深夜に羽田を出て、ドバイでトランジット。丸一日をかけてようやっとアテネに着いたのは14時過ぎだった。時間はかかったもののエミレーツ航空での道中は非常に快適で、機内映画や予めダウンロードしていた映画、ギリシャ、中欧の『地球の歩き方』を読んで夢想する楽しい時間を過ごせた。
飛行機を降りると、日本人の団体がいるのが見えた。異国で日本人に会うと、一匹狼で旅をする自分が誇らしく思える。この時も同様で、孤独な旅人を気取ってスタスタ先に歩いて行った。こなれた顔をしてパスポートコントロールで待っていると、後ろから日本語で一声。「お兄さん、あそこの窓口空いてますよ」
あぁ、恥ずかしい。沢山の視線を背中に受けながら入国審査官に対峙した。Covid-19流行のために、万が一にでも検疫で引っかかるとマズいと思い、事前にトイレで水を浴び気持ち程度でも体温を低下させておいた。しかし、入国審査官は元より検疫官も雑な仕事をしていたため、あっさり入国できた。拍子抜けである。
さて、歩き方を片手に市内へ赴こうとする。地下鉄が一番安いらしいので案内表示に従い長い廊下を歩いて駅に行くと、なぜだか改札のシャッターが閉まっている。おや、これはJR北海道のように改札がなかなか開かないパターンか、と初めは思ったが様子がおかしい。人っ子一人いない駅に少し佇み、どうやら今日は運行していないらしいことを悟ったので来た道を戻る。ならばバスだ、バス乗り場はどこだろうか......。人が集まっている所を発見し、タイムテーブルを見ると
「15:00 strike」
「15:30 strike」
......
確かに歩き方にはストライキが稀にあると書いてあったが、まさか自分が影響を受けるとは...... 。「まさか自分が」を初めて味わうのが犯罪被害などでなく軽微なもので良かった、と現実逃避しつつも、残された交通機関は高額なタクシーしかないという事実が僕の首根っこを掴んで現実に引き戻した。タクシーで市内へは固定料金で38ユーロ:約4500円。こりゃ破産だと思ったが、まさか空港で一週間、帰りの飛行機を待つ訳にもいかない。何か救いがあるはずだと信じてインフォメーションに訊ねた。
「タクシー以外で市内に向かう方法は無いのか。」
"except by taxi"を強調して訊ねたが、はたして係員は首を振り、全便ストライキなんだ、と言う。
だが、救いはあった。丁度その時に同じようなことを質問していた爺さんが、僕に話しかけてくれたのだ。
「どうだい、一緒のタクシーで行かないかい。」
その発想はなかった。早速その話に乗り、爺さんの大荷物を手伝ってあげ、二人でタクシーに乗り込んだ。
大荷物の爺さんはイタリアから来たらしい。僕の軽装備に驚き、ギリシャは寒いぞと言ってよこした。或いはそうなのかもしれないが、その時は服を買えばいいだろう。そう思ったが、何も言わずに曖昧に受け流した。
というのも、言えなかったのである。
その少し前に、運転手にギリシャ国鉄はストをやってるのかどうかを訊ねたが、どうも要領を得ない。「鉄道」にあたる部分が聞き取れないらしい。全く、ギリシャ人の英語力はどうなってるんだ、なぁイタリア爺さんよ、と振り向くと爺さんも要領を得ていない。僕が何度もrailwayだのtrainだの言っても両者共に解してくれない。この期に及んで、初めて僕は自分の英語発音が悪いことを知り、故に、口数が減ったのだった。
運転手にどこで降りるか問われ、特に具体的な目的地もなかったので市街の中心、有名なモナスティラキ広場で降ろすように言った。先に爺さんが降りるホテルに着き、清算の段になると、爺さんは多めに払ってくれた。トランクから荷物を取り出し、車内の僕に対して片手を上げて別れを告げた。全く、本場のCiao!は美しいじゃないか。僕にはそのチャオは言えないなと感じ、片手を上げてGood luck!と言った。発音がマズくなければいいけれど。
