坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か・その2(山域を示す用語について)

自然地名は曖昧で、だからこそ面白い。

二年前に「坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か」という記事を公開し、web上の記載から「坂ノ市と臼杵を分かつ山々」の名前について、次の4案を示した。

・佐賀関山地

・九六位連山

・九六位山系

・樅木山脈


結論として、全体を「佐賀関山地」と呼び、うち東部の連なっている部分を特に「樅の木山脈」と呼ぶこととした。

しかしながら、まあだいぶ浅い記事であった。そういうわけで、この自然地名問題についてもう少し深掘りしていきたいと思う。

 

初めに考えたいのが、先の4案の語尾に関する問題である。「山地」「連山」「山系」「山脈」と、バラバラである。こういう言葉遣いを大切にしていきたい。

『使い方の分かる 類語例解辞典』から引用する。

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【山脈/山地/山並み/連山】関連語◆山系◆連峰◆山塊

共通する意味★連なっている山々。(英語)a mountain range

使い分け

【1】「山脈」は、大きな山が数多く連なって脈状をなしているもの。「山並み」「連山」は、「山脈」ほど規模の大きくないものにもいう場合が多い。

【2】「山地」は、いくつかの山々からなり、起伏が大きく、傾斜の急な斜面をもった広い地域。「山脈」の方が、「山地」よりも高くてけわしい山々にいう場合が多い。

関連語

◆山系(さんけい) 二つ以上の山脈が平行して走っているものの総称。「ヒマラヤ山系」

◆連峰(れんぽう) 峰々の連なり。「立山連峰」

◆山塊(さんかい) 山脈から離れた一群の山々。(英語)a mountain mass「秩父(ちちぶ)山塊」

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「山並み」は地名とセットで使わないので、少し違う。

「山脈」の方が概して規模や峻険さの著しい山域を指すようだ。しかしながら、その土地に暮らす人にとっては他所との比較は意味をなさない気もする。規模と脈状の地形を尊重するなら「連山」が一番妥当だと思える。

 


改めて地図を見ると、件の山々は佐田岬半島から延びている一本の山脈に思える。地質は共通らしい。

件の山々は、少なくとも「二つ以上の山脈が平行」することを意味する「山系」とは違う。

「山系」について、辞書を引く。

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「山系」(日本大百科全書)

大陸的規模(幅と連続性)で発達している山地群の総称をいう。世界最大の山系は、環太平洋造山帯とアルプス・ヒマラヤ・インドネシア造山帯(地中海・アルプス・ヒマラヤ造山帯)である。これらの山系は、中生代白亜紀以後の新しい地質時代に形成された地形である。古生代に形成された山系として、ヨーロッパのカレドニア、ヘルシニア(バリスカン)両山系、アジアのバイカル、ウラルなどの山系がある。

「山系」(日本国語大辞典)

二つ以上の山脈が近接してほぼ平行に走っているとき、これらを総称していう。

「山系」(デジタル大辞泉)

二つ以上の山脈が近接し、全体で一つの系統をなしているもの。ヒマラヤ山系など。

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『大分百科事典』「佐賀関半島」の項は「樅木山系」としているが、以上からこれは誤りである。

 

おまけ

「山地」(日本大百科全書)

周囲の低平な地形面よりも高い標高にあり、起伏に富む地表部をいう。わが国では、平野から山地に移り変わる地表部を丘陵として区分する場合が多い。諸外国では、丘陵は普通、山地に分類されている。山地の条件として、地質構造が複雑であることをあげる説もある。

 山地分類の指標は、標高、形成営力(成因)、形成時代、侵食輪廻 (りんね) 、起伏量などであるが、その基準は研究者や時代によって異なる。標高1000メートル、1000~3000メートル、3000メートル以上にある地形を、それぞれ低山性山地(丘陵地)、中山性山地、高山性山地として分類することもあるが、これらの標高区分も研究者によって異なる。火山作用で生じた火山、地殻運動によって生じた曲隆山地・ドーム状山地・褶曲山地 (しゅうきょくさんち) ・断層山地、さらには外的営力(作用)で生じたものとして氷食山地・侵食山地などがある。古生代の造山運動で生じた山地をパレイデンPaläidenまたは古生山地とよび、この山地が侵食され、新期の隆起運動で形成されたものをネオパレイデンNeopaläidenとよぶことがある。また古生代から中生代中期に生じたものを古期山地、中生代末以降に形成されたものを新期山地とよぶこともある。

