2025年7月16日水曜日

岡藩領三佐

岡藩領三佐(みさ)は、江戸時代の豊後国(現在の大分県大分市三佐地区周辺)に存在した岡藩の飛地領であり、同藩の唯一の外港として機能した港町である。大野川河口の三角州に位置する孤立した中洲にあり、海原村と三佐村にまたがって形成されていた。


歴史

 岡藩領有以前

 領有の経緯

 主な出来事

 解体

統治体制

地理・交通

経済

社会・文化

現代

遺跡

参考文献

編集後記


歴史

岡藩領有以前

岡藩が三佐を領有する以前、三佐を含む大野川河口部は幕府領であった。初期の岡藩は、豊臣秀吉の命により文禄2年(1593年)に豊後国岡(現在の竹田市)へ入封した際、豊臣秀吉から「舟着きたるにより御代官を仰せ付けられ」たとされる大分郡の今津留村が藩の船着き場として利用されていた。元和5年には船着場が萩原村に変更された。


領有の経緯

元和9年(1623年)、それまで岡藩の船着き場であった萩原村が、松平忠直(徳川家康の孫)の領地(厨料)となった。その代替地として幕府からは当初乙津村が提示されたが府内藩が拒否し、竹中氏が提示した中津留村を岡藩が拒否した結果、最終的に三佐村と海原村(かいわらむら)が岡藩に与えられた。


元和9年閏8月23日には三佐・海原村の受け渡しが行われ、船着き場や町屋の普請(工事)が直ちに開始された。同年9月13日には、中川式部が三佐へ派遣されて町割を命じ、船奉行の柴山藤四郎も三佐に移り住んだ。これにより三佐は、岡藩にとって瀬戸内海への新たな玄関口という位置づけとなり、藩の年貢米輸送や参勤交代における海上交通の重要拠点として、その整備が本格的に始まった。


このように、内陸藩である岡藩には船着場について格段の配慮がなされている。しかし、このように内陸藩が船着場として外港飛地を持つという例はあまり多くない。豊後森藩が頭成港(かしらなりこう、現在の豊岡地区)にあたる辻間村を飛地として領有していた例があるほか、内陸藩ではないものの、紀伊和歌山藩が伊勢湾岸の白子宿を物流拠点として飛地支配していたことが知られる程度である。


例1:森藩-頭成港

例2:紀伊和歌山藩-白子宿


主な出来事

元和9年(1623年)9月13日: 中川式部が三佐へ町割を命じ、港町としての基盤整備が本格化した。船奉行の柴山藤四郎も三佐に移り住んだ。


寛永2年(1625年)6月: 藩主の御座船である住吉丸の船蔵が作られた。


寛永2年(1625年)10月: 港湾施設としての船入普請の願いを幕府に提出した。


寛永3年(1626年)3月: 船入工事のため役人が三佐へ派遣され、閏4月には藩主中川久盛の上洛のため三佐から出発し、家老が見送りに来るなど、三佐からの参勤交代が恒例化した。


寛永13年(1636年): 長さ約330m、幅約90mの船置場の工事願いを幕府に提出。同時に、三佐と岡の間の継飛脚・伝馬など交通・郵便の制度が定められ、三佐の交通拠点としての重要性が増した。


明暦2年(1656年): 大野川中流の犬飼に藩の米蔵が建てられ、併せて町家が立ち始めた。これにより、三佐と犬飼を結ぶ大野川水運の重要性が高まった。


明暦年間(1655年-1660年): 岡藩によって犬飼から下流の大野川の整備が26kmにわたって行われたとされ、犬飼から三佐までの船のルートが整備された。


延宝6年(1678年)4月6日: 「三佐御願替地絵図」が調製され、三佐近辺の浦々の支配状況が描かれた。


貞享元年(1684年): 野坂神社の神殿が造営され、中川家累代武運長久祈願所となった。


貞享2年(1685年): 大分郡の村々が三佐組、海原組、仲村組の3組に再編され、大制札場が三佐村に、小制札場が海原村の4村に設けられた。


宝永2年(1705年)閏4月8日: 三佐浦の百姓家から出火し、町家に延焼する大火が発生。軽役人・水主の家121軒、町家87軒、百姓家27軒、寺1ヶ所、計236軒が焼失し、焼死者2名、馬1頭も焼失した。


