2022年4月12日火曜日

「旅は人生に似ている。」なんて

「旅は人生に似ている。以前私がそんな言葉を眼にしたら、書いた人物を軽蔑しただろう。」

小説『深夜特急』において沢木耕太郎はこう綴った。私もそう思う。あまりに安直だ。見ていられない、反吐が出る。

だが、最近人生について想いを巡らせるうちに、少なくとも、こう思うようになった。

人生は旅に似ている。過程にこそ価値があるという点で。



死ぬのが怖い。すごく怖い。死ぬなんて、どんな怖い夢のオチよりも怖い。死ぬ直前に目が覚めて「ふう、よかった」なんて、死ぬ前にはならない。なんでみんな平気そうに街を歩いているのだろう。常々そう思っていた。

人はやがて死ぬ。死ねば自我がなくなり、世界を観測できなくなる。ゴールは等しく無だ。

それでも、生きる上で築いたモノは残るように思われる。例えば、このブログが爆発的なヒットを記録したとしよう。月間PV数1兆回。世界中のあらゆる言語に私の言葉が翻訳される。私のブログを翻訳したおかげで保存された少数言語もあるらしい、そんな状況。私は死ぬが、人類は永遠に私の言葉を読み継ぐ。ある者は石碑に私の言葉を刻み、次の文明に受け継ごうとする。さて、私は永遠になれるだろうか?

否である。やがて太陽が膨張し、地球は炭化する。そして気の遠くなるくらい、仏教の単位くらいの時間が過ぎて、宇宙は熱的死を迎える。エントロピーが最大の世界。宇宙全体が均一になり、全ては無に還る。私は永遠になれない。宇宙も死ぬ。結局ゴールは等しく無。何をやっても無駄なのか?


私は幼い頃、ドラえもんを読んで感銘を受けたことがある。のび太の「孫の孫」であるセワシがのび太の結婚相手をジャイ子からしずかちゃんに変えようとする。ここでのび太はセワシに対し、あまりにも鋭い問いを投げかける。

「ぼくの運命が変わったら、きみは生まれてこないことになるぜ。」

タイム・パラドクスが生じ、セワシが消滅してしまうのではないか。この指摘に、セワシは次のように答えた。

「心配はいらない。ほかでつりあいとるから。歴史の流れが変わっても、けっきょく僕は生まれてくるよ。」

「たとえばきみが大阪へ行くとする。いろんな乗りものや道すじがある。だけど、どれを選んでも、方角さえ正しければ大阪へ着けるんだ。」

あまりに無茶な理論に思えるが、この話から幼い私が感得したことは、過程が違えど結論は同じであるということだ。ここに私は生の意味を見出すのである。


ある真夜中、私がこんな話をダラダラしていると、いつも黙って聞いている彼女が珍しく口を開いた。彼女は生命を風に喩えた。風が世界を吹き渡り、ひとところに偶然集まって生命らしき動きを形作り、また散っていくと。彼女は何の気無しに言った言葉かもしれないが、私にはその言葉がどんな詩歌よりも美しく感じられた。我々は風なのか。

宇宙が開闢し、色々あって、熱的死を迎える。我々はその過程に偶然生じた風に過ぎないのだ。冒頭で私は死が怖いと言ったが、それは私が自己を絶対視しているからではなかろうか。まるで自分が死を超克した神のように思っていて、肉体としての自分を通して世界を観測している、という錯覚をしているから、観測不能に陥ることが怖いのではないか。

しかし、それは傲慢にすぎない。我々の『意識』は偶然に脳が生じさせているものであり、肉体と不可分である。生まれてくる前に意識はなかった。脳が未発達の間、意識も未発達であった。私は風に過ぎない。



こうした考えに至り、かつての旅が思い出されるのだ。

昔から、旅において移動手段に拘ってきたように思う。大分から新函館北斗まで鉄道を乗り通し、駅員を驚かせたことがあった。夕暮れの東北を北上した。ある時は、わざわざ青函フェリーに乗って津軽海峡を渡った。フェリー代より、青森港までのタクシー代の方が高かった。

旅の過程にこそ価値はある。さて、誰の言葉だったか。

長い人生が続いていく。有形のものが消えていく一方で、無形のものこそ残り続けるという逆説がある。大切なのは、青函フェリーに乗ることだ。やがて札幌に着くのは、同じなのだけど。

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