り運転とあった。滅茶苦茶安堵。
株を買ってあげたいくらいの気持ちになりながら、とりあえずは切符を買った。
のぞみ1号は東京駅6:00発。この時点で時刻は5:32。始発駅だし指定席を買うのもバカバカしいので自由席にしたが、いざ改札を通ってみると、案外人がいる。台風の翌日の始発列車、もしや混んでる?
不安になり慌てて自由席3号車までスプリントをする。こんなことなら指定席を買えば良かった。ロードカナロアもびっくりの東京駅レコードを叩きだして3号車に滑り込むと、果たしてガラッガラであった。二列に一人くらい。良かったぁ
新幹線は定刻通り発車。車内はだいぶ混み合い、A・C・E席は全て埋まった。
一息ついたところで、「藤原純友」について紹介したい。
中学の教科書にも登場する純友について、
「承平年間から日振島を根拠地に海賊活動を行い、遂に天慶二年、平将門の蜂起に呼応した」
という従来の説は、現在では否定されている。
現在の主流の見解は
「承平年間の純友は京から伊予に派遣され、海賊を追捕(逮捕)する側であった。追捕に成功したが、その過程で海賊と交流を深め、何らかの経緯で天慶二年に乱に至った。」
というものだ。
つまり承平年間は海賊活動を行っていないので、これら乱を「承平・天慶の乱」と呼ぶのはちゃんちゃらおかしい。現在では教科書にも「天慶の乱」と記載されている。
今回の旅は、そんな彼の旧跡を、史実も伝承もまとめて辿ってみようという試みである。
岡山駅で松山方面の特急しおかぜ5号に乗り換える。四国各方面の特急が岡山に集約されているのは本当に便利だと感じた。
列車は瀬戸大橋を渡る。児島駅を過ぎてすぐ左手に見える2つの島がある。左の小さいのが松島、奥の大きいのが釜島で、どちらも藤原純友に関係する。今回は日程の都合上訪れることができず残念である。
といっても、これらの島々と藤原純友との関係は史実では無い。
純友の活躍を描いた有名な絵巻に『楽音寺縁起』があり、その中で釜島は純友の根拠地とされている。楽音寺縁起自体の内容が通説と大きく異なるので、この釜島での活劇も虚構だと考えられてきた。
しかし、純友研究の権威である下向井龍彦氏は近年この『楽音寺縁起』に描かれる「藤原純友」は、純友の配下であり備前で大暴れした「藤原文元」のことではないかという説を唱えている。(1)
釜島には『楽音寺縁起』を背景に藤原純友伝承が残り、ついでにその隣の松島には純友神社が建てられている,
というわけである。
ダイヤ乱れの影響で、しおかぜ号は多度津止まりとなってしまった。そんなことあるんだ。一旦昼食をとることで混雑を避け、後続特急に乗り換えて新居浜駅に着いたのは13時過ぎだった。
駅の駐輪場で自転車を借りる。筆者は「秘境の旅人」を僭称しいかにも旅慣れた感じを出しているが、レンタサイクルを使うのは実は初めて。自転車に乗るのもほぼ高校時代ぶり。3段変速を操れず、すぐに脚があがってしまった。
片道五キロを漕ぐと、別子の山々が迫ってくる。新居浜はかつて別子銅山で大いに繁栄し、今なお住友グループの企業城下町として栄えている。だが、今回用があるのはそのスミトモではない。
自転車を停めて種子川集落を登ると、荘厳な神社がある。ここが「中野神社」である。
中野神社は藤原純友を祭神とする珍しい神社であり、新居浜の純友伝承の根拠となる場所である。
神社はもともとは背後の生子山(しょうじやま)にあったらしい。江戸時代の地誌『伊予二名集』に「此城往昔すみともか城と云、伊予掾純友籠りし所と云へり」とあり、ここから純友終焉の地という伝承も産まれたらしい。(2)
中野神社の社は失われ、新高神社という神社の社殿だけ残されている。
その経緯は中野神社を訪ねたブログ『神は賽を振らない』さんの「藤原純友所縁のお社巡り その三 新居浜市種子川 『中野神社』」(2010)に詳しい。(3)
この記事によると、中野神社を管理する新居浜市内堀江神社の宮司さんの話として
