東京旅行記
第3回
目次
第3回
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旅と回想/大分~塩尻
夏の道/飯田線①
記憶/飯田線②
夏の道/飯田線①
記憶/飯田線②
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前回は確か、伊那田島駅に着いたところで終わったと思う。この後、僕はどこへ行くのだろうか。
先に結論を示そう。僕はこの後飯田線の最深部、つまり秘境駅を数駅巡った後、豊橋からムーンライトながらに乗って東京へ向かう。ムーンライトながらというのは、簡単に言うと夜行列車だ。そして東京で様々な初めてに出会い、感嘆する。そこにお金の問題がのしかかる。
何が言いたいかというと、東京での話はコメディ要素が多い。そして東京はそういう珍道中的な紀行文が似合う街だと思った。
今回は旅の行程の内、飯田線の秘境駅部分を扱うわけだが、今後のコメディ路線を見据えて、今回だけは日頃思う事を交えて書いていきたいと思う。写真についてだったり、様々だけれど。吉田兼好の『徒然草』といえば、随筆、或いはエッセイ。徒然なるままに、書いていきたいと思います。彼がそうしたように。
今日僕が見た、美しい景色の話をしよう。
この文章を書いているのは、段々と寒さが迫ってきた十月の末だ。数年前から相変わらずの遅筆なのはさておき、今朝は寒い朝だった。日が昇る前に僕は家を出る。家を飛び出した瞬間、首元、顔が冷たい。それは寝ぼけた頭には痛快で、結局電車内では眠ってしまうわけだが、思考が研ぎ澄まされる気がする。
朝とは、十二時間近く太陽のない世界の結果なのだ。昔、2ちゃんねるに書いてあった文言だ。道を右に曲がる。ちょっとした県道を駅に向かって、冷たい風を切って走っている。
地平線の空が白い。遠くの雲はピンク色に染まっていて、日の出を予感させる。聳え立つ鉄塔は哀愁を誘い、南、僕のことを幼少期から見下ろす通称”もみの木山脈”の山々、その山際、いとをかし。
少し列車は遅延していた。プラットホームで僕は、体を震わせながら空に目をやっていた。
向こうの駅に着いた。自転車を取りに、東へ歩く。僕が列車で眠っている間に太陽は顔を出していた。ビル群の隙間からオレンヂ色の光が身体を包み、目を焼く!目を下に背けると、黒い学ランも太陽色に染まっていた。
最近は台風が通り過ぎ、天気予報でよく聞く『清々しい秋晴れ』が体現されたような天気が続いていた。今日とて例外ではなく、雲の少ない、太陽が燦々と我らを照らす一日だった。授業中ふと外に目をやると、どこまでも続く空を、ぼんやりとした形の雲が浮かんでいた。強い北風が吹く日だった。北風は南に向かって吹く。あの雲はどこまで旅をするのだろうか。南下せよ、彼女はそう言った。雲のように、どこまでも行ける気がした。
そして時が経ち、夜。この文章を書く三時間前の新鮮な話。今日は北風が強く気温が低いこともあり、帰りの電車は四両編成の古い電車だったけれど、今シーズン初めて暖房がついていた。座席は二人席が向かい合わせのボックスシート。僕の向かいには、ハロウィーンの仮装だか化粧だか判定がつかないような女性が座っていた。
僕は本を読んでいた。イヤフォンをしていた。ビートルズの『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』を聴いていた。本来なら、僕は最寄り駅に着くまで本をいじるかスマホを触るかし続け、万が一にも、窓の外の流れる街を眺めて闇を感じ、さらにその窓に向かいの女性が反射して写っていることにおかしみを感じたりなどしなかっただろうし、T駅の近くの踏切で、我らの列車の通過を待つ光たちを見て撮影を決意することなどなかっただろう。
つまり僕はそうしたわけだが、僕をそうさせたのは、車内に流れた車掌の放送だった。前述の通りこの列車は古いので、機械案内が流れない。その肉声の放送は僕にイヤフォンを外させ、そうして一連の行動を取らせた。
「……なお、終点のU駅への到着予定時刻は二一時十六分となっております。」
僕は一瞬にして様々な事を想像、回想する。国鉄の頃はもっと長距離を走る普通列車があっただろうということ。この放送が旅情を誘う素晴らしい放送案内だということ。U駅から先は台風災害によって路線が断絶していること。U駅の先のT駅に、カメラを提げて、その災害の取材に行ったこと。そこで視たもの。