正徳元年(1711年)9月: 再び火災が発生し、75軒(士屋敷5、小役人屋敷9、足軽屋敷1、水主屋敷34、町屋26)が焼失した。


元文5年(1740年)6月12日: 久世ヶ瀬橋堤が前年から春にかけて完成し、府内方面からの主要な通路となった。


宝暦6年(1756年)12月: 水主の家から出火し、50軒の家屋のほか、船倉15ヶ所とその中の26隻の船が焼失する火災が発生。


享和3年(1803年)10月: 「三佐町・港絵図」が、三佐町・港などの藩の「用地」と家臣屋敷の検地を行う際に、三佐一帯を見分して作成された。


文化10年(1813年): 第10代岡藩主中川久貴が海上安全祈願のため、藩主の御座船「住吉丸」の入港を描いた「岡藩船三佐入港絵馬」を野坂神社に奉納した。


解体

明治4年(1871年)の廃藩置県により岡藩が廃止され、三佐は岡県の一部となり、その後大分県に編入された。これにより、岡藩領としての三佐の統治は終了した。明治期には港湾施設が放棄され、旧御茶屋は学校に、旧御船入は溜池に変わるなど、その姿を変えていった。明治初期の「三佐港地図」からも、町家が著しく省略されており、港町の機能が衰退した様子がうかがえる。


統治体制

岡藩は三佐村に三佐奉行を配置して支配した。町には町役人として乙名や組頭が置かれ、町屋敷には年貢と町役が免除された。

岡藩では、村を68の組にまとめ、組単位に千石庄屋(大庄屋)を置いて統治する千石庄屋制が採られていた。延宝6年(1678年)の絵図には、三佐を含む飛地5村が三佐組として一括されていたことが記されているが、貞享2年(1685年)には三佐組(三佐と三佐塩浜)・海原組(海原と葛木)・仲村組(仲村・秋岡と直入郡伊小野村)の3組に再編された。


地理・交通


地理院地図の最も古い航空写真。
大きい川が左から乙津川、小中島川、大野川。
乙津川と小中島川に囲まれた地域が三佐。
沿岸部は埋め立て中。


三佐は、大野川河口の三角州にある孤立した中洲に形成された。乙津川、小中島川、別府湾に三方を囲まれ、水上交通の要地であった。享和3年(1803年)の「三佐町・港絵図」によれば、三佐町は町家と堀川(船入・港)の港湾地区に大きく分けられ、両者の境には「広小路」が設けられていた。


水上交通の要地であると同時に、洪水などの水害を受けやすい地域であった。正保郷帳では「水損所」と記されており、水害の多さがうかがえる。島の周囲には川の増水による水害に備えるため、石垣の護岸が築かれていた。町域は、本町・中町・裏町という南北方向の通りと、広小路にほぼ平行する横町、そして新町・出町・下町といった後に開かれた通りで構成されていた。三佐村と海原村の村境は複雑に入り組んでいた。



周辺の領有が入り組んでいた点が地理的な特徴である。東に臼杵藩の飛地である家島村、南に熊本藩の飛地である鶴崎村、西に幕領や延岡藩の飛地があり、豊後国内でも屈指の飛地銀座であった。大野川・乙津川の交通の隆盛がうかがえる。


陸路での主要なアクセスは、元文5年(1740年)に完成した「久世ヶ瀬橋堤」が府内方面からの通路として機能していた。この橋堤を渡り、海原村内に設けられた門と番所を抜けると、新町から本町通りを経て広小路に到達する。


犬飼港跡にある案内図

三佐の港は、岡藩の物資輸送において重要な中継点であった。岡城下からは陸路で大野川中流の犬飼まで運ばれ、そこから大野川を川船で下って三佐に至るルートが主流であった。三佐では、小型の川船から大型の海上輸送船への積み替えが行われ、主に瀬戸内海を経て大阪や江戸へ物資が運ばれた。参勤交代においても、藩主の御座船が三佐港から出港していた。領内には物資を保管する倉庫群が立ち並び、多くの商人や藩の家臣、船頭などが居住していた。


寛永13年(1636年)、長さ約330m、幅約90mにも及ぶ船置場の工事願いを幕府に提出し、また三佐と岡の間の継飛脚・伝馬など交通・郵便の制度が定められ、三佐のもつ意味は大きくなった。港の中枢部には、藩主宿泊用の御殿や役所、銀札蔵、米蔵、作事小屋、武具蔵、船道具蔵などが集中して配置され、厳重な警備のため石垣が巡らされ、出入り口には番所が置かれた。


