2022年11月29日火曜日

ジャパンカップを障害コースから観る


先日はジャパンカップを観に行ってきました。

指定席は残念ながら取れなかったので、当日は彼女を連れて行き、東京競馬場を探検していました。すると、なんと障害コースが開放されていました。

 

東京競馬場は三層構造で、外側から芝・ダート・障害コースとなっています。そのうち障害コースの一部が観覧席として開放されていました。

 

スタンド前の人混みとは対照的に、障害コースの、特に4角側は人もほとんどおらず、非常に快適な競馬観戦を楽しめました。馬券は外れました。

 

GⅠデーの東京競馬場で混雑を避ける場所としては、競馬博物館前の日吉が丘があります。ちょうど筆者がいた障害コースからは芝コースを挟んで反対のポイントです。距離は障害コースの方が近いですが、内ラチと馬が被るので写真撮影には不向きかもしれません。写真撮影なら日吉が丘の方が良いです。


馬との距離が近い場所で言えば、次の二箇所が近くで見えます。


一箇所目は内馬場への地下道の入り口付近です。2022年のオークスはここで観ましたが、前にほとんど関係者用のスペースがないため、馬との距離が近いです。返し馬も間近で観られるので感激・激アツです。ただし、地下道への入り口を塞がないように警備員が配置されており、密集できないようになっています。人数制限が厳しめということです。


二箇所目はゴールの奥の芝生付近です。ゴール後の馬やウイニングランもよく見えると思います。ただし、ゴールが近いため人はめちゃくちゃ多いです。

 

さて、障害コースの話をします。筆者はただコースに入れるというだけで非開催日浦和競馬場まで行くようなコースオタクですから、非常に感激しました。


1号障害はよく見れば水濠障害であることが分かるでしょうか。高さは1.2m


2号障害はグリーンウォール。高さ1.3m


3号障害は竹柵で、高さ1.3mです。


メイショウダッサイが越えオジュウチョウサンが越えた障害群を間近で見られて嬉しいです。


芝は野芝だけ。JRA発表によると「障害コース:野芝約10cmから12cm、洋芝なし」とのこと。

普通の芝コースは同じ長さの野芝に加え、約12cmから16cmの洋芝があります。

内ラチ沿いにはやはり馬の足跡があり、名勝負に思いを馳せました。

 

おまけ1

子供ができたらぜひ写真を撮りたい。

 

おまけ2

1999ジャパンカップTを着た筆者と、オネストの純白の勝負服(共有?)。1枠だしすごい。

 

おまけ3

ドイツ馬テュネスの勝負服(H.レンツ氏)。JRAでは無い左襷。ちなみにテュネスは発走調教再審査になった。

2022年11月19日土曜日

坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か・目次

その1

その2・山域を示す用語について

その3・文献ごとの呼び方

その4・この山は何山?

その5・佐賀関半島の誤解

 

 

日本在来馬を訪ねる・その1(総説)

このブログをよく読む方ならお察しの通り、筆者は競馬が好きだが、ギャンブルとしての側面にはそこまで入れ込んでいない。ギャンブル要素も好きではあるが、所詮人並みである。

あえて言語化すれば、そもそも馬という動物が好きで、なんとそれが体系づけられたギャンブルになっているのだからもうサイコー!ということである。

 

となると、競馬ブロガーとしての筆者の強みは、馬という種族そのものへの興味関心である。

そこで、日本の各地に生きる「日本在来馬」たちのもとを訪ねることとしたい。

 

日本在来馬とは、ずんぐりむっくりした、大昔から日本にいた馬のことである。(写真は対州馬)

競馬場で走るような、中東生まれのサラブレッドとは異なる。が、馬である。

品種としては以下の8種類に分類されている。


北海道和種(道産子):北海道

木曽馬:長野県、岐阜県

野間馬:愛媛県

対州馬:長崎県

御崎馬:宮崎県

トカラ馬:鹿児島県

宮古馬:沖縄県

与那国馬:沖縄県

 