舞台を七月の末、飯田線に移そう。
その後、僕は飯田線を南下した。飯田線屈指の秘境駅区間に入り、為栗駅、田本駅、柿本駅、小和田駅を訪ねた。それぞれの駅に個性やエピソードがあるのだが、あえて描写を避けたいと思う。ここで強調しておきたいのは、正直な話、七月の僕はこれらの駅に殆ど魅力を感じなかったということだ。当時は前回の『夏の道』にばかり手応えを感じ、この七月のうだるように暑い時間に自分は何をしているのだろうかとすら考えた。大分に帰ってパソコンで写真を整理していても、夏の道や江ノ島(色々あって後に訪れることとなるのだ)の写真ばかり見返してしまう。
けれども、時間が経って東京旅行のフィルムを現像に出して見返した時、一番心を打ったのは田本駅付近での何気ない写真だった。そして今、十月末日、東京旅行全編を通して最も目に焼き付いた光景も同様なのだ。
写真には二つの種類、というか方式がある。フィルム(銀塩、アナログ)とデジタルである。さて諸兄、どちらが良いだろうか?
歴史を考えると、フィルムの方が先なのは言うまでも無い。言い換えれば、フィルムは古き時代の遺物である。かといって全てのフィルムがダーウィンの自然選択説的に淘汰されたわけではなく、数を減らしつつも生き延び、事実として今日現在田舎の男子高校生がハマっている。
なぜ僕は、というか人は、フィルムを使い続けるのだろうか?フィルムのメリットをあげてみると、色や質感が良いくらいしかないだろう。無論細かい話は無視する。それに対してデメリットといえば、すぐに確認できない、不便、現像代が高い。写真を撮るだけでお金がかかるのはデジタルに対して圧倒的なデメリットといえるだろう。
なぜ使う?僕は自分に問い掛け続けてきた。明確な、明瞭な答えが出ない。だが、田本駅の件を通じて、フィルムの核、意義とも言えるものを掴んだ気がする。十代の学生身分の小生意気な意見ではあるが。
思うに、フィルムというのは『記憶』の表現に適しているのではないだろうか。記憶の時間的な感覚が、現像という行為を置くことで再現されている。また、フィルムの色は僕には『記憶の色』のように思える。一般的にフィルムの色はノスタルジーと言われるが、その郷愁は各人のかつての記憶の中の色をフィルムに感じているからではないか。僕はフィルムを使うことで自分のノスタルジー、記憶を探していたのだ。
田本駅には二時間程度滞在した。田本駅は線路の両側がトンネルであり、ホームは断崖絶壁にある。逃げ道、もとい出入口は登山道的な無舗装の山道のみで、近隣に集落はない。夏のある日、そこに僕だけがいた。
僕はその時、荷物を全て駅のベンチに放置し、FM2と呼ばれるフィルムカメラだけを持ってその山道を登っていった。木々の隙間から太陽が降り注ぐ。十分ほど歩くと、突然視界が開ける。渓谷だ。天竜川の深いV字谷に、頼りない一本の吊り橋が架かっている。真ん中の方まで歩く。
川は白く澄み、多少の石が転がっている。急な傾斜に緑の木々が生い茂る。山の頂上からは白い雲が顔を出し、空は太陽光で白飛びしているように見える。
山の中腹あたりにいくつか民家が見えた。もしかしたら、この集落の為に田本駅は存続しているのかもしれない。どうしてあの場所にあるのだろう、どのような暮らしなのだろう。夏の疑問は空のように、すぐに白く飛んでしまう。
でもその情景が僕の記憶から消えることは無い。フィルムのように色褪せて、ずっと心のなかに残っていくだろう。同じように、僕がT市の災害で視たものも、今日僕が朝から晩まで視た様々な景色も、記憶に留まり続けることだろう。ビートルズのように、永遠に。
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記憶
前回は確か、伊那田島駅に着いたところで終わったと思う。この後、僕はどこへ行くのだろうか。
先に結論を示そう。僕はこの後飯田線の最深部、つまり秘境駅を数駅巡った後、豊橋からムーンライトながらに乗って東京へ向かう。ムーンライトながらというのは、簡単に言うと夜行列車だ。そして東京で様々な初めてに出会い、感嘆する。そこにお金の問題がのしかかる。
何が言いたいかというと、東京での話はコメディ要素が多い。そして東京はそういう珍道中的な紀行文が似合う街だと思った。
