2025年9月21日日曜日

「都」「道」「府」「県」のちがいと法律上の特則

 北海道はなぜ「北海県」ではないのだろうか。それは、明治時代に「東海道」「南海道」のノリで「北海道」と命名され、そのノリが今日まで続いているからである。


では、「県」と「道」には、その名前以外に、法律上でなにか違いがあるのだろうか?

「都」は?「府」は?


以下、そういった違いをみていく。なお、「法律上の」と書いたのは、条例レベルでは各自治体が好きにやっているわけで、違いがあって当然だからである。


一般法の条文中の特則規定

太字は引用者による)

労働基準法第142条


鹿児島県及び沖縄県における砂糖を製造する事業に関する第三十六条の規定の適用については、令和六年三月三十一日(同日及びその翌日を含む期間を定めている同条第一項の協定に関しては、当該協定に定める期間の初日から起算して一年を経過する日)までの間、同条第五項中「時間(第二項第四号に関して協定した時間を含め百時間未満の範囲内に限る。)」とあるのは「時間」と、「同号」とあるのは「第二項第四号」とし、同条第六項(第二号及び第三号に係る部分に限る。)の規定は適用しない。


季節労働たる製糖業においては、時間外労働についての制限が緩和されるという規定である。

さて、ここでこの記事の目的を説明しよう。この規定の何が面白いのかというと、同じ製糖業者でも、鹿児島県・沖縄県で業を営む者は特則の恩恵を受けられるのに、それ以外の45都道府県の業者は通常の規制に服する点である。言い換えれば、国が、対等なはずの都道府県を区別している点が面白いのである。

つまり、この点で、鹿児島県・沖縄県は我が大分県に一歩リードしている。


尤も、令和6年4月1日以降は特別扱いも終了している。大分県が追いついたことを喜ぼう。


道路法第88条

国は、の区域内の道路については、政令で定めるところにより、道路に関する費用の全額を負担し、若しくはこの法律に規定する負担割合若しくは補助率以上の負担若しくは補助を行い、又はこの法律に規定する以外の負担若しくは補助を行うことができる。地勢、気象等の自然的条件がきわめて悪く、且つ、資源の開発が充分に行われていない地域内の道路で政令で指定するものについても、同様とする。

2 国土交通大臣は、前項の規定により国がの区域内の道路について、新設又は改築に要する費用にあつてはその四分の三以上で、維持、修繕その他の管理に要する費用にあつてはその二分の一以上で政令で定める割合以上の負担を行なう場合において、国の利害に特に関係があるときは、政令で定めるところにより、道路管理者の権限の全部又は一部を行なうことができる。

3 前項の規定により国土交通大臣が道路管理者の権限の全部又は一部を行なう場合においては、又は当該市町村道の存する市町村は、政令で定めるところにより、第四十九条の規定に基づく負担金を国庫に納付しなければならない。

河川法96条

の区域内の河川については、この法律の規定にかかわらず、河川の管理に要する費用の負担、河川管理者の権限、流水占用料等の帰属その他の事項につき、政令で特別の定めをすることができる。


北海道は広大なので、諸々の一般法に特則がある。道路法に「道」(北海道のこと)という言葉が出てくるのはかなり面倒くさい。


ところで、この法律は条文上は北海道のことだけを言っているわけではない。あくまで、末尾が「道」である都道府県一般についてのルールを述べているわけである。

これが「「県」と「道」には、その名前以外に、法律上でなにか違いがあるのだろうか?」という冒頭の問いへの答えである。ある。


本項の規定と前項の鹿児島県・沖縄県の規定との違いは分かるだろうか?前項はあくまで鹿児島県・沖縄県という具体的な2県についての規定を述べたものであり、「県」と名の付く地方自治体についての規定ではない。

一方、本項の規定は「道」一般について述べたものである。ただ、道が北海道しかないので事実上北海道の具体的な規定となっているに過ぎない。


ゆえに、我が大分県は「大分道」に改名することで、道路整備の補助などを国から受けることができるようになるかもしれない。「大分道」は高速道路すぎるか。濃霧で通行止めになってそう。