個々の紹介は「その2」以降、それぞれを訪ねる記事で行うとして、この記事では総説をしたい。

 

日本在来馬の祖先はモンゴル在来馬と同じである。古代王権が対馬を経由して列島に馬を持ち込み、そこから南北に拡散していったということらしい。これは2020年にDNA比較で明らかにされたことである。(朝日新聞20201105日朝刊)

 

『国史大辞典』によれば、「古墳時代に入ると馬具・埴輪馬をはじめ、各種の関係遺物が発見されることからみて、四世紀以後大陸から飼育技術とともに本格的に移入されたものともみられる」らしい。(下線は引用者による)

 

馬は軍馬としてはもちろん農耕用など様々な用途で用いられた。その用途の一つが「駅馬」である。筆者は交通系ブロガーでもあるので、少し語りたい。



古代、全国に直線道路が整備されていた。そして約16キロメートルごとに「駅」が置かれ、馬が飼養されていた。緊急連絡の際には、連絡を伝える使者が駅ごとに馬を乗り換えていた。その馬が「駅馬」であり、言うまでもなく、このシステムが陸上競技「駅伝」の由来である。

例えば、豊後国の駅にはそれぞれ五疋が置かれた。例外的に、豊後・日向国境の「小野駅」には十疋が置かれた。前後の駅との距離が長く、峻険な地形のためと思われる。

中世・近世は門外漢で分からないが、同様に馬は様々な利用がなされただろう。

 

馬は4世紀に日本が入ってきて、そこから明治維新まで約1500年間、日本各地で暮らしてきた。それぞれの地域で、長い時間の中でそれぞれの特質にあった進化を遂げていた。江戸時代には40ほどの品種があったという。


明治維新で文明開化がなされる中で、軍馬の必要が高まった。日露戦争では大陸の大平原でロシアの騎馬隊・コサックとドンパチやることになる。その軍馬が、小さい日本在来馬ではまずい。そういうわけで、太平洋戦争の終戦に至るまで、大きな欧米馬が持ち込まれ、日本在来馬との混血が進んでしまった。

この過程でほとんどの在来馬は絶滅し、今残っている「日本在来馬」も少なからず混血の影響を受けている。純血種はトカラ馬くらいのものか。

 

戦後は在来種保護の機運が高まり、絶滅寸前の在来馬をどうにか回復させている。農耕馬や荷役馬としての需要は消失したが、ホースセラピーや観光など新たな需要が生じている。

 

〜〜〜〜〜(朝日新聞20201105日朝刊)〜〜〜〜〜

日本在来馬、対馬から全国へ 南の小型馬も中型馬と同じルート

 日本の在来馬は、どこから、どのルートで渡ってきたのか。競走馬理化学研究所(宇都宮市)と米ネブラスカ大などのチームが在来馬8品種と世界の32品種のDNAを比較し、日本在来馬は、モンゴル在来馬の祖先が対馬を経由して輸入され、全国に広がったとみられることがわかった。沖縄県の与那国馬や宮古馬は中国南部から来たとの説があったが、九州を経由して南下していたという。

 現在、日本に残っている在来馬は、北海道の道産子から沖縄県の与那国馬まで8品種。このうち、南西諸島のトカラ馬と宮古馬、与那国馬は体高が110センチほどと小さく、本州の中型馬とは別ルートで日本に来たのではないかとする説があった。京都大の野澤謙名誉教授らが1998年、血液型たんぱく質の分析から、「中型馬と小型馬は遺伝的に区別できない」と、同じ系統だと明らかにしたが、今回はDNAの6万5千カ所を比較する手法で精度を上げたという。

 その結果、日本の在来馬8品種の祖先は、中国北部からモンゴルにいるモンゴル在来馬の祖先と同じ集団だった。国内に持ち込まれたあと、長崎県対馬市の対州馬と愛媛県の野間馬のグループがまず分岐した。ここから長野県の木曽馬や北海道へと北上するグループと、宮崎県の御崎馬や鹿児島県のトカラ馬など南下するグループに分かれ、南下した馬は南西諸島を経由して沖縄県の与那国馬まで至ったとみられるという。