大野川の河川交通は明治初期まで盛んで、16の舟問屋と135の運船があったとされているが、大正6年(1917年)に犬飼まで鉄道が開通すると、川舟交通は衰退した。


経済

主要な産業の一つとしては製塩業が挙げられる。元和年間(1615年〜1624年)には、三佐海辺で塩浜が始まり、釘屋風塵がその創業に関わったとされる。文化元年(1804年)の記録によれば、三佐村には20人の塩浜持主がおり、合計38ヶ所の塩浜を経営していた。

一般的な江戸時代の塩浜経営では、塩浜の所有と生産、販売がそれぞれ異なる主体で行われるのが基本だった。塩浜は「ハマトリ」が所有し生産し、藩は税を課したり統制したりしたが、販売は塩問屋が仲介し、手数料を得る形であった。

一方、三佐の塩浜経営は問屋資本による支配が明確だった。三佐では、塩浜の所有こそ村人の個人にあったが、塩問屋が生産に必要な用具や経費を負担し、生産された塩の全てを集荷する体制が確立されていた。これは、問屋が販売だけでなく、生産段階から深く関与し、実質的に経営を管理していた点で一般的な形態とは異なる。強力な問屋支配がなされていたという点が特殊である。


また、三佐は瀬戸内海航路の重要な寄港地の一つでもあり、江戸時代後期には安芸国竹原(広島県)や日本海側の石見国浜田(島根県)など、全国各地からの廻船が立ち寄っていた記録が残されている。これらの廻船は積荷を売り込むために立ち寄り、三佐の商業活動を活発化させた。菜種油や小麦、大麦、大豆、米、椎茸、たばこ、綿実などを積んだ船が確認できる。


石高は三佐村と海原村を合わせて550石程度であった。


社会・文化

江戸時代中期頃から始まったとされる野坂神社の本祭りが、氏子により二日間にわたって行われていた。この祭礼では、人形山車や太鼓山、神輿が練り歩き、地域コミュニティの中心となっていた。野坂神社は岡藩との結びつきも深く、貞享元年(1684年)には岡藩主が嵐からの無事帰国を感謝して神殿が造営され、中川家累代の武運長久を祈願する場所となった。


境内には、文化10年(1813年)に第10代岡藩主中川久貴が海上安全祈願のため、藩主の御座船「住吉丸」の入港を描いた「岡藩船三佐入港絵馬」が保存されている。この絵馬には藩主の御座船が三佐港に入港する様子が鮮やかに描かれており、当時の参勤交代の様子や港の繁栄を伝える貴重な資料として、1991年には大分市指定有形文化財となっている。また、この絵馬の下部中央には遠見灯籠が描かれており、遠見山の歴史的重要性がうかがえる。境内にある樹齢400年以上のソテツの大木3本も、参勤交代の際に岡藩主が海上安全を祈願して植えたと伝えられ、1974年に大分市名木に指定されている。

町内には円光寺、尋声寺、海潮寺の三寺が点在し、人々の信仰生活を支えていた。


現代

現在は新産業都市の指定を契機に開発された臨海工業地帯の一部となっている。沿岸部は埋め立てられ、昭和電工系のクラサスケミカルのコンビナートとなっている。東西を臨海産業道路(大分県道22号線)が貫き、沿線には様々な工場が並ぶ。ニトリの大型店舗が存在する。かつて大分地方法務局の出張所が存在したため、士業の事務所が多いことが特徴である。


2025年1月現在の三佐地区の人口は2253人である。


小中島川に面する三佐北地区では、老朽化した木造住宅が密集するなど、都市基盤整備の課題があったが、平成19年度(2007年度)から28年度(2016年度)にかけて「密集市街地の改善」を目標とした事業が進められ、道路整備などが図られた。


遺跡

現代の大分市三佐地区は、臨海工業地帯の一部として発展し、旧来の松林の様子は残っていない。しかし、江戸時代の面影は一部に残されている。



野坂神社: 江戸時代から変わらず三佐地区にあり、岡藩との関係を示す「岡藩船三佐入港絵馬」や樹齢約400年のソテツが残されている。絵馬はいつでも見学することができる。