「山脈」(日本大百科全書)

連続して脈状に一定の方向に連なる山地をいう。世界における大山脈は、台地や高原と異なり、特定の地帯に分布している。環太平洋造山帯やアルプス‐ヒマラヤ造山帯の山脈群はその例である。この両造山帯の分布と大陸の配置関係は、プレートテクトニクス説で説明されている。世界の各地の山脈は、成因、形成の時代、形や位置などを指標にして区分されている。


坂ノ市と臼杵を分かつ山々の名前は何か・目次



◎【新幹線秘境駅】七戸十和田駅

いわて沼宮内駅からは指定席特急券を持たずに「はやぶさ」に乗る。盛岡以北の区間は好き勝手に乗っていいことになっているので、空いている席に座る。特定特急券という制度で、地域輸送への配慮である。

二戸、八戸と停まり、七戸十和田に着く。この辺の人がやけに数字が好きなのかというとそういうことではなく、開拓の歴史が比較的浅いことが数字地名の原因だろう。いわて沼宮内の記事で示した通り、かつて東北は蝦夷の土地、「日高見国」だった。

そして当ブログ的にさらに大切なことに、「N戸」地名は「貢馬のために九つに分けられた馬の産地ごとに数字を振った名残」だという。N戸は馬の生産地なのだ。

 

七戸十和田の新幹線駅から歩いてすぐの場所に道の駅七戸がある。今日は道の駅ばかり行っている感じだが、ここでは道の駅そのものには用はない。施設の片隅にある、二頭の銅像を見に来たのだ。二頭とは、もちろん馬のことだ。1957年のダービー馬ヒカルメイジと、1962年の同じくダービー馬フエアーウインである。

ヒカルメイジはいかにも昭和の馬名といった感じだが、フエアーウインは今でもいそうだ。無論、ウインレーシングクラブとは関係ない。この二頭はともに七戸町で生まれた、青森の馬である。七戸は歴史的に馬産地で、ダービー馬も出したし、今も場産地である。

 

道の駅の対面にはJBBA日本軽種馬協会の七戸種馬場がある。

少し前まではアイルランド馬のケープブランコがいたが、彼は九州に移動。その代わりに、ベテランのアルデバランに加え、馬券妙味でお馴染みエスケンデレヤがやってきて二頭体制だという。ノーザン・社台が隆盛を極める昨今、東北や九州の馬に頑張って欲しいと思う。

 

今回は時間がそんなに無いので、小走りで駅に戻る。ここから新青森までは行かずに折り返し、盛岡まで各停のはやぶさに乗るのだ。

そういえば、七戸十和田駅には新幹線秘境駅巡りとして来たのだった。それを忘れるほど、七戸十和田駅は活気に満ちていた。

というか、最初にいわて沼宮内に行ったのが良くなかった。あれを基準に考えれば、大抵の駅は活気で満ち溢れている。七戸十和田駅は一日平均で625人が利用し、新幹線駅としてはかなり少ない方ではあるものの、それでもいわて沼宮内駅の約9倍は利用されていることになる。

この駅には南北に広く駐車場が整備されており、十和田市や上北地区、下北地区からのマイカー利用を狙っている。そういう意味で、七戸「十和田」駅なのだ。昔は駐車場が無料だった時期もあるようで、新幹線代と駐車料金をケチるために青森市から来る人もいたというのが専らの噂(chakuwikiの書き込み)である。


本郷を歩く・本郷一丁目

2000年度生れの我々ミレニアム・ベイビー世代は、大学生活をCovid-19に破壊された世代である。

といっても、一年生の頃は普通だった分、下の世代よりはわずかにマシではある。年齢が西暦下2桁に一致して便利だとか、この世代は悪いことばかりじゃない。

しかしながら、本郷キャンパスに進学したのはコロナの後だったから、キャンパスに足を運ぶ機会は自ずと少なくなった。いや、「自ずと」というのは嘘で、交通費節約と朝の睡眠確保のために意図的ににオンラインで受講できる授業を選びまくっていた筆者の怠惰のせいだった。ゴロゴロしながら単位を取りたい一心で訳のわからない農業経済学みたいな授業も受けたが、いつか役に立つだろうか。

 