道路法第5条

第三条第二号の一般国道(以下「国道」という。)とは、高速自動車国道と併せて全国的な幹線道路網を構成し、かつ、次の各号のいずれかに該当する道路で、政令でその路線を指定したものをいう。

一 国土を縦断し、横断し、又は循環して、都道府県庁所在地(北海道の支庁所在地を含む。)その他政治上、経済上又は文化上特に重要な都市(以下「重要都市」という。)を連絡する道路


この規定は「道」一般の話ではなく「北海道」という具体的な地方自治体の規定である。46都府県では「特に重要な都市」の間でなければ国道になり得ないのに、北海道では支庁所在地であれば国道にできるらしい。

筆者が北海道知事なら、一駅ごとに支庁に区切り、支庁を極度に細分化することで支庁所在地を大幅増加させ、すべての道路を国道に指定させることで道路管理負担から逃れるだろう。重要かどうかはどうにもできないが、支庁所在地は無限に増やすことができる。ライフハックである。


その他、警察法に「道」の特則があるが、面白く料理できないので取り上げない。


「都」は特別区に対する一定の調整権限を有し、この規定が「大阪都構想」の由来である。こうしてみれば、大阪都構想というものは筆者が先に述べた「大分道」構想と(形式上)は大差ない。


なお、「府」については法的になんら「県」と差異がない。名前が雅なだけである。


憲法95条との関係

さて、これまで法律レベルでの地方自治体の特則を概観してきた。ここで気になるのが、憲法95条の教えはどうなってんだ教えは!ということである。

憲法95条

一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。



一の(特定の、という意味)地方公共団体のみに適用される特別法は、住民投票を経なければならない。法律をかじった人間なら全員知っていることである。

労働基準法第142条の制定時に、鹿児島県民・沖縄県民による住民投票、絶対やってねえだろと思って調べたら案の定やっていなかった。


このあたり、何が「特別法」にあたるかの線引きは曖昧であり、運用上は、国会の最終可決院での可決後に同院議長から内閣総理大臣へ「特別法である」旨の通知がなされるかどうかで決まるらしい。


以下、「特別法である」とされ住民投票がなされた事例の一覧を、衆議院憲法調査会の資料より拝借する。


01.広島平和記念都市建設法(S24.8.6 公布 法律第 219 号)

02.長崎国際文化都市建設法(S24.8.9 公布 法律第 220 号)

03.首都建設法(S25.6.28 公布 法律第 219 号)*

04.旧軍港市転換法(S25.6.28 公布 法律第 220 号)**

05.別府国際観光温泉文化都市建設法(S25.7.18 公布 法律第 221 号)

06.伊東国際観光温泉文化都市建設法(S25.7.25 公布 法律第 222 号)

07.熱海国際観光温泉文化都市建設法(S25.8.1 公布 法律第 233 号)

08.横浜国際港都建設法(S25.10.21 公布 法律第 248 号)

09.神戸国際港都建設法(S25.10.21 公布 法律第 249 号)

10.奈良国際文化観光都市建設法(S25.10.21 公布 法律第 250 号)

11.京都国際文化観光都市建設法(S25.10.22 公布 法律第 251 号)

12.松江国際文化観光都市建設法(S26.3.1 公布 法律第 7 号)

13.芦屋国際文化住宅都市建設法(S26.3.3 公布 法律第 8 号)

14.松山国際観光温泉文化都市建設法(S26.4.1 公布 法律第 117 号)

15.軽井沢国際親善文化観光都市建設法(S26.8.15 公布 法律第 253 号)