遠見山: 標高7.9mの小山で、江戸時代には岡藩が参勤交代の御座船や航行する船の標識として遠見灯籠(灯台)を設置していた。現在も金比羅様の祠や三角点が山頂にある。


三佐御茶屋跡: 現在の太刀振神社境内が、かつての岡藩の藩主休息所兼役所であった御茶屋跡とされている。太刀振神社には岡藩の三藩主が合祀されている。


参考文献

豊後岡藩三佐町・港絵図について

http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=kc19705

三佐御願替地絵図(中川家文書) 解説

https://kmj.flet.keio.ac.jp/exhibition/2014/05.html

『大分市史 中』

岡藩【シリーズ藩物語】

地図はopen-hinataを使用。

https://kenzkenz.xsrv.jp/open-hinata/?s=ZY7An1

編集後記

筆者は植民地が大好きで、植民地といえば飛地である。江戸時代、幕藩体制の下で多くの飛地が形成されたことは、筆者にとってはよろこばしいことである。

「幕藩体制における飛地」の総論的なものを書く力量は筆者にはないので、筆者が興味がある飛地について、各論的に書いていくこととする。飽きる前に、豊後国内の飛地を網羅できたらいいなぁ



2025年7月14日月曜日

本国を失った植民地たち ―ヴィシーと自由フランスに揺れる各植民地政府の動向―

1940年5月10日、ナチス・ドイツはフランスに侵攻し、フランス軍は急速に崩壊した。6月までに、フランス軍は差し迫った敗北に直面し、政府は休戦交渉を行うか、北アフリカから抗戦を続けるかという政治的危機に陥った。ポール・レノー首相は抗戦継続を望んだが、多数決で否決され辞任した。後任のフィリップ・ペタン元帥は、1940年6月22日にドイツとの休戦協定に署名した。


この休戦協定により、フランス本国はドイツ占領下の北部と、ヴィシー政権が統治する南部とに分割された。一方、シャルル・ド・ゴールはロンドンに脱出し、6月18日のラジオ演説で抗戦を呼びかけ、9月には自由フランス亡命政府が成立した。


ヴィシー政権はドイツから自治を認められており、フランスの海外植民地は名目上は、そのままヴィシー政権の管理下に置かれた。しかし、すべての植民地政府がヴィシー政権に恭順したわけではない。休戦協定に従ってヴィシー政権を支持する植民地もあれば、連合国側で自由フランス軍に参加する植民地も存在した。


植民地の支持は双方にとって重要であった。ヴィシー政権にとっては、本国が占領された状況下でフランスの国威を維持する数少ない手段であった。一方、自由フランスにとっては、抗戦を続けるための領土的基盤と人的資源を提供する不可欠な存在であった。


多くの植民地政府は当初ヴィシー政権に従ったが、主に連合国による軍事侵攻により、ほとんどが連合国・自由フランス側に移行していった。わずかに、枢軸国の大日本帝国の影響下に置かれる植民地もあった。


以下に、各植民地政府の動向を表にまとめた。



赤色が初期に自由フランスを支持した地域


フランス領セントヘレナ

1940年6月23日

管理人ジョルジュ・コランがド・ゴール派に忠誠を誓い、イギリスの黙認のもと、自由フランスの拠点として維持された。これが一応、自由フランスの初の領土ということにはなるが、些細な出来事であった。


メルセルケビール海戦

7月3日

フランス世論は反英で激高


ニューヘブリディーズ諸島(英仏共同統治領)

7月20日

英仏共同統治という建前上、ヴィシー政権への支持はイギリスが許さないだろう。実際の統治はイギリスが担った。


チャド(仏領赤道アフリカ)

1940年8月26日

チャド総督フェリックス・エブエがドゴールを支持した。エブエは仏領ギアナに生まれ、フランス植民地高官に任命された最初の黒人である。彼は元々社会主義者であり、ヴィシー政権の反共和的な政策に明確に反対していた。決断の背景には地政学的な要因もある。チャドは内陸植民地であり、海に通じる貿易ルートを確保するにはイギリス領ナイジェリアとの連携が不可欠だった。ヴィシー政権に従えば、イギリスとの関係が断絶され、様々な現実的危機が生じうる。自由フランスに加わることは、チャドの経済的・行政的生存の道でもあった。エブエの選択により、自由フランスは実質的に初めて、主権を行使できる領土を獲得した。