 競走馬理化学研の戸崎晃明上席調査役は「今いる在来馬は恐らく、朝鮮半島から対馬を経由して本州に輸入され、古代王権によって全国に広がった」と推測した。論文は専門誌「アニマル・ジェネティクス」に掲載された。

(上林格)

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2022年11月15日火曜日

坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か・その5(佐賀関半島の誤解)

佐賀関山地について検討する中で、衝撃の誤解に気付いたので記事にする。

それは、「佐賀関半島」がどこを指すかということである。

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「佐賀関半島」(日本大百科事典)

大分県東部、別府湾と臼杵湾を分けるくさび形の半島。大分市域にあたる。愛媛県佐田岬半島とともに瀬戸内海南西部の門戸をつくり、九州四国間の陸橋をなしている。おもに、蛇紋岩を伴う三波川結晶片岩からなる、標高300400メートルの樅木山地の地塁で、主農副漁の集落が沿岸に点在し、米麦、ミカンなどをつくる。頸部をJR日豊本線が走り、国道197号と217号が海岸を巡る。先端に近く、漁港と製錬所のある中心地区関がある。佐賀関港と三崎港(愛媛県)との間にフェリーボートが通っている。

 

「佐賀関町」(角川日本地名大辞典・地誌)

豊後水道に突出する佐賀関半島部に位置して、四国愛媛県の三崎半島と相対する。樅ノ木山(484m)を主峰とする山脈が、やや南にかたよりをみせながら半島を背骨のように東北東〜西南西に走って分水嶺をなす。

 

「佐賀関半島」(大分百科事典)

地形は早壮年期の開析地塁で、樅木山(484m)を主峰とする樅木山系が分水嶺を成している。

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下線部の記述から、佐賀関半島は次の地図の範囲を指すと考えられる。

 


しかしながら、筆者はこれまで佐賀関半島を次の範囲だと誤解していた。

 


なぜこのように誤解したか?それは、誤った地図がずっと「佐賀関半島」のWikipediaに載っていたからであった。(現在は修正済)

 

誤った地図が示す範囲は「関崎」という岬地名だろう。岬とは、ミニ半島のことである。

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「関崎」(角川日本地名大辞典)

大分市の旧佐賀関町域の東北端にある岬。地蔵崎ともいう。佐賀関半島の先端部にあり,豊予海峡を隔て愛媛県の佐田岬に対する。日豊海岸国定公園のうち。標高40mの突端に関崎灯台(明治34年初点)・関崎展望台・キャンプ場がある。波除け地蔵の名がある地蔵仏があるが,養老年間に役の行者によって安置されてから地蔵崎と呼ばれるようになったという。現在,佐賀関町バスターミナルから関崎観光道路が開かれている。

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山脈と同様に、半島もファジーな自然地名である。

 

ところで、佐賀関半島の形はなんとなくアフリカのソマリアに似ている。

 


しかしながら、「大分のソマリア」というと如何せん治安が悪い。ここはひとつ、同地域の異名「アフリカの角」になぞらえて、スケールを大きく「九州の角」とアピールしてみてはどうか。無理か。

ソマリアといえば海賊である。筆者の研究する海賊・藤原純友と佐賀関は実は関係があり、遺称地名も残っている。が、この話はまた別で。


坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か目次



2022年11月13日日曜日

坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か・その4(この山は何山?)