* 本法は、首都圏整備法(S31.4.26 公布 法律第 83 号)の制定に伴い、廃止された。

** 旧軍港市とは、横須賀市、舞鶴市、呉市及び佐世保市の 4 都市を指す。


03のみ市町村単位ではなく東京「都」の特別法だが、既に廃止済みである。

並べてみると、案外あるものだと思う。いずれも終戦直後、占領下でドサクサに紛れて制定した法律であり、主権回復後には特別法の制定・住民投票は行われていない。


最後に、特別法っぽいけど住民投票を行わなかったゴリ押し例を見て本稿を終える。


北海道開発法

この「北海道」は地方公共団体としての北海道ではなく、北海道という地域名であると強弁して押し通した。

駐留軍用地特措法

事実上沖縄県内の在日米軍基地に関する規定のみが改正される改正案だったため、特別法ではないかという意見があったが、あくまで駐留軍用地一般の話であるとして無視された。

大規模な公有水面の埋立てに伴う村の設置に係る地方自治法等の特例に関する法律

秋田県大潟村の干拓事業を想定した法律だが、当時はまだ大潟村が発足していなかったため特別法にあたらないとされた。

2025年9月4日木曜日

「第三共和政」みたいな序数表現が好きすぎる

たとえば、第三インターナショナル

たとえば、早稲田大学第一文学部


このように、日本語で 第 n 〇〇 と表される言葉がたまらなく好きである。


まず、世界をラベリングしている万能感がある。つまり、本当は個別具体的な事物なのに、それを第一、第二と規格化しているのがよい。


また、単に言葉の響きがよい。第三回大会ではつまらない。あくまで、第七艦隊のように、第n で完結しなければ美しくない。同様に、第二次世界大戦もよくない。次、はいらない。


第三共和政も第三回大会も、英語では単にThirdと表すが、日本語では区別する。

繰り返すことが予定されている事柄は回や次を付ける。組織名や個体名には回や次を付けない。


では、以下に 第n 〇〇 の表現を列挙し、飽きるまで解説していく。


第一文学部

第二共和制

第三インターナショナル

第四中学校

第五福竜丸

第六師団

第七艦隊


第三セクター

第三世界

第二東京弁護士会

第二夫人

第四北越銀行

第三京浜道路

第一生命

第九


第一文学部・学部名

早稲田大学第一文学部は、2007年まで設置されていた学部。第二文学部もあった。

両者は、第一が昼間部、第二が夜間部と区別された。


夜間部は社会人学生のために設置されたものだが、時代の変化に伴い次のような事情があったため、改組され消滅した。

・夜間部では留学生が受け入れにくい

・昼間部の滑り止めのように扱われている

・夜間部でも昼間の授業を受けることができる


ただし、改組後も夜間に授業を設けることにより、第二文学部が担ってきた社会的使命は継続して果たされている。


第一・第二の区別は昔は商学部や政経学部にも存在したようだが、1970年代に廃止されている。


神奈川大学にも第二法学部があったという。


現在、第nを冠する学部は日本に存在しない。夜間部自体も減少傾向である。

法学部第二部 のような名称が多くなっている。



第二共和政・政体


フランス革命以降のフランスの政体は第n で表される。

第一共和政→第一帝政→もろもろ→第二共和政→第二帝政→第三共和政→第四共和政→第五共和政【NOW】

これを、世界史受験生は必死に憶えることになる。


歴史がややこしいので、序数で区別する必要性が生じている。


なお、フランス革命では「第三身分」(庶民のこと)という単語も登場する。序数が多い歴史イベントである。


他国では、韓国が同様の表現を採る。人気韓国ドラマ「第5共和国」はまさに第五共和国時代の政治ドラマであるし、先般の大統領によるクーデター未遂事件の際には「第六共和国の終焉か」とネットで騒がれた。


