何も考察してないんですけど、ただの資料集として活用してもらうのもありかなと思って一応公開しときます。
「日向」
・景行天皇と日本武尊の征西説話において、「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったから日向
・成立当初は現在の九州南部一帯の呼称で宮崎県と鹿児島県の本土部分を含む広域に渡っていたが、8世紀の初めには、薩摩・多褹の叛乱を契機に薩摩・大隅両国が分置され[4]、日向の国域が定まった[5]。
・大宝2年(702年)、薩摩・多褹の叛乱
・古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった[10]。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される[10]。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている[10]。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考える説がある[11]。
・4世紀以降は新田原・茶臼原・西都原・本庄・六野原・生目といった畿内型古墳群が展開した[13]。こうした古墳群の存在は、その首長と近畿地方の政治勢力とが政治的関係にあったことを示している[3]。
・6世紀から7世紀中期にかけては、史書では推古天皇期の「馬ならば日向の駒」という記載程度しかなく、中央と日向との関係の実態は明らかでない
『日本書紀』に推古天皇が「駒ならば日向の駒」と歌を詠んだ記事が見られるが、当時の日向は大隅・薩摩を含んだ地域であり、森浩一は「隼人の馬」を指すものではないかと指摘している
・当初は薩摩国・大隅国を含む領域を有しており、7世紀末の段階では日向国は対隼人の最前線に位置づけられていた[14]。大宝2年 (702年) に唱更国(後の薩摩国)、和銅6年 (713年)に大隅国が分立した。
・『日本書紀』では景行天皇が日向を根拠地として熊襲を征伐した話が記されている
・『延喜式』兵部省によれば、野波野馬牧・堤野馬牧・都濃野馬牧・野波野牛牧・長野牛牧・三原野牛牧の六牧が置かれており、下総国・肥前国と並んで牛馬の官営牧の多い国である。
・幾分なりと歴史的事実の反映がうかがえるのは、景行の「征西説話」からである。しかしこの説話も斉明の九州行幸を契機にまとめられたとする説があり、内容の吟味には十分に注意する必要がある。景行の「征西説話」は、「古事記」「日本書紀」ではかなり内容が異なっている。
・宮崎県には前方後円墳が数多く存在する。前方後円墳は近畿地方の政権がその政権と同盟関係に入ったり服属するに至った首長たちに築造を許すという、きわめて政治的な意味をもった築造物であったとされる。近年は「前方後円墳体制」という言葉で古墳時代のヤマト王権の政治体制を表現することも行われており、宮崎県の前方後円墳も日向と近畿地方の勢力との政治的接触を示すものとして重要である。
古代古墳時代の勢力図に日向が登場する。この地域を支配した強権があった、それを古墳群が示しているのであろう。それと隼人史との関係は不明である。
「隼人」
・延暦七年(七八八)に噴火した大隅国贈於そお郡曾乃峯などから(「続日本紀」同年七月四日条)、ソの地方は霧島山系から鹿児島湾奥部沿岸にかけての地域(現鹿児島県国分市を中心とする一帯)で、隼人の最大勢力の一つ曾君一族の本拠地であったと考えられる。
・「日本書紀」天武天皇一一年七月三日条に隼人の朝貢の記事がみえ、隼人たちは大きく阿多隼人と大隅隼人に分けて把握されていた。七世紀末の段階では薩摩国・大隅国は成立しておらず、日向国が対隼人支配の最前線に位置づけられていた。「続日本紀」文武天皇三年一二月四日条によると、政府は大宰府に命じて三野みの稲積の二城を修築させている。三野城は児湯こゆ郡三納みのう郷(現西都市)、稲積城は大隅国桑原くわばら郡稲積郷(現鹿児島県国分市周辺)に所在したと想定され、両城は隼人に対する軍事的拠点としての役割を担っていた。政府は僧侶を阿多あた・大隅に派遣するなどして隼人の教化に努めたようであるが、必ずしも十分な効果をあげることはできなかった。