モナスティラキ広場で降りると、広場の奥にアクロポリス、その上にはかの有名なパルテノン神殿らしきものが見えた。広場を見て回った後、差し当たり旧市街を見て回ろうと思い路地に入ると、直後にパルテノン神殿のような建造物が放擲されている。歩き方を参照すると、ハドリアヌスの図書館、の外壁らしい。入場料を払えば中に入れるようだが、外からでも十分立派に見える。フェンス越しに外壁を様々な角度から眺めるうちに、高校で叩き込まれた言葉が蘇る。イオニア式、ドーリア式、コリント式。アテネはイオニア人だが、そのパルテノン神殿の様式はドーリア式。この外壁は見たところコリント式だろうか。しげしげと柱を眺め同時に思ったのは、もうパルテノン神殿には行くまでもないか、ということだった。地球の歩き方で入場に30€取られることを知っていた僕は、こうして30€を節約する論理を手にしたことで少し嬉しくなった。
だが、同時に困ってしまった。何となくアクロポリスの方に歩いていけば良いかと思っていたが、そのアクロポリスにはもはや用はない。どこかに行こうにも、地下鉄は動いていない。当てもなく徘徊することは、格好はいいが、性に合わない。僕は「当て」が必要なのだ。全く、僕は沢木耕太郎ではないのだ。
仕方なく旧市街のプラカ地区をひたすら歩き回る。途中にローマ時代のアゴラなどいくつかの、いかにも遺跡らしいクリーム色の建造物も例の如く外から見て回ったが、どこか僕には響かなかった。人が使っていないのだからもはや死んでいる建物であるのは当然のことであるが、それ以上に、打ち棄てられているような感じがしたのだ。
ギリシャは遺跡の保護を重視し、人を強制的に退去させるのも稀では無いらしい。今を生きる人々の生活、社会の一部を破壊して守られたのが、この放擲された遺跡だと思うと、この遺跡とそこに直近に生きていた人々の暮らしのどちらが尊いのだろうか。
遺跡よりもむしろ僕の目を引いたのは、旧市街のありとあらゆる壁に書きつけられたグラフィティ、即ちスプレーなどを用いた絵である。遺跡には絶対にグラフィティは描けないだろうから、その分を他の壁に描きつけている、というパワーを感じたのが面白かった。何より、彼らは今を生きている。うーん、僕は今が好きなのかな、でも歴史も好きなんだよなぁ......。
プラカ地区を抜け、交通量の多い幹線を渡ると遠くに仰々しい建物が見える。ゼウスの門、と言うらしい。我々が想像するいわゆる神殿で、格好はいいが、それだけ、という感じだ。しかも入場時間は終わっていた。もともと金を落とす気はさらさら無いが、いざ入場できないとなると、どこか拒絶されたような、寂しい感じがした。
大通りに沿って歩くと、広い公園があった。国際展示場らしい。もう見飽きた、それでいて感慨のある神殿風の建物の正面にあったベンチに腰掛け、さぁこれからどうしようかなと考え、ふと思い出した。これは、イスタンブルに着いた日と同じではないか。
初めて一人で海外に行ったのは、去年の夏のイスタンブルだった。早朝に空港に着き、初めての一人海外でまず僕が為したのは、市街を2時間ばっかし彷徨って、事前に予約したホテルを探し当てることだった。やっと見つけ、荷物を預けてアヤソフィア前のベンチに座った頃にはもうクタクタだった。アヤソフィアやブルーモスクが開くまでにはまだ時間がある、それまで何をしようか、いや、開いたとして、僕は3日もイスタンブルで何をすれば良いのか。そんなことを考えているうちに、今にして思えば非常に胡散臭い客引きに話しかけられ、色々な事に巻き込まれ、次第にそんな悩みを忘れていった。
だが、今回は多分話しかけてくるような人はいないだろう。では、そうした悩みに正面から対峙しなければならない。
そうして、僕は僕で良いじゃないか。旅をしたいという訳の分からない本能、感覚に従えば良いじゃないか、という結論に至った頃には、既に陽が沈みかけていた。そこからは、バネのように反発的に、様々な場所を歩き回った。シンタグマ広場でペロポネソス半島の方に沈む夕陽を拝み、夕焼けの方に歩いた。モナスティラキ広場に舞い戻ると、ケバブ屋でビーフを注文。3.9€で大ボリューム、到底食べきれない。物乞いのマリア様を無視してトマトを食べ、コーラを飲む。うむ、最高の夕食だ。いざ一眼レフを取り出して広場周辺を散策すると、撮影が楽しくて仕方がない。