そのほか、筆者は聞いたことがなかったが、ブラジル・ドイツ・イタリアなども序数表現を用いるらしい。

ベネズエラには第五共和国運動という政党があったらしいが、よく知らない。



第三インターナショナル・政治運動


国際共産主義運動の組織であり、コミンテルンの名で知られる。

第三までであり、第四以降は存在しない。


なお、現在イギリスの労働党や日本の社会民主党が加盟している社会主義インターナショナルは、第三インターナショナルと並行して存在した別組織である。



第四中学校・学校名


田舎に育ったので知らなかったが、主に都市部において、第n の形式をとる無骨な名前の学校がたくさん存在する。


囚人番号みたいで、無個性で、なんだか教育に悪そうに思える。


Google検索でちまちま調べたところ、小学校では小平市立小平第十五小学校、中学校では豊中市立第十八中学校が最大の数である。ありえないデカさ。


また、戦前の旧制中学校においては、東京府立第二十三中学校(現在の東京都立大森高等学校)などが存在する。これらはナンバースクールと呼ばれているらしい。


戦前において第n の形式はよく見られたものである。筆者の母校・大分上野丘高校も、第一高等女学校・第二高等女学校の流れを汲む。


さて、気になるのが、校歌である。

序数をどのように讃えているのか、たいへん気になる。

小平市立の15校・豊中市立の18校、計33校の校歌を調査した。全然知らん学校の校歌を調べるのは斬新な体験だった。


以下、各校の校歌のうち、序数に関する部分を書き抜いた。


小平第一

第二小学校

小平第三小学校

小平第四小学校

小平第五小学校

小平六小 第六小学校

小平第七小学校

八の字かこうよ 青い空

小平第九小学校

小平第十小学校

言及なし

小平十二小学生

小平十三小

小平十四

十五小 十五小 十五小学校


豊中第一

言及なし

豊中第三中学校

豊中第四中学校

五中

豊中六中

豊中第七中学校

豊中八中

豊中第九中学校

東西南北十の字に むすべ われらの友愛を

十一中

豊中われら 第十二

言及なし

豊中十四中学校

豊中十五中

豊中十六中

豊中十七中学校

豊中十八中



調査により、次のことが判明した。


・11以降は校名が長いのでフルで言えない

・市町村にひとつは、センスが光る学校がある



私立でも第n の学校はある。甲子園でおなじみの日大二中、関東一高など。




つづくかも


2025年7月16日水曜日

岡藩領三佐

岡藩領三佐(みさ)は、江戸時代の豊後国(現在の大分県大分市三佐地区周辺)に存在した岡藩の飛地領であり、同藩の唯一の外港として機能した港町である。大野川河口の三角州に位置する孤立した中洲にあり、海原村と三佐村にまたがって形成されていた。


歴史

 岡藩領有以前

 領有の経緯

 主な出来事

 解体

統治体制

地理・交通

経済

社会・文化

現代

遺跡

参考文献

編集後記


歴史

岡藩領有以前

岡藩が三佐を領有する以前、三佐を含む大野川河口部は幕府領であった。初期の岡藩は、豊臣秀吉の命により文禄2年(1593年)に豊後国岡(現在の竹田市)へ入封した際、豊臣秀吉から「舟着きたるにより御代官を仰せ付けられ」たとされる大分郡の今津留村が藩の船着き場として利用されていた。元和5年には船着場が萩原村に変更された。


領有の経緯

元和9年(1623年)、それまで岡藩の船着き場であった萩原村が、松平忠直(徳川家康の孫)の領地(厨料)となった。その代替地として幕府からは当初乙津村が提示されたが府内藩が拒否し、竹中氏が提示した中津留村を岡藩が拒否した結果、最終的に三佐村と海原村(かいわらむら)が岡藩に与えられた。


元和9年閏8月23日には三佐・海原村の受け渡しが行われ、船着き場や町屋の普請(工事)が直ちに開始された。同年9月13日には、中川式部が三佐へ派遣されて町割を命じ、船奉行の柴山藤四郎も三佐に移り住んだ。これにより三佐は、岡藩にとって瀬戸内海への新たな玄関口という位置づけとなり、藩の年貢米輸送や参勤交代における海上交通の重要拠点として、その整備が本格的に始まった。


このように、内陸藩である岡藩には船着場について格段の配慮がなされている。しかし、このように内陸藩が船着場として外港飛地を持つという例はあまり多くない。豊後森藩が頭成港(かしらなりこう、現在の豊岡地区)にあたる辻間村を飛地として領有していた例があるほか、内陸藩ではないものの、紀伊和歌山藩が伊勢湾岸の白子宿を物流拠点として飛地支配していたことが知られる程度である。