数年前(筆者註 2005-08年頃か)この地を襲った暴風雨で純友神社裏手の土手が崩壊、土砂崩れに飲まれて社殿は破壊されてしまったとの事。車内に奉られていた御祭神等は現在緊急避難的に新高神社内に奉られている
とのこと。つまり、新高神社の社殿に参れば純友にも参ったことになる。
ちょうど今日9月20日は純友の月命日である。
純友の安らかな往生と筆者の卒論成就を願った。
次の電車まで余裕が無いので、急いで自転車を漕ぐ。余談だが、実は新居浜にはかつて来たことがある。新居浜には世にも珍しいこんな標識があったのだ。
「並進可」
「自転車は二台並進しても良い」というあまりにもニッチな標識は、全国でも新居浜にしかなかった。(4)
住友化学の工場に自転車通勤する人が多かったらしいが、標識は2018年に撤去されてしまったよう。悲しい。詳細は次の記事を参照のこと。
道路標識「並進可」絶滅か 超レア標識、相次ぎ撤去のワケ | 乗りものニュース
そして筆者は、世にも珍しい道路標識オタクなのだ。訪問したのは2017年。筆者が道路標識に燃えていた時期であり、友人を引き連れて片道数キロを歩いた。新居浜、僕が見たいものをもっと駅チカに置いて欲しいところ。
ともかく、レンタサイクルを返却して松山方面の普通列車に乗る。ガラガラの鈍行はグリーン車より快適だ。体力を回復できた。
16時頃、今治駅の隣駅・伊予富田駅に着いた。ここでは伊予国府の跡を巡っていきたい。もっとも、伊予国府の場所は説が乱立し、正確な場所を特定できていない。おおまかな場所が分かっているのみだ。以下、『愛媛県史 地誌Ⅱ』(1986)より引用する。
醍醐天皇の時に作られたとされる『倭名類聚抄(和名抄)』には「伊予国、国府は越智郡に在り、行程上り一六日、下り八日」とあり、伊予の国の国府が越智郡にあったことはほぼ確かめられる。
越智郡とは現在の今治あたりのこと。現在の愛媛県最大都市は松山だが、古代の国府というのは国土のうち都に近い側に置くものだったらしい。
国分寺は現在も残っており、国府もその近辺にあったと考えられる。具体的な場所については次のお手製の地図を参照されたい。
当ブログでは(駅から近く観察しやすいので)上徳説を採る。上徳説の根拠は以下の通りである。これもまた『愛媛県史 地誌Ⅱ』からの引用である。やっぱり都道府県史におんぶにだっこですわ。(改行は筆者が行った。)
①国分寺や国分尼寺に近いこと
②伊曽乃神社の新居系図によれば、多くの新居氏・越智氏が在庁官人として付近に居を構えていること
③小御門や閑ヶ内等の地名(ホノギ)から、国府の位置が推定できること
④国分寺文書の中に見られる年中行事案に「拝志郷内正月修正田」とあるが、上徳に正月の転訛とする松ヶ月の地名が残っていること
⑤一般に国府所在地の駅は国府の府頭に置かれることが多いが、当地では御厩を越智駅と比定し得ること
⑥竜登川と銅川の合流する入江は河川の規模に比べて非常に大きく、人工的に開削された港(国府津)であったと推定し得ること
⑦条里遺構がよく残り、周辺の遺跡から古代の遺構や遺物等が出土していること
①は頷ける。②はへぇという感じ。問題なのは③④⑤で、書いてある内容は面白いのだが、その地名がどこを指すのかが分からない!
これら地名はおそらく小字(こあざ)という一般的な住所表記では用いられていないものだろう。「実際に行って見て興奮して帰る」という営為を趣味にするものとしては、何とか探し当てたいところだった。しかし「小字は簡単には調べられない」ということに気付いたのが直前であり、今回は「松ヶ月」や「御厩」を訪ねることができなかった。これは悔しい!
なお小字に関してはこのブログが非常に参考になる。筆者も勉強するので、一緒に勉強しましょう!
ようこそ!地図に載らない小字地名の世界へ - ふれっしゅのーと
⑥の国府津の件は後述。⑦は、言われてみれば、条里制っぽい、気がする、かも?