ともかく、本郷に足を運ぶ機会が少ないまま東大での四年間が終わろうとしている。これはよくない。本郷をしゃぶり尽くさねば!将来東大トークをする時に困るし!こういったモチベーションで、運動も兼ねて本郷界隈を散歩することとした。

 

本郷とは、地図上では次の区域を指す。

 


一丁目から七丁目まであり、東大は七丁目で、北東の隅にある。

ちなみに基本的なことだが、丁目の番号は皇居に近い順に振られている。

 

七丁目まであるなら、一丁目から順番に回るべし。こういうわけで、今回から番外編を合わせて8回、『本郷を歩く』を連載する。筆者の感受性に従った「本郷おもしろスポット」を紹介していく。

 


本郷を歩く・本郷一丁目

 

二限のゼミを終え、もうやることは何もないので本郷散歩に赴くこととした。春日通りを西に向かい、本郷一丁目の方に歩く。春日通りは徳川家光の乳母・春日局に由来し、本郷地域を1〜3丁目の南側と4〜7丁目の北側に分断する。

このあたりの地下には都営大江戸線が通っている。池袋に住むとメトロが三路線もあって便利なので、あまり都営地下鉄を使う機会がない。


1丁目の北東端の方にかわいいビルがある。小さめで、屋上に広告をつけてまるで秘密基地のよう。欲しい。

その1階に「ユニーク社」なる会社がある。マップで見た時はうさんくせえベンチャー企業かと思ったが、行ってみると個人経営の電器屋さんだった。こうなると、一気にイメージが改善する。気のいい変わり者のおっちゃんが経営しているのだろう。

 

春日通りはすぐに白山通りにぶつかる。白山通りまでが本郷地域であり、その向こうはかつての後楽園球場、現在の東京ドームがある後楽地域である。

別にただの街歩きだから厳密にどこまでが本郷!とかやる必要はないのだが、境界線が好きなのと、拘りが強いので、こんなことになっている。一般的に「東大生っぽい」と言われる気質を筆者に探すならばこの辺ではないか。知らんけど。

 

白山通りを南下する。ここで丸の内線の高架をくぐる。丸の内線は地下鉄でありながら高架線も持つ、おもろ路線である。これはもちろん、東京に「谷」が多いことに由来する。渋谷、世田谷、日比谷とか。千駄ヶ谷、鶯谷、雑司ヶ谷、そして茗荷谷とか。

丸の内線茗荷谷駅はお茶の水大学の最寄駅であり、ちなみに筆者は木内昇の「茗荷谷の猫」という短編小説集が好きである。

ともかく、丸の内線は「谷」の区間は地上を走る。茗荷谷駅の隣の後楽園駅はまだ地上駅、そして本郷三丁目駅は地下駅。この事実から分かるように、本郷地域は高台になっているのだった。

高架の奥には東京ドームシティがある。興味ない。

 

高架をくぐると、ちょうど丸の内線の電車が通るところだったので逆から撮った。その奥に見えるのは柔道の聖地・講道館。沢木耕太郎「深夜特急」で読み齧った知識によれば、「姿三四郎」という映画の主人公が講道館に所属しており、その映画がタイで人気とのこと。外国で流行る日本の作品といえば、筆者はトルコに行った時、本当に道端の兄ちゃんが「おしん」を知っていて感動した覚えがある。

 

話とともに歩みも脇道に逸れていた。奥に大都会のエアポケットとして鎮座するのは「出世稲荷神社」。件の春日局はもともと明智光秀配下の斎藤氏の娘で、山崎の戦いののちには敗軍の娘となったが、結果的に将軍の乳母に上り詰めたということで、出世神社。

筆者は時代に合わず出世欲が強いので是非とも拝みたかったが、カップルが境内でイチャついていたので遠慮した。境内で何してんだ!