例1:森藩-頭成港

例2:紀伊和歌山藩-白子宿


主な出来事

元和9年(1623年)9月13日: 中川式部が三佐へ町割を命じ、港町としての基盤整備が本格化した。船奉行の柴山藤四郎も三佐に移り住んだ。


寛永2年(1625年)6月: 藩主の御座船である住吉丸の船蔵が作られた。


寛永2年(1625年)10月: 港湾施設としての船入普請の願いを幕府に提出した。


寛永3年(1626年)3月: 船入工事のため役人が三佐へ派遣され、閏4月には藩主中川久盛の上洛のため三佐から出発し、家老が見送りに来るなど、三佐からの参勤交代が恒例化した。


寛永13年(1636年): 長さ約330m、幅約90mの船置場の工事願いを幕府に提出。同時に、三佐と岡の間の継飛脚・伝馬など交通・郵便の制度が定められ、三佐の交通拠点としての重要性が増した。


明暦2年(1656年): 大野川中流の犬飼に藩の米蔵が建てられ、併せて町家が立ち始めた。これにより、三佐と犬飼を結ぶ大野川水運の重要性が高まった。


明暦年間(1655年-1660年): 岡藩によって犬飼から下流の大野川の整備が26kmにわたって行われたとされ、犬飼から三佐までの船のルートが整備された。


延宝6年(1678年)4月6日: 「三佐御願替地絵図」が調製され、三佐近辺の浦々の支配状況が描かれた。


貞享元年(1684年): 野坂神社の神殿が造営され、中川家累代武運長久祈願所となった。


貞享2年(1685年): 大分郡の村々が三佐組、海原組、仲村組の3組に再編され、大制札場が三佐村に、小制札場が海原村の4村に設けられた。


宝永2年(1705年)閏4月8日: 三佐浦の百姓家から出火し、町家に延焼する大火が発生。軽役人・水主の家121軒、町家87軒、百姓家27軒、寺1ヶ所、計236軒が焼失し、焼死者2名、馬1頭も焼失した。


正徳元年(1711年)9月: 再び火災が発生し、75軒(士屋敷5、小役人屋敷9、足軽屋敷1、水主屋敷34、町屋26)が焼失した。


元文5年(1740年)6月12日: 久世ヶ瀬橋堤が前年から春にかけて完成し、府内方面からの主要な通路となった。


宝暦6年(1756年)12月: 水主の家から出火し、50軒の家屋のほか、船倉15ヶ所とその中の26隻の船が焼失する火災が発生。


享和3年(1803年)10月: 「三佐町・港絵図」が、三佐町・港などの藩の「用地」と家臣屋敷の検地を行う際に、三佐一帯を見分して作成された。


文化10年(1813年): 第10代岡藩主中川久貴が海上安全祈願のため、藩主の御座船「住吉丸」の入港を描いた「岡藩船三佐入港絵馬」を野坂神社に奉納した。


解体

明治4年(1871年)の廃藩置県により岡藩が廃止され、三佐は岡県の一部となり、その後大分県に編入された。これにより、岡藩領としての三佐の統治は終了した。明治期には港湾施設が放棄され、旧御茶屋は学校に、旧御船入は溜池に変わるなど、その姿を変えていった。明治初期の「三佐港地図」からも、町家が著しく省略されており、港町の機能が衰退した様子がうかがえる。


統治体制

岡藩は三佐村に三佐奉行を配置して支配した。町には町役人として乙名や組頭が置かれ、町屋敷には年貢と町役が免除された。

岡藩では、村を68の組にまとめ、組単位に千石庄屋(大庄屋)を置いて統治する千石庄屋制が採られていた。延宝6年(1678年)の絵図には、三佐を含む飛地5村が三佐組として一括されていたことが記されているが、貞享2年(1685年)には三佐組(三佐と三佐塩浜)・海原組(海原と葛木)・仲村組(仲村・秋岡と直入郡伊小野村)の3組に再編された。