今回は旅の行程の内、飯田線の秘境駅部分を扱うわけだが、今後のコメディ路線を見据えて、今回だけは日頃思う事を交えて書いていきたいと思う。写真についてだったり、様々だけれど。吉田兼好の『徒然草』といえば、随筆、或いはエッセイ。徒然なるままに、書いていきたいと思います。彼がそうしたように。
今日僕が見た、美しい景色の話をしよう。
この文章を書いているのは、段々と寒さが迫ってきた十月の末だ。数年前から相変わらずの遅筆なのはさておき、今朝は寒い朝だった。日が昇る前に僕は家を出る。家を飛び出した瞬間、首元、顔が冷たい。それは寝ぼけた頭には痛快で、結局電車内では眠ってしまうわけだが、思考が研ぎ澄まされる気がする。
朝とは、十二時間近く太陽のない世界の結果なのだ。昔、2ちゃんねるに書いてあった文言だ。道を右に曲がる。ちょっとした県道を駅に向かって、冷たい風を切って走っている。
地平線の空が白い。遠くの雲はピンク色に染まっていて、日の出を予感させる。聳え立つ鉄塔は哀愁を誘い、南、僕のことを幼少期から見下ろす通称”もみの木山脈”の山々、その山際、いとをかし。
少し列車は遅延していた。プラットホームで僕は、体を震わせながら空に目をやっていた。
向こうの駅に着いた。自転車を取りに、東へ歩く。僕が列車で眠っている間に太陽は顔を出していた。ビル群の隙間からオレンヂ色の光が身体を包み、目を焼く!目を下に背けると、黒い学ランも太陽色に染まっていた。
最近は台風が通り過ぎ、天気予報でよく聞く『清々しい秋晴れ』が体現されたような天気が続いていた。今日とて例外ではなく、雲の少ない、太陽が燦々と我らを照らす一日だった。授業中ふと外に目をやると、どこまでも続く空を、ぼんやりとした形の雲が浮かんでいた。強い北風が吹く日だった。北風は南に向かって吹く。あの雲はどこまで旅をするのだろうか。南下せよ、彼女はそう言った。雲のように、どこまでも行ける気がした。
そして時が経ち、夜。この文章を書く三時間前の新鮮な話。今日は北風が強く気温が低いこともあり、帰りの電車は四両編成の古い電車だったけれど、今シーズン初めて暖房がついていた。座席は二人席が向かい合わせのボックスシート。僕の向かいには、ハロウィーンの仮装だか化粧だか判定がつかないような女性が座っていた。
僕は本を読んでいた。イヤフォンをしていた。ビートルズの『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』を聴いていた。本来なら、僕は最寄り駅に着くまで本をいじるかスマホを触るかし続け、万が一にも、窓の外の流れる街を眺めて闇を感じ、さらにその窓に向かいの女性が反射して写っていることにおかしみを感じたりなどしなかっただろうし、T駅の近くの踏切で、我らの列車の通過を待つ光たちを見て撮影を決意することなどなかっただろう。
つまり僕はそうしたわけだが、僕をそうさせたのは、車内に流れた車掌の放送だった。前述の通りこの列車は古いので、機械案内が流れない。その肉声の放送は僕にイヤフォンを外させ、そうして一連の行動を取らせた。
「……なお、終点のU駅への到着予定時刻は二一時十六分となっております。」
僕は一瞬にして様々な事を想像、回想する。国鉄の頃はもっと長距離を走る普通列車があっただろうということ。この放送が旅情を誘う素晴らしい放送案内だということ。U駅から先は台風災害によって路線が断絶していること。U駅の先のT駅に、カメラを提げて、その災害の取材に行ったこと。そこで視たもの。
舞台を七月の末、飯田線に移そう。
その後、僕は飯田線を南下した。飯田線屈指の秘境駅区間に入り、為栗駅、田本駅、柿本駅、小和田駅を訪ねた。それぞれの駅に個性やエピソードがあるのだが、あえて描写を避けたいと思う。ここで強調しておきたいのは、正直な話、七月の僕はこれらの駅に殆ど魅力を感じなかったということだ。当時は前回の『夏の道』にばかり手応えを感じ、この七月のうだるように暑い時間に自分は何をしているのだろうかとすら考えた。大分に帰ってパソコンで写真を整理していても、夏の道や江ノ島(色々あって後に訪れることとなるのだ)の写真ばかり見返してしまう。
けれども、時間が経って東京旅行のフィルムを現像に出して見返した時、一番心を打ったのは田本駅付近での何気ない写真だった。そして今、十月末日、東京旅行全編を通して最も目に焼き付いた光景も同様なのだ。
写真には二つの種類、というか方式がある。フィルム(銀塩、アナログ)とデジタルである。さて諸兄、どちらが良いだろうか?