 

白山通りに戻る。遠くにはWINS後楽園の文字が輝いている。たまに期限が切れそうな馬券を払い戻しに行く。場所が分からなくても、爺さんの後ろに着いていけば大体辿り着ける。

 

都営三田線の水道橋駅。そういえば、白山通りの下には都営三田線が通っている。本郷一丁目は北の境界は大江戸線、西は三田線、南は中央線が通っている面白い地区である。

三田線の三田は慶應の三田であろうか。三田、慶應のくせにダッセー名前だ。田舎の小字みたい。ちゃんと住所に「字三田」って書けよ、ギャハハ。

不必要な慶應煽りをしてしまったが、実は三田は田舎の小字みたいな地名ではなく、大化改新以前の「屯田(みた)」に由来する歴史ある地名。それはそれでケッ!って感じだが。

水道橋といえば、水道橋博士。たまにどっちか分からなくなる。国会議員になったのが水道橋博士で、アトムを作ったのがお茶の水博士か。

調べたところ、水道橋博士は風貌が博士っぽく、お茶の水にキャンパスがある明治大に通っていたが、「ひとつ手前でいいや」とのたけしの判断からその名前になったそう。

 

その水道橋がこれである。古代ローマ人は上京したての頃についつい「水道橋駅」を「すいどうきょうえき」と読んでしまい、恥をかくというのがもっぱらの噂(要出典)。

厳密にはこの橋は二代目で、初代はもう少し下流にあったそう。そりゃそうだ、今の橋は水道じゃなくて人が歩いてるもんね。

 

そしてこれが神田川。本郷の最南部で、川の向こうは神田神保町。神田川と電車の風景は、東京にちょっと住んだことがあればお馴染みのものだろう。

 

ちょっと一丁目の路地裏を探検する。これは金刀比羅宮。総本宮はもちろん讃岐国にあり、これは東京分社である。金毘羅さんは航海の神様で、瀬戸内海航海の守り神だったに違いない。近年では各所でのコンプライアンス意識の高まりに伴い「コンプラさん」としても放送関係者を中心に信仰を集めている(要出典)。

 

その隣にはひっそりと稲荷神社があった。稲荷神社の赤い鳥居、僕は好きだよ。そう言ってあげたくなる可愛さである。愛おしい。

 

坂を登る。東京は谷の町であり、ということは坂の町でもある。忠也坂という。丸橋忠也という人物が慶安四年に幕府の転覆を企てた慶安事件で捕まったが、その捕縛場所に近いということでこの名前になったという。忠義に厚そうな名前のくせに、とんだ悪党だ。

筆者からはこんなゴミみたいな感想しか出てこないが、司馬遼太郎もこの人物を「本郷界隈」で少しだけ描いている。少しだけなので、筆者と司馬先生のどちらが巧いかは分からない。

 

忠也坂を登ると、やたらと女子学生が多い。桜蔭高校があるからだ。本当は正門の写真を撮りたかったが、不審者として逮捕・検挙・起訴・投獄されそうだったのでやめた。

桜蔭高校はいわゆる「女子御三家」である。桜蔭、女子学院、あと一つはどこでしょう? 正解は雙葉。ちなみに「雙」は「双」の元々の字である。

とりあえずここに娘を行かせておけば東大に入れてくれるということだ。しかし、中学入試しかない。東京で育つのはなかなか大変である。

桜蔭高校。日本最難関の女子校にして、渋谷の「松蔭高校」と間違えられることがあることでお馴染み。「このハゲー!」の一発ギャグで一世を風靡したお笑い芸人・豊田真由子の出身校でもある。お茶の水女子大学のOGによって創立され、教員もお茶の水で固めている。そんな高校。ちなみに、高校敷地の隣にプール覗き放題の高層マンションが建つとかで大揉めしているらしい。

 

桜蔭高校からの下り坂、左手には元町公園のコンクリがあり、穴があった跡がある。これが防空壕であると、グーグルマップはいう。本当だろうか。防空壕に入ったことがないのでよく分からない。

 

神田川に沿う外堀通りが、本郷地域の南のメインルートである。自転車が颯爽と走っていく。気付けば秋である。葉が赤い。もしかして、秋って散歩にうってつけ?

「最近は秋が全然ない」とか言うけど、全然あるじゃないか。危うくTwitterのオタクに騙されるところだった。やっぱり自分の目で街を見ないとダメだ。Twitterを捨てよ、街に出よう、である。

 

近くに都立工芸高校がある。工芸高校の名に恥じず、アートクラフト科・インテリア科・デザイン科・マシンクラフト科・グラフィックアーツ科などが用意され、しかも定時制もある。

都会と地方の差ってこういうところだよなあ、と思う。以前に何かの記事で、釧路に育った東大生が高校生の頃、「大学とは高校を卒業した人が行く場所だ」ということを知らなかったと言っていた。ハカセがいるところ、程度の認識だったそう。