地理・交通


地理院地図の最も古い航空写真。
大きい川が左から乙津川、小中島川、大野川。
乙津川と小中島川に囲まれた地域が三佐。
沿岸部は埋め立て中。


三佐は、大野川河口の三角州にある孤立した中洲に形成された。乙津川、小中島川、別府湾に三方を囲まれ、水上交通の要地であった。享和3年(1803年)の「三佐町・港絵図」によれば、三佐町は町家と堀川(船入・港)の港湾地区に大きく分けられ、両者の境には「広小路」が設けられていた。


水上交通の要地であると同時に、洪水などの水害を受けやすい地域であった。正保郷帳では「水損所」と記されており、水害の多さがうかがえる。島の周囲には川の増水による水害に備えるため、石垣の護岸が築かれていた。町域は、本町・中町・裏町という南北方向の通りと、広小路にほぼ平行する横町、そして新町・出町・下町といった後に開かれた通りで構成されていた。三佐村と海原村の村境は複雑に入り組んでいた。



周辺の領有が入り組んでいた点が地理的な特徴である。東に臼杵藩の飛地である家島村、南に熊本藩の飛地である鶴崎村、西に幕領や延岡藩の飛地があり、豊後国内でも屈指の飛地銀座であった。大野川・乙津川の交通の隆盛がうかがえる。


陸路での主要なアクセスは、元文5年(1740年)に完成した「久世ヶ瀬橋堤」が府内方面からの通路として機能していた。この橋堤を渡り、海原村内に設けられた門と番所を抜けると、新町から本町通りを経て広小路に到達する。


犬飼港跡にある案内図

三佐の港は、岡藩の物資輸送において重要な中継点であった。岡城下からは陸路で大野川中流の犬飼まで運ばれ、そこから大野川を川船で下って三佐に至るルートが主流であった。三佐では、小型の川船から大型の海上輸送船への積み替えが行われ、主に瀬戸内海を経て大阪や江戸へ物資が運ばれた。参勤交代においても、藩主の御座船が三佐港から出港していた。領内には物資を保管する倉庫群が立ち並び、多くの商人や藩の家臣、船頭などが居住していた。


寛永13年(1636年)、長さ約330m、幅約90mにも及ぶ船置場の工事願いを幕府に提出し、また三佐と岡の間の継飛脚・伝馬など交通・郵便の制度が定められ、三佐のもつ意味は大きくなった。港の中枢部には、藩主宿泊用の御殿や役所、銀札蔵、米蔵、作事小屋、武具蔵、船道具蔵などが集中して配置され、厳重な警備のため石垣が巡らされ、出入り口には番所が置かれた。


大野川の河川交通は明治初期まで盛んで、16の舟問屋と135の運船があったとされているが、大正6年(1917年)に犬飼まで鉄道が開通すると、川舟交通は衰退した。


経済

主要な産業の一つとしては製塩業が挙げられる。元和年間(1615年〜1624年)には、三佐海辺で塩浜が始まり、釘屋風塵がその創業に関わったとされる。文化元年(1804年)の記録によれば、三佐村には20人の塩浜持主がおり、合計38ヶ所の塩浜を経営していた。

一般的な江戸時代の塩浜経営では、塩浜の所有と生産、販売がそれぞれ異なる主体で行われるのが基本だった。塩浜は「ハマトリ」が所有し生産し、藩は税を課したり統制したりしたが、販売は塩問屋が仲介し、手数料を得る形であった。

一方、三佐の塩浜経営は問屋資本による支配が明確だった。三佐では、塩浜の所有こそ村人の個人にあったが、塩問屋が生産に必要な用具や経費を負担し、生産された塩の全てを集荷する体制が確立されていた。これは、問屋が販売だけでなく、生産段階から深く関与し、実質的に経営を管理していた点で一般的な形態とは異なる。強力な問屋支配がなされていたという点が特殊である。


