2022年10月1日土曜日

藤原純友の足跡を辿る【後編】

 本作では以下の場所を訪ねた。

・中野神社(新居浜市種子川)【前編】

・伊予国府跡(未確定)(今治市上徳)【前編】

・日振島(宇和島市)

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特急宇和海の指定席を予約しているので、朝はのんびり寝た。一昔前の僕なら絶対に始発鈍行を選び、追い抜いていく特急に中指を立てていただろう。大人になったものだと感じるし、老いたものだとも感じる。

宇和島は案外大きな街だった。てっきり八幡浜程度の規模だと思っていたが、人口は70000人いる。八幡浜の約2倍である。流石は、昔は別府までフェリーを出していた港。今でも「宇和島運輸」が八幡浜から別府・臼杵を結ぶ航路を運営している。


宇和島の街をブラブラ海まで歩き、港に着く。宇和島から日振島まで高速船で片道2080円。片道ですよ。高い! なんでも、運航する盛運汽船は代議士一族経営で、色々と黒いがあるようだ。そりゃそうだろう。往復4000円取るのは犯罪だ。

 

フェリーに乗船中、島在住と思しきおじさんが派手に転けてしまい、出血してしまった。おじさんはこの年代特有というか、頑固で島に戻りたいというが、船員さんが「今はドクターがいないから、戻らん方がいいよ」と言って。ドクターがいないとは、島に医師がいないということ。常駐医師はおらず出張に頼っているのだろう。人口300人の島では無理もないか。

 

出航、船は穏やかな宇和海を行く。鏡のような水面だ。明鏡止水? 一般に宇和海側は穏やかで、豊後水道側は苛烈らしい。しばらく行くと遠くに日振島が見えてきた。日振という地名は、松明を灯台代わりに振っていたことから「火振」→「日振」となったらしい。いかにも海賊の島っぽいエピソードだ。

 

松明は無いが、フェリーは喜路に寄り、やがて明海に着いた。日振島には3つの集落があり、東から順番に喜路・明海・能登という。名前の由来について、盛運汽船ホームページにはこのようにある。

 

神功(じんぐう)皇后が、暴風雨にあい航路を見失い豊後水道からこの島の湾に辿り着きました。その際、「帰り道」に寄った湾であるから「喜路」と名付け、その後、喜路から漕ぎ出した船が、明け方に着いたことから、その湾を、「明け海」と書いて「明海」と名付けられました。そして、いよいよ都に登る海路に、また一つの湾に入りました。これが「都に登る」という意味で「能登」と名付けられたと伝えられています。

 

そういうわけで、明るい海こと 明海(あこ) に上陸と相成った。明海は日振島の中では一番栄えており、かつ純友伝承を持つ。散々卒論でネタにしてきたので、ちょっと感動した。

 

初めに小学校を訪ねた。人口300人の離島だが、なんとか小学校は存続できている。小学校は明海の外れにあり、能登と喜路の小学生はスクールバスで送迎するとのこと。訪問時はなぜかマツケンサンバⅡが盛んに流れており風情が台無しであったが、それよりも注目したいのはこの絵だ。

 

毎年卒業生が制作しているのだろうが、近年は描かれる顔の数が露骨に少なくなっていた。まさかプライバシー意識の高まりによるものではあるまい。シマダスによれば日振島の人口の1割はIターンの人らしく、彼らが子育てを行っているのだろうが、それでも小学校はギリギリの運営を強いられている。

 

カメラを構え、明海集落を徘徊する。まるで不審者というか、正確に不審者だ。僕はこの不審者としての営みを中学生から続けているが、大切なのは「朗らかな挨拶」と「すまし顔」だ。こんにちは!の声とすまして歩く胆力が必要なハードワークなのである。

 

不審者ハードワークの末に発見したのが、この「美なかはの井戸」。藤原純友が使っていたという伝承があるけど、伝承よりも生活感が強い。

「美なかは」は「美しい川」などの意味だろうか。飲むと歯痛が治るらしい。島だから歯医者要らずなのは助かるだろうなぁなどと思う。

 

井戸の近くの案内板に「↑純友公園」とあった。これこそお楽しみの「城ヶ森」城である。愛媛県教育委員会の調査によれば考古学的には中世の山城らしく、一説には豊後の大友氏が伊予への中継地点として整備したものとされる、らしい。

つまり、純友の根城だったというのは史実では無いのだが、島民がそう語り継いでいるのならばその伝承こそまた歴史なのだ。山城は島民からはそれなりに愛されているようで、純友の記念碑が立っているという。そして島民が木の伐採など整備をし、小学生が登山道の掃除をしているらしい。さぞかし登りやすい道なんだろう。

 

台風一過の後だということを失念していた。これは長袖で来るべき場所だった。猛烈な後悔をするが、引き下がるわけにもいかない。標高80メートルほどを全力で上った。

 

台風一過でも景色は綺麗だった。穏やかな宇和海を一望でき、頂上には「藤原純友籠居之址」という記念碑が立っていた。

ん?籠居?