・養老四年(七二〇)にも隼人による大隅国守殺害事件を発端として大隅・薩摩と日向の一部に広がる大規模な反乱が起こり、鎮圧までに一年半を要した(同書同年二月二九日条・同五年七月七日条、「八幡宇佐宮御託宣集」)。このとき日向国の兵士たちは政府軍の主力として戦ったようで、養老七年に当事国の薩摩・大隅両国とともに日向国の士卒にも三年間の免税措置がとられている(「続日本紀」同年四月八日条)。政府にとって隼人を服属させ、南部九州を安定させることが非常に重要な課題となっていた。
・当然ながら「古事記」「日本書紀」のなかで南九州およびそこに住む隼人は熊襲とよばれ、征服の対象になったり、海幸彦・山幸彦の神話に象徴されるように政府へ服属すべきものとして登場することになる。「八幡宇佐宮御託宣集」には養老四年の隼人の反乱に関連して日向隼人という言葉がみえ、日向国内に反乱勢力に関与したか、あるいは関与しないまでも政府の鎮圧行動に積極的に協力しなかった勢力があったことが想像される。
・すでに桓武天皇の時代、農民の負担軽減のため辺境(大宰府管内や蝦夷との緊張が続く東北地方)を除いて軍団兵士制が廃止され、健児制が導入されていた。三〇年ほど遅れて、大宰府管内でも軍団兵士制に代わって統領選士制が採用されることになったのである。この制度は地方の有力者の子弟から選士を選んで、大宰府や管内諸国嶋に配して警備の任務に就かせ、これを選士統領に当番を決めて監督させる制度であった。日向国に置かれた選士統領は、大隅・薩摩・壱岐・対馬の二国二嶋と同じく二人であるが、三前三後の六国には四人ずつ、大宰府には八人配された(天長三年一一月三日「太政官符」類聚三代格)。なお多〓嶋は天長元年に廃止され、大隅国に併合されている(同年九月三日「太政官符」同書)。三国二嶋に置かれた選士統領の人数が他国より少ないことは選士の数も少なかったことを想像させ、とくに南九州に関していえば八世紀に存在した隼人との軍事的緊張が消滅していることを示している。
・日本神話には海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、祖神火照命の末裔であるとされる[2][3]。
・歴史的事実として信用しうるものは天武朝以降の記事からであるとの通説を確認し、さら に九世紀初頭以降、南九州の住民を「隼人」と呼称する例は、史料上ひとつもみられなくなるこ とを確認した。よって南九州の人々が隼人と呼ばれたのはわずか百二十年間ほどのことにすぎな いことが指摘できる。
・中国の皇帝制を模倣した天皇制が開始されるにあたり、中国的夷狄観にもとづき 隼人は創出される。
・隼人とは政治的に設定された存在であり、したがって 「古代南九州地域の文化」を「隼人の文化」として理解できるかどうかは、きわめて慎重な考察 が必要となろう。
・「日向神話」は南九州を舞台にしており、ソ、アタ、カシ、アヒラなど、隼人だとされた古代南九州の人々に関わる地名や人名(神名)が登場し、天皇家の祖先と隼人の祖先が血縁関係に あると説かれている。また海宮訪問譚は天皇家の祖先である弟の山幸彦が隼人の祖先である兄の 海幸彦を屈服させるという、隼人の服属の起源を説く話となっている。このように「日向神話」 は、隼人だとされた人々の居住域を舞台にしていると考えられる。したがって『記・紀』編纂者 が想定していた「日向神話」の舞台とは、現在の鹿児島県本土域だと考えられる。
・そもそも王権神話の舞台が「日向」とされたこと自体、伝統的な「神話」などではなく『記・紀』編纂時に王権に取り込まれつ つあった隼人や南九州を意識してのことだったのであり、「日向神話」は王権による地上統治と隼 人/南九州支配の正当性を主張するために創作されたものであると考えられる。
・隼人とは、文化的・人種的に独立した固有の民族集団ではなく、7世紀末~8世紀当時の律令政府が、律令体制導入の過程で大陸から取り入れた華夷思想に基づいて、古墳時代後期以来、地域的独自性が強く、班田制などの導入が未施行である薩摩・大隅地域の人々を、律令体制外の辺境民(化外の民)として「設定」し、朝貢させる形をとらせた、政治的に創出された「疑似民族集団」と捉える意見もある
東方の蝦夷は擬似民族集団ではなかろう。なぜ?固有の文化。→隼人の固有の文化は?その程度の差は?南島文化は?:文化の差があったとて、それは同じ民族内の地域差に過ぎない?