一通り広場の撮影を終えると、19時頃だった。ライトアップされたアクロポリスを見ながら、もうこれでアテネに思い残すことは無いと思い、カメラを仕舞って僕は広場を後にした。
夜のアテネ新市街を歩く。ストライキの為に、鉄道駅まで歩く必要があったのだ。もっとも、ストライキがなかったとて僕はケチって歩くだろう。なるべく大通りを通るも、自分が道に迷ったと気付いた頃には現在地を把握できなくなってしまっていた。これは困った。交差点の隅で焦る僕は、そこは流石はデジタルの申し子、すかさずGoogle mapを起動。だが、GPSが狂って現在地が分からない。急に周囲の闇が恐ろしく感じられ、慌てて近くの由緒ありげな教会をヒントに現在地を見出そうとしていた際に
「Hey! CORONA!」
とバイクの二人組が走りながら言ってきやがった。コロナウイルス絶好調の時期に旅をしていたため多少の東洋人差別は覚悟していたが、やはりあるか......。こっちは異国で焦っているというのに!やや憤りながら、それにしても、逆にこれまで出会ったイタリアの爺さんや気前の良いケバブ屋のおじちゃんらは普通に接してくれて、嬉しいなとも思った。彼らとて、本心では東洋人をコロナウイルスと結びつけているに違いない。僕だって、日本の電車で中国人を見かけたらそう思う。大切なのは、それを態度に出さないことだ。相手を思いやること以上の、道徳。そんなことを考えながら駅を目指すも、駅だと思った場所にはレンガの壁しかなく更に焦る。一人で闇夜の道を歩くと、後ろから来る人、前からすれ違う人がいちいち怖い。女性のバックパッカーはさぞ苦労していることだろう。
そうしてようやく駅に着いたのは20時半頃だった。1,2kmの距離に1時間半かけたことになる。ギリシャ国鉄の看板に心底安堵し、一応インフォメーションでおじさんの駅員に聞いてみた。日本で印刷してきたチケットを渡し、
「この列車はこの駅で合っているか?」
おじさんはチケットをじっくり読み、やがて力強く親指を立て、四番ホームに23時に入線してくることまで教えてくれた。親切な限りだ。
おじさんの笑顔に安堵し、待合室に座った後、列車の入線まですらあと2時間半あることを思い出して絶望的な気分になった。この頃には、アテネ-テッサロニキくらいの短距離の夜行列車はその短さゆえに深夜の出発なので、こういった無駄な夜の待機時間を強いられることを学び、使うのは長距離夜行に限ろうと心に決めていた。
やや暗い待合には大荷物の家族や僕と同じような旅の青年が、皆2時間半後の列車到着を待っていた。気怠い雰囲気が立ち込める。全く皆暇そうで、僕も大変に暇だった。SNSをしようにも日本時間は深夜、起きている奴が殆どいない。テッサロニキのホテル事情を調べ、観光地を調べ、今後の旅程を考え、アテネを振り返り......。旧市街を歩いていた時は二度と海外旅行なんかするか、なんて思ったものだけど、振り返れば結局刺激的で楽しかったと思う。こういう経験を僕は何度も積み重ねてきた。中毒と言って良い。こうして、夜の待合を遅く時間が過ぎていった。
23時前になり、ようやくホームに向かう。無風だがやや冷たい空気の中、夜行に乗る同志達と列車の到着を待つ。23時を過ぎても列車は来ないが、まぁそんなに時間通りというわけでもなかろう。落ち着いて待っていたが、ついに列車の出発時間を過ぎても列車は来なかった。この場合、遅れているのならまだ良いが、運休だったら困る。そして一番困ったのは、何の情報をないということだ。近くのおじさんと一体どうなってんだという会話をし、待てども列車は来ない。堪りかねて駅の受付に行くも、大勢の客の相手で忙しそうだ。交わされる言葉は当然ギリシャ語で全く解せない。
大人しくホームで待つことにしたが、無風とはいえ寒い。誰も分からないのをいいことに、日本語で「しばれるなぁ」なんて独りごち、身を縮めタオルを膝に乗せ寒さを耐え忍ぶ。結局列車は到着したのは26時前だった。3時間待たされたことになる。全く、宗谷本線じゃないのだから......。
......