流石にそんなことはないけど、でも地方の人生の幅はずっと狭い。想像もつかないような生き方が東京ではできる。学校の先生をやりながら博士課程に通うなんて、全く想像もできなかった。

ま、色んな生き方があることが必ずしも善ではないことは、地方代表として言っておく必要があるだろうが。

 

工芸高校を見ながら東京への恨み節を述べたところで、元町公園に寄る、予定だったが、閉鎖されていた。そんなあ。まあ別にこの場所に用はない。この場所に寄ろうと思ったのは、ここが本郷一丁目一番の土地だから、というだけである。政治家の人がよく言う「一丁目一番地」である。それだけ。

 

一旦二丁目の方に入り、壱岐坂を通って一丁目の領地まで戻ってきた。一丁目の中心を貫く壱岐坂は、由来がはっきりしない。江戸時代においても見解が分かれていた。何某かの「壱岐守」が住んでいたことは確かだろう。はっきり分かっていることは、今のこの壱岐坂は江戸時代の壱岐坂とは異なるということだ。

 

あえていえば「新壱岐坂」であろう。旧壱岐坂は、新壱岐坂に分断されている。上の写真が白山通り側、下の写真が本郷通り側である。あ〜、壱岐島に行きてえなあ。

 

旧壱岐坂の隣にあるのは東洋学園大学である。東洋大学ならギリギリ知ってるけど、東洋学園大学は分からない。不明な大学があれば、まずは偏差値を調べるのが筆者の性である。情けない。37.5。検温で弾かれそう。

 

北進すると、ビルのテナントに気になる文字が。「解放出版社」。当然、部落解放運動に関連する。何か言おうと思ったが、怖いのでやめておく。

浦和競馬に行ってきた【後編】

 前編からの続き

 

一応、競馬場の全場制覇は「開催中」に訪れることを(個人的に)要件としているので、前編ではアリバイのために開催中の浦和を訪れた。しかしながら、本番は非開催時にある。後編が本編である。

 

前編から二日後、彼女を「良い散歩コースがある」と言って浦和競馬場に引っ張ってきた。今度は南浦和で降りた。浦和までもう一駅行くと運賃が80円ほど跳ね上がるからだ。

 

非開催中でもバスは走る。この日はWINSとしての営業を行なっていたことでバスが走っていた。平日は大抵南関競馬の場外がやっているのだから、ほとんど毎日走っているのではないか。

 

競馬場に着きひとまずスタンドに出てみると、大きなビジョンにJRAの中継が映され、浦和の寡黙なファンたちが馬券検討に勤しんでいた。

しかし、今回の本質はスタンドではない。ビジョンがある内馬場に用がある。

 

浦和競馬場の施設は、非開催日、つまり一ヶ月のうち25日間ほどは開放され、自由に通り抜けることができる。自由に通り抜けるとはどういうことかというと、コースを歩いて渡ることができるということだ。歩道は2本あり、入り口は全部で4ヶ所ある。

 

まず南浦和駅に近い1角付近から入る。歩く場所にはマットが敷いてあって、深いダートに足を取られないようになっている。歩いて入れるのはこのコースを横断する箇所だけで、コースを周回することは残念ながらできない。とはいえ、ちょっとマットを踏み外すくらいは問題ないだろう。この日はおそらく良馬場で、当然ながら砂場を踏むような感覚であった。

 

コースは幅24m。参考までに、東京競馬場の芝コースは41m、大井競馬場は25mである。コースを横から見る景色は斬新で爽快である。騎手はこういう風にスタンドを見ているのか……と感慨に耽りかけたが、今立っているのは1コーナーなので、騎手はあまりこっち向きには走らないはずである。感慨は向正面にとっておくこととする。

 

ゴール板を横から見ると、案外分厚い。馬は競馬を理解しているのか?ということは誰しも思うことだが、回答としては、理解しているらしい。また、ゴール板を先頭で駆け抜けることが良いということも理解しているようだ。こんなに分厚いなら、走っていても馬の眼にも写るだろう。

 

内馬場は公園になっており、この日は少年野球のチームが紅白戦をしていた。そのグランドの横に、用水路のような川が流れている。藤右衛門川という。一級河川である。周回コースも川に橋をかけたようになっている。

 