議論すべきは、 大隅・薩摩が「古墳時代後期以来、地域的独自性が強く、班田制などの導入が未施行である」ことが「民族の違い」によるものなのか「大和中央政府からの距離・地形など地理的要因」によるものなのか。
僕としては両方だと思う。
民族という定義から検討する必要性がある。大和朝廷と出自が違う(「そして九州南部地域は現在でも血液指数、指紋指数が特殊な数値を示す、身長が低い(言うほどでもない)[66]事から、隼人も多少なり、血液・指紋の型は大和とは異なると見られる。」)点を重視して別民族と言うこともできる。
地理的・風土的孤立から九州南部は、弥生文化の普及が遅れていたらしい。
7000年前の鬼界カルデラ噴火と関連していたら面白いね。
シラスはでかい要因だろう。
そもそも擬似民族集団論には根拠が薄い。「中央政府が、華夷思想を真似て鹿児島人を夷狄と設定した」という論理だが、これは鹿児島人が実際に民族的に異なっていたのかどうかに言及し得ない証拠である。 一方異民族論では人類学的な見地から一定の証拠が提示されている。
そもそも、僕の興味関心はそこではない。兎にも角にも、当時の「日本」の外に「隼人」が存在したことが事実である。「化外の民」と中央政府との武力を伴う交渉の足跡を巡るのが旅の主題であって、隼人の由来自体は関心の中心では無い。 (ルーツとされる場所を巡るのは主題だけども......。)
・古語に猛勇を〈はやし〉ということより起こるという説(本居宣長),《新唐書》倭国伝にみえる〈波邪(はや)〉の地名によるという説(喜田貞吉),暴風や8月の風を〈はやち〉と称することから,かかる疾風が夏季におそう地域を〈はや〉の地域といったという説(松岡静雄),などがある。
・これらの隼人は,日向隼人,大隅隼人,薩摩隼人,甑(こしき)隼人などとそれぞれ地名を冠して呼ばれるが,彼らは地域的に割拠分散し互いに部族集団を結成して対立し,統一的な政治権力を作り上げていなかった。そのことが律令制下でもしばしば反乱を起こしながら鎮圧され,遂には大和政権の統治を許す最大の原因ともなった
・古代の日向・大隅・薩摩の地域に、狩猟・漁撈を中心に農耕生活を営んでいた人々が、長らく文化的にも孤立していたため、中央政府から「夷人雑類」と見做されていたのが隼人である。
・熊襲とか隼人などの名称には、猛獣・猛禽類が、木の間がくれや、空中から突如として人を襲うという恐怖感と、また逆に辺境の人を動物や鳥類になぞらえるという優越感、いわゆる中華思想とが、錯綜していることを見落としてはなるまい。
・これらの反乱の原因の多くは、隼人支配強化、特に造籍班田に対する反抗であったようである。隼人支配の基本はいうまでもなく、分断政治にあり
律令制は稲作を中心に据えるが、シラス台地では厳しかった。
・川内川より南の薩摩半島は古墳の『空白地帯』と考えられており,当時のお墓は土坑墓が主流と考えられて いましたが。弥次ケ湯古墳の発見で, 日本の古墳が薩摩半島の南端まで広が ることがわかりました。
・大和政権が薩摩君と曽君の支配地であった鹿児島県域を支配下に組み入 れ,薩摩国と大隅国を分置したのは, 8世紀初頭である。しかし,弥次ケ湯古墳の発見により,6世紀には薩摩半島南部が大和政権に組み入れられてい たと捉えられるようになってきた。このことなどから,大和政権は北から南へ勢力を拡大してきたが,南九州においては先に阿多君や大 住 直の支 配地であった半島南部を支配下に置き,「南から北へ」侵攻したと考えら れるのである
薩摩半島中部に古墳が無いことを以てそこを薩君の勢力範囲・隼人の勢力範囲とするなら、なぜ大隅半島の肝属平野を大隅隼人の所在地と比定したのか。(菱田川流域との説もあるが、そちらにしても飯隈古墳群が近しい)つまり、結構大隅半島は古墳があるので、大隅隼人の所在が見出しにくい。ホントに実在した?反乱してるから多分実在はするんだろうけどさ。
前方後円墳がある=ヤマト王権の範囲内=隼人が本来的に存在し得ない ?