確かに歩き方にはストライキが稀にあると書いてあったが、まさか自分が影響を受けるとは...... 。「まさか自分が」を初めて味わうのが犯罪被害などでなく軽微なもので良かった、と現実逃避しつつも、残された交通機関は高額なタクシーしかないという事実が僕の首根っこを掴んで現実に引き戻した。タクシーで市内へは固定料金で38ユーロ:約4500円。こりゃ破産だと思ったが、まさか空港で一週間、帰りの飛行機を待つ訳にもいかない。何か救いがあるはずだと信じてインフォメーションに訊ねた。
「タクシー以外で市内に向かう方法は無いのか。」
"except by taxi"を強調して訊ねたが、はたして係員は首を振り、全便ストライキなんだ、と言う。
だが、救いはあった。丁度その時に同じようなことを質問していた爺さんが、僕に話しかけてくれたのだ。
「どうだい、一緒のタクシーで行かないかい。」
その発想はなかった。早速その話に乗り、爺さんの大荷物を手伝ってあげ、二人でタクシーに乗り込んだ。
大荷物の爺さんはイタリアから来たらしい。僕の軽装備に驚き、ギリシャは寒いぞと言ってよこした。或いはそうなのかもしれないが、その時は服を買えばいいだろう。そう思ったが、何も言わずに曖昧に受け流した。
というのも、言えなかったのである。
その少し前に、運転手にギリシャ国鉄はストをやってるのかどうかを訊ねたが、どうも要領を得ない。「鉄道」にあたる部分が聞き取れないらしい。全く、ギリシャ人の英語力はどうなってるんだ、なぁイタリア爺さんよ、と振り向くと爺さんも要領を得ていない。僕が何度もrailwayだのtrainだの言っても両者共に解してくれない。この期に及んで、初めて僕は自分の英語発音が悪いことを知り、故に、口数が減ったのだった。
運転手にどこで降りるか問われ、特に具体的な目的地もなかったので市街の中心、有名なモナスティラキ広場で降ろすように言った。先に爺さんが降りるホテルに着き、清算の段になると、爺さんは多めに払ってくれた。トランクから荷物を取り出し、車内の僕に対して片手を上げて別れを告げた。全く、本場のCiao!は美しいじゃないか。僕にはそのチャオは言えないなと感じ、片手を上げてGood luck!と言った。発音がマズくなければいいけれど。
モナスティラキ広場で降りると、広場の奥にアクロポリス、その上にはかの有名なパルテノン神殿らしきものが見えた。広場を見て回った後、差し当たり旧市街を見て回ろうと思い路地に入ると、直後にパルテノン神殿のような建造物が放擲されている。歩き方を参照すると、ハドリアヌスの図書館、の外壁らしい。入場料を払えば中に入れるようだが、外からでも十分立派に見える。フェンス越しに外壁を様々な角度から眺めるうちに、高校で叩き込まれた言葉が蘇る。イオニア式、ドーリア式、コリント式。アテネはイオニア人だが、そのパルテノン神殿の様式はドーリア式。この外壁は見たところコリント式だろうか。しげしげと柱を眺め同時に思ったのは、もうパルテノン神殿には行くまでもないか、ということだった。地球の歩き方で入場に30€取られることを知っていた僕は、こうして30€を節約する論理を手にしたことで少し嬉しくなった。
だが、同時に困ってしまった。何となくアクロポリスの方に歩いていけば良いかと思っていたが、そのアクロポリスにはもはや用はない。どこかに行こうにも、地下鉄は動いていない。当てもなく徘徊することは、格好はいいが、性に合わない。僕は「当て」が必要なのだ。全く、僕は沢木耕太郎ではないのだ。