また、三佐は瀬戸内海航路の重要な寄港地の一つでもあり、江戸時代後期には安芸国竹原(広島県)や日本海側の石見国浜田(島根県)など、全国各地からの廻船が立ち寄っていた記録が残されている。これらの廻船は積荷を売り込むために立ち寄り、三佐の商業活動を活発化させた。菜種油や小麦、大麦、大豆、米、椎茸、たばこ、綿実などを積んだ船が確認できる。


石高は三佐村と海原村を合わせて550石程度であった。


社会・文化

江戸時代中期頃から始まったとされる野坂神社の本祭りが、氏子により二日間にわたって行われていた。この祭礼では、人形山車や太鼓山、神輿が練り歩き、地域コミュニティの中心となっていた。野坂神社は岡藩との結びつきも深く、貞享元年(1684年)には岡藩主が嵐からの無事帰国を感謝して神殿が造営され、中川家累代の武運長久を祈願する場所となった。


境内には、文化10年(1813年)に第10代岡藩主中川久貴が海上安全祈願のため、藩主の御座船「住吉丸」の入港を描いた「岡藩船三佐入港絵馬」が保存されている。この絵馬には藩主の御座船が三佐港に入港する様子が鮮やかに描かれており、当時の参勤交代の様子や港の繁栄を伝える貴重な資料として、1991年には大分市指定有形文化財となっている。また、この絵馬の下部中央には遠見灯籠が描かれており、遠見山の歴史的重要性がうかがえる。境内にある樹齢400年以上のソテツの大木3本も、参勤交代の際に岡藩主が海上安全を祈願して植えたと伝えられ、1974年に大分市名木に指定されている。

町内には円光寺、尋声寺、海潮寺の三寺が点在し、人々の信仰生活を支えていた。


現代

現在は新産業都市の指定を契機に開発された臨海工業地帯の一部となっている。沿岸部は埋め立てられ、昭和電工系のクラサスケミカルのコンビナートとなっている。東西を臨海産業道路(大分県道22号線)が貫き、沿線には様々な工場が並ぶ。ニトリの大型店舗が存在する。かつて大分地方法務局の出張所が存在したため、士業の事務所が多いことが特徴である。


2025年1月現在の三佐地区の人口は2253人である。


小中島川に面する三佐北地区では、老朽化した木造住宅が密集するなど、都市基盤整備の課題があったが、平成19年度(2007年度)から28年度(2016年度)にかけて「密集市街地の改善」を目標とした事業が進められ、道路整備などが図られた。


遺跡

現代の大分市三佐地区は、臨海工業地帯の一部として発展し、旧来の松林の様子は残っていない。しかし、江戸時代の面影は一部に残されている。



野坂神社: 江戸時代から変わらず三佐地区にあり、岡藩との関係を示す「岡藩船三佐入港絵馬」や樹齢約400年のソテツが残されている。絵馬はいつでも見学することができる。


遠見山: 標高7.9mの小山で、江戸時代には岡藩が参勤交代の御座船や航行する船の標識として遠見灯籠(灯台)を設置していた。現在も金比羅様の祠や三角点が山頂にある。


三佐御茶屋跡: 現在の太刀振神社境内が、かつての岡藩の藩主休息所兼役所であった御茶屋跡とされている。太刀振神社には岡藩の三藩主が合祀されている。


参考文献

豊後岡藩三佐町・港絵図について

http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=kc19705

三佐御願替地絵図(中川家文書) 解説

https://kmj.flet.keio.ac.jp/exhibition/2014/05.html

『大分市史 中』

岡藩【シリーズ藩物語】

地図はopen-hinataを使用。

https://kenzkenz.xsrv.jp/open-hinata/?s=ZY7An1

編集後記

筆者は植民地が大好きで、植民地といえば飛地である。江戸時代、幕藩体制の下で多くの飛地が形成されたことは、筆者にとってはよろこばしいことである。

「幕藩体制における飛地」の総論的なものを書く力量は筆者にはないので、筆者が興味がある飛地について、各論的に書いていくこととする。飽きる前に、豊後国内の飛地を網羅できたらいいなぁ