・ 古墳時代以降薩摩・大隅地方には竈付住居が展開しないことや、土師器化が顕著ではなく須恵器窪..も確認されないこと、中期段階から独自様式の鉄鎌を形成するが、後期段階ではさらに進化すること、 後期に入ると前方後円墳が消滅することなどから、薩摩・大隅地方では後期に入ると「列島の中で異質化が進行」し、これが隼人像につきまとう「異質性」であり、その異質性を問題とすることによって中央政権が「隼人」を「創出」していった、とする。(永山修一)https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/240167/1/shirin_094_1_201.pdf
弥次ケ湯古墳の論理と矛盾する。あと、形質人類学的に隼人が倭と異なるという説と矛盾。あと、異質化進行の要因は?
古墳時代後期に大規模な前方後円墳が見られなくなることは、大和地方以外に共通する。これを隼人の異質化と見ることは難しい。
・定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは(東日本の)広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。
* 古墳時代前期 … 3世紀後半から4世紀末まで
* 古墳時代中期 … 4世紀末から5世紀末
* 古墳時代後期 … 6世紀初頭から7世紀前半
・中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。
・列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。
・ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている。
・5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられる。
・5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王があいついで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。
・『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権(倭王武の先祖)が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。
地方豪族が政権連合に参画すること=地方征服とするのは如何なものか。
・5世紀後半(古墳時代中期後半)の古墳の分布を検討すると、この時代には、中期前半に大古墳のつくられた筑紫、吉備、毛野、日向、丹後などの各地で大規模な前方後円墳の造営がみられなくなり、ヤマト政権の王だけが墳丘長200メートルを超える大前方後円墳の造営をつづけている。この時期に、ヤマト政権の王である大王の権威が著しく伸張し、ヤマト政権の性格が大きく変質したことは、考古資料の面からも指摘できる。
・オホド大王の登場以降、東北地方から九州地方南部におよぶ全域の統合が急速に進み、とくに磐井の乱ののちには各地に屯倉とよばれる直轄地がおかれて、国内的には政治統一が進展したとする見方が有力である。
・6世紀中葉に日本に伝来した仏教は、統治と支配をささえるイデオロギーとして重視され、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂された。これ以降、氏族制度を基軸とした政治形態や諸制度は徐々に解消され、ヤマト国家の段階は終焉を迎え、古代律令制国家が形成されていくこととなる。
古墳が無くなったのは、仏教の影響。
「鹿児島縣史第1巻第2章」
・阿多は南薩の地である。それ故、隼人は薩隅両国及びその付近の島嶼に多かったことが知られるのである。このことは文献のみならず考古学上の古墳分布からも言えるかもしれない。日向に多い古墳群は太平洋岸に沿って南下し志布志地方より大崎地方に至って発達しているが、大隅半島を縦貫する山脈以西から薩摩國一円には古墳がなかった。
言い回しが格好良い
服部昌之(1998)「7・8世紀日本の地域問題」
・蝦夷・隼人・南島人を民族集団とした のは,表 3の史料24に訳語人があるように, 異なる言語文化を蝦夷・隼人が有しているからである。
・『新唐書』東夷伝日本には, 「其の東海島中 にまた邪古・波邪・多尼の三小王あり」とあ る。遣唐使が対外的に,日本国の周辺には蝦夷国・隼人国・多祢国・披玖国の 4つの国が あると述べているのは注目に値する。
・朝貢とは,古代王権が周辺の「化外国」との服属関係を維持・強化する方策で,王権に よる隼人の支配,隼人の王権への服属を示す