仕方なく旧市街のプラカ地区をひたすら歩き回る。途中にローマ時代のアゴラなどいくつかの、いかにも遺跡らしいクリーム色の建造物も例の如く外から見て回ったが、どこか僕には響かなかった。人が使っていないのだからもはや死んでいる建物であるのは当然のことであるが、それ以上に、打ち棄てられているような感じがしたのだ。
ギリシャは遺跡の保護を重視し、人を強制的に退去させるのも稀では無いらしい。今を生きる人々の生活、社会の一部を破壊して守られたのが、この放擲された遺跡だと思うと、この遺跡とそこに直近に生きていた人々の暮らしのどちらが尊いのだろうか。
遺跡よりもむしろ僕の目を引いたのは、旧市街のありとあらゆる壁に書きつけられたグラフィティ、即ちスプレーなどを用いた絵である。遺跡には絶対にグラフィティは描けないだろうから、その分を他の壁に描きつけている、というパワーを感じたのが面白かった。何より、彼らは今を生きている。うーん、僕は今が好きなのかな、でも歴史も好きなんだよなぁ......。
プラカ地区を抜け、交通量の多い幹線を渡ると遠くに仰々しい建物が見える。ゼウスの門、と言うらしい。我々が想像するいわゆる神殿で、格好はいいが、それだけ、という感じだ。しかも入場時間は終わっていた。もともと金を落とす気はさらさら無いが、いざ入場できないとなると、どこか拒絶されたような、寂しい感じがした。
大通りに沿って歩くと、広い公園があった。国際展示場らしい。もう見飽きた、それでいて感慨のある神殿風の建物の正面にあったベンチに腰掛け、さぁこれからどうしようかなと考え、ふと思い出した。これは、イスタンブルに着いた日と同じではないか。
初めて一人で海外に行ったのは、去年の夏のイスタンブルだった。早朝に空港に着き、初めての一人海外でまず僕が為したのは、市街を2時間ばっかし彷徨って、事前に予約したホテルを探し当てることだった。やっと見つけ、荷物を預けてアヤソフィア前のベンチに座った頃にはもうクタクタだった。アヤソフィアやブルーモスクが開くまでにはまだ時間がある、それまで何をしようか、いや、開いたとして、僕は3日もイスタンブルで何をすれば良いのか。そんなことを考えているうちに、今にして思えば非常に胡散臭い客引きに話しかけられ、色々な事に巻き込まれ、次第にそんな悩みを忘れていった。
だが、今回は多分話しかけてくるような人はいないだろう。では、そうした悩みに正面から対峙しなければならない。
そうして、僕は僕で良いじゃないか。旅をしたいという訳の分からない本能、感覚に従えば良いじゃないか、という結論に至った頃には、既に陽が沈みかけていた。そこからは、バネのように反発的に、様々な場所を歩き回った。シンタグマ広場でペロポネソス半島の方に沈む夕陽を拝み、夕焼けの方に歩いた。モナスティラキ広場に舞い戻ると、ケバブ屋でビーフを注文。3.9€で大ボリューム、到底食べきれない。物乞いのマリア様を無視してトマトを食べ、コーラを飲む。うむ、最高の夕食だ。いざ一眼レフを取り出して広場周辺を散策すると、撮影が楽しくて仕方がない。
一通り広場の撮影を終えると、19時頃だった。ライトアップされたアクロポリスを見ながら、もうこれでアテネに思い残すことは無いと思い、カメラを仕舞って僕は広場を後にした。
夜のアテネ新市街を歩く。ストライキの為に、鉄道駅まで歩く必要があったのだ。もっとも、ストライキがなかったとて僕はケチって歩くだろう。なるべく大通りを通るも、自分が道に迷ったと気付いた頃には現在地を把握できなくなってしまっていた。これは困った。交差点の隅で焦る僕は、そこは流石はデジタルの申し子、すかさずGoogle mapを起動。だが、GPSが狂って現在地が分からない。急に周囲の闇が恐ろしく感じられ、慌てて近くの由緒ありげな教会をヒントに現在地を見出そうとしていた際に