 その3では「佐賀関山地」「樅木山地」「九六位山地」の使い方について試案を示した。

その4では、筆者十年来の懸案を解き明かしたいと思う。



これは坂ノ市駅から南を撮った写真だ。駅前の道路(大分r504)は綺麗に南北に沿っているので、この写真は真南を撮ったものである。

奥に山々が写っている。

この山々は、それぞれ何?というのが今回の主題である。




小学生の頃よく由布岳や久住の登山をしたため、身近な山が気になっていた。

写真の右の山は左の山より手前にあるように見える。そこで、幼い自分は地図と見比べ、右は(大分)姫岳、左は白山かなと考えていた。

結論から言えば、これが正解だった。

 

景色について調べるときに便利なのが、地理院地図の3Dサービスである。これを使うと、以下のような画像を作れた。

 


目で見える景色より全体的に詰まって見えるのが難点である。今回は送電線を頼りに山を特定した。

 

坂ノ市小・中学校の校歌にも歌われる「白山」は案外のっぺりした山だった。

形としては姫岳の方が映えるが、近くにあるから大きく見えるだけで、白山より140mほど標高は低い。

ちなみに、大分県にはもっと有名な「姫岳」がある。臼杵・津久見市境に。だから、坂ノ市の姫岳を指すには「大分姫岳」と言ったほうが良い。

佐賀関山地の山々にもいずれ登ってみたい。分水嶺の山々は林道が整備されており、筆者も中学生時代にママチャリで登ったことがあるくらいだ。(それゆえ、登山家には人気がない。)

しかし、分水嶺から外れた姫岳は、他のブログをみる限り結構大変らしい。冬場がいいなぁ。


坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か目次




坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か・その3(文献ごとの呼び方)

 その2では山域名称の区別について確認した。それを踏まえ、今回は山域の呼び方に迫っていく。

Japanknowledge含むネット上で調べたところ、それぞれの文献が次の言葉を使っていた。

 

『角川日本地名大辞典』:「樅木山脈」「樅木山地」「樅木山塊」

『日本歴史地名大系』:「樅木山地」また上位概念として「佐賀関山地」

『大分百科事典』:「樅木山系」「九六位山系」(信憑性に疑問)

『日本大百科全書』:「樅木山地」

「土地条件調査解説書「大分地区」」:「佐賀関山地」

 

これを言葉ごとに分類すると、次のようになる。

 

「樅木山地」:『日本歴史地名大系』『角川日本地名大辞典』『日本大百科全書』

「樅木山脈」:『角川日本地名大辞典』

「樅木山系」:『大分百科事典』

「九六位山系」:『大分百科事典』

「佐賀関山地」:『日本歴史地名大系』「土地条件調査解説書「大分地区」」

 

多数派は「樅木山地」と「佐賀関山地」のようだ。


ところで、目を引くのは土地条件調査解説書「大分地区」である。国土地理院が発行したものだが、「佐賀関山地」の言葉の出典は「大分県(1978):5万分の1土地分類基本調査「大分・佐賀関」,国土調査,59p.」らしい。

あ〜あ、また国会図書館に行かなきゃならんのかと思っていたところ、なんとネット上に色々あった。

 

国土調査(土地分類調査・水調査)

 

ざっと見たところ、次の4点が該当する。

・5万分の1土地分類基本調査「大分・佐賀関」:「佐賀関山地」

・5万分の1土地分類基本調査「臼杵」:「佐賀関山地」

・5万分の1土地分類基本調査「犬飼」:「九六位山地」

20万分の1土地分類基本調査「大分」:「佐賀関山地」


20万分の1土地分類基本調査「大分」
I -C2とある範囲が「佐賀関山地」
竹中の方まで含む。かなり広い。

 

犬飼だけ少しフォーマットが異なり、端に少しだけある山地を「九六位山地」としている。「九六位山地」は「佐賀関山地」の下位分類と見るのが自然だろう。

 

ちなみに「樅木山地」と「佐賀関山地」が異なる概念であることは自明である。

「樅木山地」について、多くの事典が主峰(その連山の中で最も高い山)を484mの樅木山としている。

しかしながら、「佐賀関山地」に含まれる白山は標高が523.4mある。つまり、「佐賀関山地」の主峰は白山である。

よって、樅木山地は佐賀関山地の下位概念である。

 

以上から、次のようにまとめられるだろう。

佐賀関半島の山域全体を「佐賀関山地」と呼ぶ。

「佐賀関山地」は東西で東の「樅木山地」と西の「九六位山地」に分かれる。

東部について分水嶺を特に指す場合に「樅木山脈」と呼ぶ。

西部についても同様に分水嶺を「九六位山脈」と呼べるが、使用例は見当たらなかった。


(転載は自由です)