・隼人国の南に位 置する多禰島にまず支配の手を伸ばして南九州地方支配の拠点にし,次いで文武朝に入ると国覚使を派遣している。
・表 3の史料 9にみえる三野城と稲積城に ついては,北九州に求める説19)もあるが, 「和 名抄』の日向園児湯郡三納郷と大隅国桑原郡稲積郷にあてる説20)が妥当であろう。その 2城 の位置は,後の日向国の国府と大隅国府に近接しており,中央政権の隼人国侵略の拠点と なったのである。
・700年の場合は薩末比売・久売・波豆,衣評督衣君県,助督衣君豆白美,肝属難波等 が,肥人等を従えて武力襲撃にでて,覚国使 刑部真木一行を剰却した。この時の隼人側の 中心人物に衣評督・助督という官職名がみら れるのは,薩摩半島南端の後の薩摩国穎娃郡 付近に,隼人の部族的集団性を保持したまま 飛地的に建評されていたことを示し,後の隼 人郡の前身が形成されていたものと解される。その翌々年には薩摩・多踊両地方にまたがる 大規模な組織的抗戦が起り,中央から征討箪 が派遣されるとともに,抗争の場となった薩 摩地方に城柵を建置し兵士を駐屯させるとい う軍事支配体制がとられた。
・713年 と 720年 と の 聞 に , 表 3 史 料 19に あ げたように, 「隼人,昏荒野心にして,憲法に習わず」と し , 豊 前 固 か ら 柵 戸 の 民 200戸 が 送 り こまれ,隼人地支配の拠点づくりが行われている。柵戸の集団移民について,薩摩園高城郡の合志・飽田・字土・託万の 4郷が, 「肥 後 に同名の郡あり」「肥後移民の故蹟と想はる」 と,吉田東伍が早く注目している。そこで改 めて『和名抄」によって薩摩・大隅・日向 3国の郷名をみると,北九州・中九州の国郡郷 名と一致する事例が多く認められるので,図1に示した。九州北部・中部から南九州への 集 団 移 民 は , 714年 の 豊 前 国 民 200戸 以 外 に も 多く行われたとみなければならない。集団移 民が想定される郷が多く分布するのは,薩摩国では北部の高城・出水郡,大隅国では桑原 郡で,ともに国府・城柵の所在地ないしその 近傍郡であることに注目される(高城郡もそ の郡名から城柵の存在を想定した)。このこと は,柵戸集団移民が隼人地における律令国家 支配の拠点地確保にあったことを物語ってい る。
・南九州のもう一つの地域的特性は, 郡里(郷)制と公地公民制が貫徹されず,朝貢服属制が8世紀末まで存続したことに求め られる。そのように考えるのは,まず薩摩で は出水・高城2郡を除く1郡が隼人郡(隼人1郡)という特異性をもつことである。隼人の族長を中心にした部族集団によっ て郡が編成され,規模の小さい郡が多く,な かには 1郡 1郷のものもあるというのである。
・古墳時代中期では、畿内を中心として、広域で副葬される武器・武具の種類や組み合わせに斉一性があることが知られている。これは、政治の中心である畿内から全国に大量の鉄器配布があり、首長間の交流によって鉄鏃の広域な移動と情報の共有化が政治的に行われたなどが考えられている。
しかし、「圭頭鏃」という副葬品は、古墳時代後期において南九州に独自のもので、形態も広域流通品と異なる。これは南九州が畿内の政治的影響を受けつつも地域独自の社会を形成維持していた証拠となる。
「西都原古墳群」
・日向に古墳時代に大規模な勢力があったことを示す。
この地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったことに由来する。この地から、山を越えて隼人を睨んだ連中がいたということだ。隼人交渉の最前線。
「大隅半島」
「唐仁古墳群」
「横瀬古墳」の近く
畿内式の高塚古墳(墳丘を伴う、いわゆる古墳)
高塚古墳と地下式土壙が共存するのが西都原古墳群以南の特徴 /鹿児島県の歴史散歩p.158
日南海岸に沿って大和朝廷の勢力が進出していることが伺える。
「吾平山上陵」あいらさんりょう
神武天皇の父親(日向神代三代のラスト)の陵墓
明治天皇と昭和天皇が来たことある。
神代の墓なので、要はフィクションである。それを言い出したら高千穂峰だってただの山で登る必要性もないのだが、両者の差はなんだろうか。思うに、これまで古墳という一応本物の墓を巡っただけに、墓と言いつつフィクションであることに違和感を覚えたのだろう。
「高千穂峰」
隼人の居住地から見えるので、神話に組み込まれたという説明。
「弥次ヶ湯古墳」やじがゆ
・5世紀後半〜6世紀前半の後期古墳。
・本土最南端の古墳、指宿
・団地の敷地内
・円墳、でも古墳であることが重要
・後期の古墳であるが、前方後円墳では無い。すごくグレーゾーン。
・「古墳の空白地帯」薩摩半島に楔を打ち込む
マンション工事程度で見つかるんだから、もう少し半島に古墳ありそう(小並感)。
・しかし古墳(円墳だけど......)の存在=ヤマト王権の影響とみなして良いのか?