歴史を考えると、フィルムの方が先なのは言うまでも無い。言い換えれば、フィルムは古き時代の遺物である。かといって全てのフィルムがダーウィンの自然選択説的に淘汰されたわけではなく、数を減らしつつも生き延び、事実として今日現在田舎の男子高校生がハマっている。
なぜ僕は、というか人は、フィルムを使い続けるのだろうか?フィルムのメリットをあげてみると、色や質感が良いくらいしかないだろう。無論細かい話は無視する。それに対してデメリットといえば、すぐに確認できない、不便、現像代が高い。写真を撮るだけでお金がかかるのはデジタルに対して圧倒的なデメリットといえるだろう。
なぜ使う?僕は自分に問い掛け続けてきた。明確な、明瞭な答えが出ない。だが、田本駅の件を通じて、フィルムの核、意義とも言えるものを掴んだ気がする。十代の学生身分の小生意気な意見ではあるが。
思うに、フィルムというのは『記憶』の表現に適しているのではないだろうか。記憶の時間的な感覚が、現像という行為を置くことで再現されている。また、フィルムの色は僕には『記憶の色』のように思える。一般的にフィルムの色はノスタルジーと言われるが、その郷愁は各人のかつての記憶の中の色をフィルムに感じているからではないか。僕はフィルムを使うことで自分のノスタルジー、記憶を探していたのだ。
田本駅には二時間程度滞在した。田本駅は線路の両側がトンネルであり、ホームは断崖絶壁にある。逃げ道、もとい出入口は登山道的な無舗装の山道のみで、近隣に集落はない。夏のある日、そこに僕だけがいた。
僕はその時、荷物を全て駅のベンチに放置し、FM2と呼ばれるフィルムカメラだけを持ってその山道を登っていった。木々の隙間から太陽が降り注ぐ。十分ほど歩くと、突然視界が開ける。渓谷だ。天竜川の深いV字谷に、頼りない一本の吊り橋が架かっている。真ん中の方まで歩く。
川は白く澄み、多少の石が転がっている。急な傾斜に緑の木々が生い茂る。山の頂上からは白い雲が顔を出し、空は太陽光で白飛びしているように見える。
山の中腹あたりにいくつか民家が見えた。もしかしたら、この集落の為に田本駅は存続しているのかもしれない。どうしてあの場所にあるのだろう、どのような暮らしなのだろう。夏の疑問は空のように、すぐに白く飛んでしまう。
でもその情景が僕の記憶から消えることは無い。フィルムのように色褪せて、ずっと心のなかに残っていくだろう。同じように、僕がT市の災害で視たものも、今日僕が朝から晩まで視た様々な景色も、記憶に留まり続けることだろう。ビートルズのように、永遠に。
最後の一枚、まさに僕が求めていた風景でした。我々、学生の分際ですが、善し悪しは別とした過去を見るような日本の里山風景を見て、こころを打たれました。秘境の旅人さんの記憶を届けつづけてください。デジタルの世界にアナログの光を。
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