純友がここに籠城した、と考えられているのは驚きだ。

日本国語大辞典によれば「籠居」とは

①家の中にひきこもって表に出ないでいること。閉居。また、自宅にこもって謹慎すること。刑罰として命じられることもある。蟄居(ちっきょ)。

②仏門に入ること。遁世すること。

の2つ。②では無いから①に近いと思う。

純友伝承についてまとめた論文は前編で紹介したが、そこには日振島の話は無かった。どういう伝承かは分からないが、藤原純友が籠居したと伝わっているなら、或いは籠城の末に死んだとの伝承もあるやもしれないなと感じた。

 

故郷大分の英雄・大友氏の城など見ることも忘れ、そんなことを考えながら下山したのだった。いずれ筆者が戦国時代にハマった時に、猛烈に後悔することだろう。「その時にまた来ればいい」とは思えないほどキツい登山だった。せめて冬場だな。

 

僕には郵便貯金の趣味は無いが、しかし離島の郵便局には心惹かれるものがある。無人駅というものはあるが、無人郵便局というものはない。中学生の頃から秘境駅を巡り、山奥の駅にも駅員が常駐していた痕跡を見る度に感じていたノスタルジーが、郵便局で解決されることに気付いたのは大学生になってからだった。てか、Twitterで見た。やっぱりTwitterだ。Twitterが人生を改善する。

日振島郵便局は2人体制で、めちゃくちゃ暇そうだった。友人に出すハガキを買って、さて、どうしよう。フェリーまであと2時間半。もう疲れたしゴロゴロすっかなぁ

 

という訳にも行かないのだった。知らない土地はなるべく歩くことを是としているので、能登まで五キロ強を歩くこととなった。くう

 

歩きながら、純友の話でも。

日振島と藤原純友の関係は、実のところよく分かっていない。

その関係を示す唯一の根拠は『日本紀略』承平六年六月条の冒頭部分

 

南海賊徒首藤原純友結党、屯聚伊予国日振嶋

(南海道の海賊首領・藤原純友が徒党を組み、伊予国日振島に屯聚している。)

 

である。しかしながら、実はこの記述は後世の編者による付け足しだというのが現在の通説で、だからこそ最近教科書の「承平・天慶の乱」は「天慶の乱」となったのだ。

 

どういうことか。以下に、件の日本紀略と、それと非常に似た内容を記す『扶桑略記』天慶三年一一月二一日条を記す。見比べてみよう。

 

『日本紀略』

南海賊徒首藤原純友結党、屯聚伊予国日振嶋。設千餘艘、抄劫官物私財。爰以紀淑人任伊予守、令兼行追捕事。賊徒聞其寬仁、二千五百余人悔過就刑。魁帥小野氏彦、紀秋茂、津時成等、合卅余人、束手進交名帰降。即給衣食田畠、行種子、令勧農業。號之前海賊

『扶桑略記』

南海道賊船千余艘浮於海上、強取官物、殺害人命。仍上下往来人物不通。勅以従四位下紀朝臣淑仁補賊地伊予国大介、令兼行海賊追捕事。賊徒聞其寬仁泛愛之状、二千五百余人悔過就刑。魁帥小野氏寬、紀秋茂、津時成等、合卅余人、束手進交名、降請帰伏。時淑仁朝臣皆施寬恕、賜以衣食、班給田疇、下行種子、就耕教農。民烟漸静、郡国興復。

 

 

太字部分は両者ともにほとんど共通する内容のため、つとも同じ元ネタ(紀淑人が勲功をアピールするために朝廷に送った伊予国解だろう)を使って書いていると思われる。

となると逆に、「太字でない部分」はそれぞれの本のオリジナル(でっちあげ)ということになる。例えば『日本紀略』文末は、「これを前海賊と呼ぶ。」という意味だが、これは「後海賊」=「藤原純友の乱」を知っていないと書けないことであり、承平六年当時の記録に書いてあるわけがない。