薩摩半島南端の衣君という勢力はヤマトと結びつきが強く?、衣評が飛び地的に建評されていた。(のちの頴娃町)(ちなみに頴娃という言葉は頴を「えい」と読み、娃は読まない、と相席食堂で紹介されていた。)衣君は対岸の大隅半島の肝衝氏と、貝輪の南方貿易で提携関係にあったとされる(考古学的共通性アリ)。根占で想いを馳せよう。或いは、この6世紀前半の古墳も衣評の成立と関係があるやもしれぬ、いやあると考えるのが自然だと思うが、所詮素人考えである。
ヤマト王権は南方種子島から支配をしていったようである。
『続日本紀』文武4年700年「薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県、助督衣君弖自美、...」覔国使を脅迫した事件
「隼人町」周辺
・大隅國の国府が置かれた。「大隅国府跡」
住宅街に石碑のみ。近くの神社が総社とされるが、考古学的には何も見つかっていないよう。
・この辺りの桑原郡(姶良郡)には、豊前移民が大勢入植したとされる。(同一の郷名が四つ程度ある)集団移民が隼人地における律令国家支配の拠点地確保にあったことを物語っている。
史料:「続日本紀」「隼人、昏荒野心、憲法に習わず。豊前国の民200戸を移し、相勧導。」これを郷名を根拠に大隅国府周辺への入植と比定する。
・「隼人塚」
「隼人」町の名前の由来。隼人町は隼人が住んでいたことを示すものでなく、あくまで隼人塚があることのみを示す名前であることに注意。
近くに「大隅隼人城」がある。
山頂に古代の遺跡があったらしい、本当かなぁ
・「第二の隼人塚」
隼人塚から北東数百メートル
720年叛乱の戦死者を埋めた首塚、と言われている。
「真板田」「猪切薮」という関連を疑わせる地名
本当にあんの?何が関連してんの?
近くの「止上神社」は山幸彦を祀っている。隼人じゃん。
近くに「姫木城」「橘木城」合わせて比売之城がある。隼人が立て籠もった、と言われている。
一応、近くの小学校で刀剣・土器が発見され、隼人の叛乱で殺害された国司の墓所では無いかと言われている、らしい。唯一の考古学的証拠?
結局、「火のないところに煙は立たない」理論。とは言え、隼人町が隼人塚に由来することが話をややこしくしている。
☆隼人の遺跡があれば場所比定できてるんだから、隼人の遺跡無いんじゃね???
☆遺跡として考えうるものが、墓制くらいしかないけど、それも隼人との対応に疑義が示されている。調べる必要。
☆邪馬台国九州説が真ならば、狗奴國熊襲隼人説もまた真だろう。
☆天照大御神の天孫が高千穂峰に降臨し、三代ぐらい鹿児島でグダグダして(日向三代)、五世孫の神武が東征して日本国建設、初代天皇になった。
あくまで日本国王=天皇であって、天照大御神を天皇としないところにイデオロギーが感じられる。
神武東征の際には早吸瀬戸通ったらしい。
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