「Hey! CORONA!」
とバイクの二人組が走りながら言ってきやがった。コロナウイルス絶好調の時期に旅をしていたため多少の東洋人差別は覚悟していたが、やはりあるか......。こっちは異国で焦っているというのに!やや憤りながら、それにしても、逆にこれまで出会ったイタリアの爺さんや気前の良いケバブ屋のおじちゃんらは普通に接してくれて、嬉しいなとも思った。彼らとて、本心では東洋人をコロナウイルスと結びつけているに違いない。僕だって、日本の電車で中国人を見かけたらそう思う。大切なのは、それを態度に出さないことだ。相手を思いやること以上の、道徳。そんなことを考えながら駅を目指すも、駅だと思った場所にはレンガの壁しかなく更に焦る。一人で闇夜の道を歩くと、後ろから来る人、前からすれ違う人がいちいち怖い。女性のバックパッカーはさぞ苦労していることだろう。
そうしてようやく駅に着いたのは20時半頃だった。1,2kmの距離に1時間半かけたことになる。ギリシャ国鉄の看板に心底安堵し、一応インフォメーションでおじさんの駅員に聞いてみた。日本で印刷してきたチケットを渡し、
「この列車はこの駅で合っているか?」
おじさんはチケットをじっくり読み、やがて力強く親指を立て、四番ホームに23時に入線してくることまで教えてくれた。親切な限りだ。
おじさんの笑顔に安堵し、待合室に座った後、列車の入線まですらあと2時間半あることを思い出して絶望的な気分になった。この頃には、アテネ-テッサロニキくらいの短距離の夜行列車はその短さゆえに深夜の出発なので、こういった無駄な夜の待機時間を強いられることを学び、使うのは長距離夜行に限ろうと心に決めていた。
やや暗い待合には大荷物の家族や僕と同じような旅の青年が、皆2時間半後の列車到着を待っていた。気怠い雰囲気が立ち込める。全く皆暇そうで、僕も大変に暇だった。SNSをしようにも日本時間は深夜、起きている奴が殆どいない。テッサロニキのホテル事情を調べ、観光地を調べ、今後の旅程を考え、アテネを振り返り......。旧市街を歩いていた時は二度と海外旅行なんかするか、なんて思ったものだけど、振り返れば結局刺激的で楽しかったと思う。こういう経験を僕は何度も積み重ねてきた。中毒と言って良い。こうして、夜の待合を遅く時間が過ぎていった。
23時前になり、ようやくホームに向かう。無風だがやや冷たい空気の中、夜行に乗る同志達と列車の到着を待つ。23時を過ぎても列車は来ないが、まぁそんなに時間通りというわけでもなかろう。落ち着いて待っていたが、ついに列車の出発時間を過ぎても列車は来なかった。この場合、遅れているのならまだ良いが、運休だったら困る。そして一番困ったのは、何の情報をないということだ。近くのおじさんと一体どうなってんだという会話をし、待てども列車は来ない。堪りかねて駅の受付に行くも、大勢の客の相手で忙しそうだ。交わされる言葉は当然ギリシャ語で全く解せない。
大人しくホームで待つことにしたが、無風とはいえ寒い。誰も分からないのをいいことに、日本語で「しばれるなぁ」なんて独りごち、身を縮めタオルを膝に乗せ寒さを耐え忍ぶ。結局列車は到着したのは26時前だった。3時間待たされたことになる。全く、宗谷本線じゃないのだから......。
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