海域名称はきちんと定義があるのだが山域名称はないためなかなか曖昧だが、このように結論づけたい。


その4以降で考えることを適当に列挙してみる。

・「佐賀関山地」が「佐賀関」地域に比べて広すぎる件

・樅木山地と九六位山地の別れ目はどこか。(御所峠あたりかと推測する)

・景色と山の名前

 



資料編

初版『角川日本地名大辞典』

「佐賀関町」立地(p.1063

「樅ノ木山を主峰とする山脈が、やや南にかたよりをみせながら半島を背骨のように」

「一尺屋」

「佐賀関(さがのせき)半島の分水嶺樅木山脈の東南部,豊後水道に面した臼杵(うすき)湾岸の一部で,佐賀関寄りの地域。」

「河内村」

「樅木山脈から北流する湊川の中流域の狭隘な谷間に位置する。」

「木佐上」

「佐賀関(さがのせき)半島の分水嶺樅木(もみのき)山脈から北流する小猫(こねこ)川の上・中流域に位置し,東西南を低山地に囲まれた地域。」

「神馬木村」

「佐賀関(さがのせき)半島の付根,樅木(もみのき)山脈の北側に位置する。」

「子猫川」

「大分市木佐上(きさがみ)の樅木(もみのき)山地に源を発し,」

「志生木川」

「樅木山地に源を発し」

「別府湾」

「神崎(こうざき)から地蔵崎(じぞうざき)までの海岸は,佐賀関半島を形成する三波川帯結晶片岩からなる樅木(もみき)山塊の分離丘陵がせまる岩石海岸で,2030mの海食崖をなす。」

その他「樅木分水嶺」

 

『日本歴史地名大系』

「佐賀関町」

「半島のやや南寄りに樅木山(四八四メートル)を主峰とする樅木山地が東北東から西南西へ背骨状に走り分水嶺をなす。」

「一尺屋」

「西は樅木山に連なる山地」

「臼杵市」

「北は樅木山から九六位山へと続く佐賀関山地」

「大志生木村」

「志生木川は樅木山地に水源を発し」

「神崎村」

「大平村の西、樅木山地の北側にあって別府湾に臨み」

 

『日本大百科全書』

「佐賀関半島」(兼子俊一)

「おもに、蛇紋岩を伴う三波川結晶片岩からなる、標高300400メートルの樅木山地の地塁」

 

『大分百科事典』

「佐賀関半島」(山田栄)(p.327

「樅木山を主峰とする樅木山系が分水嶺をなしている」

「九六位峠」(山田栄)(p.243

「藩政時代に九六位山系越えとして」

 

国土地理院「土地条件調査解説書「大分地区」」(2010年)

佐賀関山地は九六位山(標高 451.7m:調査地域外)等を含む三波川変成岩からなる山地で、調査地域の南東端に山地の一部が位置します。山地は全体的には開析が進み、壮年期の山地地形を呈しています。


坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か目次



2022年11月11日金曜日

坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か・その2(山域を示す用語について)

自然地名は曖昧で、だからこそ面白い。

二年前に「坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か」という記事を公開し、web上の記載から「坂ノ市と臼杵を分かつ山々」の名前について、次の4案を示した。

・佐賀関山地

・九六位連山

・九六位山系

・樅木山脈


結論として、全体を「佐賀関山地」と呼び、うち東部の連なっている部分を特に「樅の木山脈」と呼ぶこととした。

しかしながら、まあだいぶ浅い記事であった。そういうわけで、この自然地名問題についてもう少し深掘りしていきたいと思う。

 