カメルーン

1940年8月27日

シャルル・ド・ゴールの使節2名が30名未満のフランス人とともに、1940年8月27日早朝にカメルーンのドゥアラに上陸した。彼らは都市の支配権を掌握し、植民地全体がド・ゴールに合流することを宣言した。


コンゴ(仏領赤道アフリカ)

1940年8月28日

ブラザヴィル(仏領コンゴの首都)において、フランス領赤道アフリカ総督府のルイ・ユソン将軍(ヴィシー政権派)が、自由フランスの工作活動を主導していたエドガール・ド・ラルミナ大佐らの指揮する少数の自由フランス軍人および地元住民によって逮捕され、権力を掌握された。ブラザヴィルはその後、自由フランス領アフリカの首都となった。


ウバンギ・シャリ(仏領赤道アフリカ)

1940年8月29日

チャドとコンゴの例に続き、ウバンギ・シャリ(現在の中央アフリカ共和国)の知事が1940年8月29日にシャルル・ド・ゴールへの忠誠を表明した。これにより、親ヴィシー政権の軍人との間で首都の支配をめぐる短い戦闘が発生した。


オセアニア(ポリネシアの旧称)

1940年9月2日

タヒチは1940年8月31日に合流し、フランス領オセアニアの全域は9月2日に続いた。これは主にジョルジュ・オルセリ総督と、自由フランスを圧倒的に支持する住民投票を9月2日に実施した地元住民の努力によるものだった。これは親英感情とドイツとの戦いを続ける意欲に影響された。


インド

1940年9月7日

フランス領インド(ポンディシェリ、カーライカル、マエ、ヤナム)の現地政府は、イギリスに影響され、自由フランスへの合流を宣言した。仏領インドは沿岸部の港にわずかに領土があるのみで、周囲をイギリス領インドに囲まれた立地とイギリスの圧力が自由フランス支持の主要な要因であった。


ニューカレドニア

1940年9月19日

ヴィシー政権の任命した高等弁務官アンリ・ソートゥーが、現地の住民からの圧力と、この地域におけるイギリスおよびオーストラリア軍の影響を受けて、自由フランスに合流した。


ダカール作戦。1940年9月、航海中のSSウェスターンランド船上にて。
作戦中、SSウェスターンランドの艦橋にいるド・ゴール将軍とスピアーズ将軍。


ダカール沖海戦

9月23日

自由フランス初の軍事作戦が失敗、反英感情の強化、ヴィシー政権の支配権示威


ガボン(仏領赤道アフリカ)

1940年11月12日

知事のジョルジュ・マッソンは1940年8月28日に自由フランスへの忠誠を誓ったものの、フランス人住民の多くと保守的なカトリック司教から反対を受けた。1940年11月にルクレール率いる自由フランス軍が軍事攻勢(ガボンの戦い)を開始し、11月9日から10日の戦闘の後、ガボンは11月12日に自由フランスに強制的に合流した。これにより、仏領赤道アフリカの全地域が自由フランスの勢力圏となった。


委任統治領シリア

1941年7月12日

ドイツ航空機がイラクの親枢軸派の反乱を支援するためにシリアを経由して給油を許されたため、1941年6月にイギリス、英連邦、自由フランス軍は「シリア・レバノン戦役」(エクスポーター作戦)を開始した。1か月の戦闘の後、ヴィシー軍は敗北し、イギリスの支援を受けた自由フランス軍が支配権を掌握した。この忠誠の転換は、枢軸国の影響を防ぐために地域を確保するための連合軍の軍事介入の直接的な結果であった。


サンピエール島・ミクロン島

1941年12月24日

ド・ゴール将軍の命令を受けて行動したミュズリエ提督は、アメリカやカナダの事前承認なしに、自由フランス海軍を率いて島の支配権を掌握した。住民投票が行われ、自由フランスへの合流を圧倒的に支持する結果となった。この行動は、ド・ゴールがすべてのフランス領土を自由フランスのために確保し、西半球における枢軸国の影響を阻止しようとする意志によるもので、アメリカやカナダとの間で外交問題を引き起こした。


ウォリス・フツナ

1942年5月27日

地元の聖職者アレクサンドル・ポンセ司教とフランス駐在官レオン・ヴリニョーは当初ヴィシー政権に忠実だった。しかし、太平洋におけるウォリス島の戦略的重要性から、アメリカ軍が1942年5月に基地を設置した。ド・ゴールは以前からウォリスの奪還を命じていたが、作戦は遅れていた。自由フランス軍はアメリカの支援を受け、軍事作戦で島の支配権を掌握した。これは島の戦略的重要性や連合軍の軍事介入による強制的な合流であった。フツナ島はその後、1942年7月14日に合流した。