じゃあ「藤原純友結党、屯聚伊予国日振嶋」もでっちあげじゃないか。何のためにこんなところ歩いてるんだ。解散だ解散。

 

そういうわけでもない。

「日振島」という地名の初見はこの記事である。日本紀略の編者が、何の関係もない無名の島をわざわざ書くとは考え難い。

つまり、「藤原純友結党、屯聚伊予国日振嶋」は承平六年当時の描写ではないが、何らかの事実を描写している可能性は充分にある。

では、いつ藤原純友は日振島にいたのだろうか————これこそが筆者の卒論研究テーマであるから、まだここに書くわけにはいかない。乞うご期待。

 

山道を歩く。過ごしやすく一気に秋めいてきたというのに、死に遅れた蝉が懸命に鳴いている。こっちは死にかけで、昨日も散々歩き、今日も既に一山登っているのにまた歩くのはかなりしんどい。脚というか、足が痛くなる。

異常徘徊者も山道となると心配の対象になるらしい。通りがかる軽トラが能登まで送ってくれるという。有難い話だ。しかし、まぁ、早くついたところですることが無い。痛いのなんの言っているが、ボーッと知らない道を歩くのは実は結構好きなのだ。感謝を述べ、また黙々と歩く。

 

そして左へカーブを曲がると、光る海が見えてくる。豊後水道だ。能登まで歩いているのは、実はこれが目的だった。基本的に日振島の西岸は断崖絶壁で、集落は東岸にある。ここは日振島にありながら豊後水道を拝める貴重なスポットなのだ。

目を凝らさなくても、対岸の九州が見える。日振島から九州までは直線距離で約25kmしかない。目に見える距離なのだ。

 

藤原純友御一行は天慶四年(941)五月に突如大宰府を強襲、陥落させた。しかしその後政府軍との決戦に純友たちは破れ、敗走する。その残党狩りの様子が政府記録に残っており、敗走軍の中に九州海賊らしき姿が見える。佐伯是本と桑原生行だ。それぞれ日向と佐伯で政府軍に敗れている。

このことが示唆するのは、純友が九州海賊とも密接な接点を持っていたことだ。そして、その接点こそ豊後水道の真ん中にある無名の島、日振島だったのだろう。或いは藤原純友も、筆者と同じ場所で九州を睨みつけたかもしれない。

 

さて、能登に着いた。本当は日振島灯台まで行ってみようと思っていたのだが、もう行く気ない。疲れた。やってらんない。帰りのフェリーまで友人へのハガキを書いて時間を潰し、「何しに来たん?」「藤原純友の論文書いてまして」というお決まりの会話を交わしながら乗船。爆睡。

 

宇和島に着くと、足が痛いだの言っていたのが嘘のように足早に歩く。腹が減って仕方が無いのだ。前々から気にはなっていた宇和海鯛めしを奮発して食べた。ごはんの上に肉や魚を盛ってドロドロのたれをかける料理、大好き!

 

宇和島から八幡浜まで本日度目の特急宇和海で移動した。実は翌日に大分市で用事があり、今日中に九州に渡る必要がある。八幡浜-臼杵のフェリーを使う予定だったが、調べてみると八幡浜-三崎-佐賀関の方が安いし速く着く。意気揚々と三崎行特急バスに乗り込むと、なんと高級夜行バスと同じ三列シート。優雅な移動となった。

 

高級夜行バスを降り、フェリーに乗って降りたら親が佐賀関まで車で迎えに来ていた。やはり持つべきものは深夜に車を出せる親である。帰って寝た。

そう、今回の旅行は帰省旅行なのだった。台風が心配でしたがほぼ滞りなく旅行ができて幸いだった。

次はMCS南部杯観戦の為に盛岡まで行くつもりです。卒論も頑張ります。それでは。

 

《訪問メモ》

・日振島

宇和島港から高速船が一日3便、普通船が一日1便出ている。どちらも割高。

宇和島駅へは松山から特急宇和海で1時間半。宇和島駅から港まで歩いて1キロ強。

東から順番に喜路・明海・能登集落があり、それぞれ移動距離で5キロほど。

 

【参考文献】 

盛運汽船「航路・観光案内」

http://www.seiunkisen.co.jp/kouroannai.html

角川日本地名大辞典「日振島」

 

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