初めに考えたいのが、先の4案の語尾に関する問題である。「山地」「連山」「山系」「山脈」と、バラバラである。こういう言葉遣いを大切にしていきたい。

『使い方の分かる 類語例解辞典』から引用する。

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【山脈/山地/山並み/連山】関連語◆山系◆連峰◆山塊

共通する意味★連なっている山々。(英語)a mountain range

使い分け

【1】「山脈」は、大きな山が数多く連なって脈状をなしているもの。「山並み」「連山」は、「山脈」ほど規模の大きくないものにもいう場合が多い。

【2】「山地」は、いくつかの山々からなり、起伏が大きく、傾斜の急な斜面をもった広い地域。「山脈」の方が、「山地」よりも高くてけわしい山々にいう場合が多い。

関連語

◆山系(さんけい) 二つ以上の山脈が平行して走っているものの総称。「ヒマラヤ山系」

◆連峰(れんぽう) 峰々の連なり。「立山連峰」

◆山塊(さんかい) 山脈から離れた一群の山々。(英語)a mountain mass「秩父(ちちぶ)山塊」

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「山並み」は地名とセットで使わないので、少し違う。

「山脈」の方が概して規模や峻険さの著しい山域を指すようだ。しかしながら、その土地に暮らす人にとっては他所との比較は意味をなさない気もする。規模と脈状の地形を尊重するなら「連山」が一番妥当だと思える。

 


改めて地図を見ると、件の山々は佐田岬半島から延びている一本の山脈に思える。地質は共通らしい。

件の山々は、少なくとも「二つ以上の山脈が平行」することを意味する「山系」とは違う。

「山系」について、辞書を引く。

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「山系」(日本大百科全書)

大陸的規模(幅と連続性)で発達している山地群の総称をいう。世界最大の山系は、環太平洋造山帯とアルプス・ヒマラヤ・インドネシア造山帯(地中海・アルプス・ヒマラヤ造山帯)である。これらの山系は、中生代白亜紀以後の新しい地質時代に形成された地形である。古生代に形成された山系として、ヨーロッパのカレドニア、ヘルシニア(バリスカン)両山系、アジアのバイカル、ウラルなどの山系がある。

「山系」(日本国語大辞典)

二つ以上の山脈が近接してほぼ平行に走っているとき、これらを総称していう。

「山系」(デジタル大辞泉)

二つ以上の山脈が近接し、全体で一つの系統をなしているもの。ヒマラヤ山系など。

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『大分百科事典』「佐賀関半島」の項は「樅木山系」としているが、以上からこれは誤りである。

 

おまけ

「山地」(日本大百科全書)

周囲の低平な地形面よりも高い標高にあり、起伏に富む地表部をいう。わが国では、平野から山地に移り変わる地表部を丘陵として区分する場合が多い。諸外国では、丘陵は普通、山地に分類されている。山地の条件として、地質構造が複雑であることをあげる説もある。

 山地分類の指標は、標高、形成営力(成因)、形成時代、侵食輪廻 (りんね) 、起伏量などであるが、その基準は研究者や時代によって異なる。標高1000メートル、10003000メートル、3000メートル以上にある地形を、それぞれ低山性山地(丘陵地)、中山性山地、高山性山地として分類することもあるが、これらの標高区分も研究者によって異なる。火山作用で生じた火山、地殻運動によって生じた曲隆山地・ドーム状山地・褶曲山地 (しゅうきょくさんち) ・断層山地、さらには外的営力(作用)で生じたものとして氷食山地・侵食山地などがある。古生代の造山運動で生じた山地をパレイデンPaläidenまたは古生山地とよび、この山地が侵食され、新期の隆起運動で形成されたものをネオパレイデンNeopaläidenとよぶことがある。また古生代から中生代中期に生じたものを古期山地、中生代末以降に形成されたものを新期山地とよぶこともある。

「山脈」(日本大百科全書)

連続して脈状に一定の方向に連なる山地をいう。世界における大山脈は、台地や高原と異なり、特定の地帯に分布している。環太平洋造山帯やアルプス‐ヒマラヤ造山帯の山脈群はその例である。この両造山帯の分布と大陸の配置関係は、プレートテクトニクス説で説明されている。世界の各地の山脈は、成因、形成の時代、形や位置などを指標にして区分されている。


坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か目次