トーチ作戦

フランス領西アフリカ (ダカール、セネガルなど)

1942年11月

1940年9月の「ダカール沖海戦」(メナス作戦)では、イギリスと自由フランス軍(ド・ゴール率いる)がダカールを占領し、フランス領西アフリカを自由フランス側に引き入れる試みを行ったが、ヴィシーフランス軍によって撃退された。フランス領西アフリカは1942年11月の連合軍の北アフリカ上陸作戦(トーチ作戦)までヴィシーの支配下にあり、その後、北アフリカと西アフリカのヴィシー軍は最終的に連合国に忠誠を切り替えた。これは、当初からの自発的な合流ではなく、軍事的な進展による広範な転換の一部であった。


フランス領北アフリカ (アルジェリア、モロッコ、チュニジア)

1942年11月

連合軍の「トーチ作戦」後、この地域の支持は転換した。ヴィシーフランス軍との激しい戦闘と、アンリ・ジロー将軍とシャルル・ド・ゴール将軍間の複雑な交渉と権力闘争を経て、これらの地域は最終的に連合国側に合流し、1943年6月にアルジェでフランス国民解放委員会(CFLN)の基盤となった。これは軍事介入と戦略的必要性の直接的な結果であり、最初からの内部的な合流ではなかった。当時、アルジェリアは海外領土ではなく本土の一部とされていたため、自由フランス政府は遂に本土を獲得し、定義上亡命政府ではなくなった。


レユニオン

1942年11月28日

レユニオンの植民地政府は、連合軍の圧力(特にインド洋に位置することからイギリス軍)と自由フランス側の行動の影響を受け、1942年11月28日に自由フランスに合流した。北アフリカでの連合軍上陸とそれに続く多くの植民地の忠誠転換後、孤立したレユニオンのヴィシー政権は維持が困難となり、駆逐艦レオパルドによる上陸作戦によって、自由フランス軍によって占領された。


マダガスカル・コモロ諸島

1942年12月14日

マダガスカル島は戦略的に重要であり、太平洋戦争の勃発後、イギリスは日本が海軍基地として利用することを恐れていた。ヴィシー政権はアルマン・アネ総督の下でマダガスカルを支配していた。1942年5月、イギリス軍は大規模な島への侵攻(アイアンクラッド作戦)を開始した。数か月の戦闘の後、1942年11月にヴィシー軍は降伏した。その後、1942年12月14日にポール・レジャンティロムを総督として自由フランスに正式に引き渡された。これは地政学的な懸念による連合軍の軍事征服による強制的な忠誠の転換であった。なお実際のところ、日本軍はイギリス東洋艦隊を駆逐しインド洋の制海権を確保こそしていたものの、マダガスカル方面への進出には消極的だった。


ソマリランド (ジブチ)

1942年12月26日

フランス領ソマリランドは、アフリカで最後までヴィシー政権に忠実であり続けたフランス植民地であった。長期にわたる連合軍の封鎖とそれに続く軍事圧力を受け、1942年12月26日に自由フランス軍に降伏した。ヴィシー総督ピエール・ヌアイユタは、イギリス軍と自由フランス軍に対して厳格な封鎖を維持し、深刻な物資不足と植民地での飢饉を引き起こした。紅海の入り口というジブチの戦略的重要性から、最終的にイギリスの圧力と自由フランスの軍事行動により、連合国側に合流せざるを得なかった。


ギアナ

1943年3月16日

ギアナは南米大陸の北東部に位置し、周囲を連合国寄りの勢力(イギリス領ギアナ、オランダ領ギアナ、ブラジル)に囲まれており、徐々に孤立感を深めていた。自由フランスの工作活動と、フランス領アンティル諸島(マルティニーク、グアドループ)の合流に向けた動きに影響を受け、最終的に現地指導者と住民の意思により自由フランスに合流した。


アンティル諸島(マルティニーク、グアドループ、サン・マルタン、サン・バルテルミー島)