ただし、上徳説は考古学的には現在のところ否定されているようだ。なんやねん。
さて、別に筆者は国府マニアではない。国府についてつらつら述べているのは、伊予国府と藤原純友には密接な関係があるからだ。
純友の生きた十世紀前半という時代は六国史も途絶え、もともと史料が非常に少ない。承平六年(936)以前の純友についてわかっていることは血統と「伊予掾だった」ということのみである。掾とは副知事のようなもの。純友は京から伊予に下り、国府で勤めていたことだろう。
伊予国府はまた、純友蜂起の最序盤の舞台であった。
『本朝世紀』天慶二年(939)一二月二一日条は、当時の伊予国司・紀淑人が書いたであろう伊予国解(地方国司が朝廷に宛てる手紙)を載せている。
前掾藤純友去承平六年可追捕海賊之由蒙宣旨。而近來有相驚事。率随兵等。欲出巨海。部内之騷。人民驚。紀淑人朝臣雖加制止不承引。早被申上純友。鎭國郡之騷云々。
筆者の拙い現代語訳を以下に載せる。
「前伊予掾の藤原純友は承平六年に海賊追捕の宣旨を下されていたが、最近驚くことがあった。兵を率いて瀬戸内海に打って出ようとし、伊予国中の人民が大騒ぎしている。紀淑人は制止したが、純友は承服しなかった。早く純友を召し上げ、国の騒ぎを鎮めて欲しい。」
純友と紀淑人は共同して「承平南海賊」の平定にあたり、その後数年間の伊予国経営も協力して行っていたと推定される。そんな盟友純友の出奔を、淑人は何とか抑えようとした。
「紀淑人朝臣雖加制止不承引」のやりとりは伊予国府で行われたことだろう。出奔した後も淑人は殺害を認める「追捕官符」ではなく「召進官符」を政府に要請するなど、純友に味方をし続ける。
しかしながら純友は天慶三年(940)八月に伊予国を占領する。それが武力を伴うものであったか、伊予国衙の勢力が純友に従って蜂起したのかは分からない。この時点で、紀淑人と純友は訣別した。その訣別もまた、伊予国府で行われたことだろう。
純友は伊予の勢力を結集して瀬戸内海に打って出た。先程の⑥、国府津跡と考えられているのがこの入江である。確かに、河川規模に比して異様に大きいように思われる。純友は希望を抱いてこの入江から出奔した筈だ。その後、ここに戻る機会があったかどうかは分からない。しかしながら、その時には全ての希望は失われていたであろう。
駅に戻り、松山まで移動した。松山といわれて真っ先に思い浮かべるのは司馬遼太郎『坂の上の雲』である。そういえば、坂の上の雲で描かれる主役の一人・秋山真之は海軍戦術の天才であった。
日本海海戦でバルチック艦隊を打ち破った秋山は、大宰府艦隊を打ち破った純友と重なる。伊予の海は海軍の天才を育むのか、とか適当なことを考えながら快活クラブに直行。死ぬほど歩いたので死ぬほど寝た。
後編・日振島に続く
【註】
(1)下向井龍彦『物語の舞台を歩く 純友追討記』(山川出版社、2012年)、同『平将門と藤原純友』(山川出版社、2022年)など。
(2) 亀井英希「藤原純友伝承に関する一考察」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』六、2001年)
(3)このブログには先述した松島・純友神社の探訪記事もある。
また、中野神社関係の論文として井ノ口正明氏の「生子山と純友の伝説」(『郷土研究』一八六、1979年)があるので、興味がある方はぜひ。
(4)都道府県公安委員会設置のものとしては、という条件付き。
《訪問メモ》
・中野神社
新居浜駅から4-5km。新居浜駅レンタサイクルは1日500円。身分証必須。コロナ関係で貸し出しをしていない場合があるので、電話で確認すべし。
駅南口へはエレベーターと跨線橋が便利。
・伊予国府関連
時間があれば伊予桜井駅から国分寺などを見て歩くのがよい。
富田駅から国府津までは片道2.5キロ。大きい道路を信号無しで横断する場面が複数回あるので、時間に余裕を持った方が良い。
【その他参考文献】
愛媛県埋蔵文化財センター「伊予国府研究史 推定地諸説と研究の現状」
http://www.ehime-maibun.or.jp/sell/app/static/images/sample_03iyokokuhu.pdf
0 件のコメント:
コメントを投稿