1943年7月3日

当地域、特にマルティニークはカリブ海の戦略的要衝だった。アメリカとイギリスは、マルティニークに停泊したヴィシー艦隊の脅威を警戒し、資産凍結、物資供給制限などの経済的圧力と海上封鎖を強化した。長期にわたる物資不足と生活困窮は住民の不満を高め、自由フランスへの共感が広がった。また、北アフリカでの連合軍の勝利(トーチ作戦)が、孤立したロベール提督の判断に決定的な影響を与えた。最終的に、ロベール提督は降伏を宣言し、島々は自由フランスの支配下に入った。


広州湾

合流せず

広州湾租借地は自由フランスに合流しなかった。1943年2月にヴィシー政権との合意により日本が占領した。1945年の日本の降伏まで、名目上はヴィシーフランスの管理下で日本軍の占領下に置かれ続けた。戦後、フランスは直ちにこの領土を中華民国に返還した(1945年8月18日)。


上海

合流せず

上海フランス共同租界は自由フランスの支配下に入ることはなかった。この租界は1943年までヴィシーフランスの管理下に置かれた。1941年12月の真珠湾攻撃後、すでに上海の大部分を支配していた日本軍は、共同租界を事実上占領した。フランス共同租界は当初一部の自治権を維持したが、ヴィシー政府は1943年7月に日本の支援を受けた汪兆銘政権に治外法権と租界そのものを正式に放棄した。1945年の日本の降伏後、戦後の自由フランス臨時政府は1946年2月に租界の中華民国への返還を承認した。したがって、この租界が自由フランスに「合流」することはなく、その主権はヴィシー政権から敵の支援を受けた政権に譲渡され、その後戦後のフランス政府によって中華民国に正式に返還された。


インドシナ

合流せず

フランス領インドシナは自由フランスに合流しなかった。1940年9月には日本軍が北部仏印に進駐し、1941年7月には南部仏印にも進駐した。この地域は第二次世界大戦中、名目上はヴィシー政権の支配下にあったものの、実質的には日本の軍事プレゼンスと影響下に置かれ続けた。これは日本の東南アジアにおける地政学的な利益と、協力せざるを得なかったヴィシー政権の弱さによるものである。



初期の1940年には、イギリスの影響が強い地域や、指導者がド・ゴールを支持した仏領赤道アフリカが早期に自由フランスに合流し、その後の活動拠点となった。一方で、ヴィシー政権が支配力を維持する地域では、自由フランスの試みは成功しなかった。1941年から1942年中頃にかけては、枢軸国の影響排除を目的とした連合国の軍事介入や、孤立した地理的条件から自由フランスへ忠誠が転換するケースが見られた。

アルジェ近郊の海岸にて。1942年11月、イギリス海軍の兵士たちと、イギリスおよびアメリカ陸軍の兵士たち。

大きな転換期となったのは、1942年後半から1943年にかけての連合軍による北アフリカ上陸作戦(トーチ作戦)だった。この作戦を契機に、フランス領西アフリカや北アフリカの植民地が大規模に連合国側に転換し、自由フランスの重要な基盤となった。この成功は、レユニオンやマダガスカル、ソマリランドといった他の孤立した植民地にも波及し、連合国の海上封鎖や軍事作戦によってほとんどの植民地が自由フランスに合流した。

地域別に見ると、仏領赤道アフリカは指導者の自発的決断により早期に合流し、自由フランスの拠点となった。太平洋・インド洋の植民地はイギリスやオーストラリアの影響や戦略的重要性から軍事介入を受けて合流するケースが多かった。アメリカ大陸・カリブ海では、地理的孤立と経済封鎖が住民の不満を高め、自由フランスへの合流を促した。一方で、広州湾や上海、インドシナといったアジアの植民地は、日本の強い影響下に置かれたため自由フランスに合流することはなかった。


自由フランスへの移行スタイルは主に四つの類型に分けられる。

第一に、指導者の自発的決断によるもので、チャドなどがこれに当たる。

第二に、住民の圧力や意思決定によるもので、オセアニアやニューカレドニアが挙げられる。

第三は、連合国や自由フランスによる直接的な軍事介入や圧力によるもので、シリアやガボンがその例である。

最後に、連合軍の戦略的進展、特にトーチ作戦のような大規模な動きが波及して広範な植民地が転換するケースで、北アフリカや西アフリカがこれに該当する。これらの多様な経緯を通じて、自由フランスはフランスの主権を回復し、対独抗戦を継続するための基盤を確立していったのである。