地形図で見れば一目瞭然、浦和競馬場は藤右衛門川の河川敷を利用したものとなっている。川は面白い。区画整備された街に生まれた筆者にとって、川は「なぜかそこにあるもの」であった。子供の頃は、洪水のニュースを聞くたびに「川をなくせば良いのに」と思ったものだ。

あるとき、川の水は雨水であり、雨水が標高の低いところを選んで海に流れているということに気付いた。川の本質は水ではなく、低い土地なのだ、と。

そういうわけで、浦和競馬場と藤右衛門川も長い付き合いである。

 

2角、向正面に出た。これこそ、騎手が見ている景色である。尤も、もう少し高い目線だろうが。

浦和競馬場は小さい。ゆえに向正面の幅は僅かに16.5メートル、フルゲートは最大12頭となっている。こういう条件が、他の南関競馬と比べた浦和競馬の弱点である。


案外、一般の人の通行が多い。となると、周辺住民は浦和競馬をそこそこ嫌っているに違いない。悪臭はするし、「普段使っている」歩道がたまに競馬開催で通れなくなるからだ。


続いて3角。浦和は直線が短いため、ここら辺の位置どりが非常に重要になる。重要すぎて、騎手が殉職する落馬事故も起こっている。

さらに、奥のポケットの部分が悪名高い1600mのスタート地点である。コーナーの途中からスタートするわけで、直線部分がほとんどない。そのため距離ロスが非常に激しく、顕著な内枠有利のコースとなっている。中央騎手が「日本一難しい」と評するスタート地点だと、浦和競馬場の公式ホームページにはある。

 

最後に第4コーナーからスタンドを眺める。馬場内には中央競馬でも開催最終日に入れたりするが、やはり皆入りたいので非常に混んでいる。それに比べて、浦和競馬場では入れる日の方が入れない日より圧倒的に多い。

 

スタンドと逆側には1500mのスタート地点がある。南関三歳牝馬クラシックの初戦・桜花賞は以前は浦和1600mで行われてきたが、先述の通り浦和のマイルは問題が多いため、最近では1500mで施行するようになっている。1600m戦はもうほとんど行われていない。

 

競馬場の北側には藤右衛門川通りという道があり、この地下には川が通っている、いわゆる暗渠である。川は密かに街を流れている。

 

以上、浦和競馬場探検でした。

おまけ:地図



浦和競馬に行ってきた【前編】

全場制覇チャレンジ22.10.20

【中央】札幌/函館/福島/新潟/東京/中山/中京/京都/阪神/小倉(7/10)

【地方】帯広/門別/盛岡/水沢/浦和←NEW!/船橋/大井/川崎/金沢/笠松/名古屋/園田/姫路/高知/佐賀(5/15)

 

筆者は池袋周辺に下宿しているが、競馬場はこの辺からは遠い。東京競馬場は新宿から京王線で向かうから直線距離よりもかなり遠くなるし、中山や大井は山手線の反対側だから遠い。

よって、一番近いのは浦和競馬場である。池袋からJRで30分もあれば着くし、運賃も南浦和までは220円で済む。

しかし案外、これまで一度も行ったことはなかった。

 

浦和競馬場は住宅街の中に立地している。正確には浦和競馬場の周辺に住宅が乱立しているのだが、ともかくそれゆえに狭いし、規模も小さいし、何よりナイター設備がないから行ける時間が限られる。

規模が小さいから、Jpn1競走も常設のものはない。それゆえに、これまで脚が遠ざかっていたのだった。

 

しかしながら、まあ卒論も終わりが見えてきたし、友人も行くというし、今村聖奈が来ているということで、行くこととした。

 

池袋駅から電車で25分ほどで南浦和駅に着く、べきであったが、最寄り駅が南浦和とは知らずに浦和駅に降りてしまった。

南浦和からはバスが出ているらしいが、浦和からはない。まあ初めて行くし、浦和もそんなに歩いたことはない。競馬場まで歩くこととした。

 

浦和は綺麗な街である。天気も良いし、最高の散歩である。駅の近くは綺麗に区画整理されているが、競馬場が近づくにつれ段々と区画が乱雑になったのが面白い。競馬場正門に着くと、バスがたくさん準備していた。南浦和駅との間を結んでいるようだが、こんなにバスと運転手を手配して儲かるのだろうか。

 

浦和競馬場はコースだけでなく施設もこじんまりとして、何より静かであった。住宅街ということで実況の音声も非常に小さく、それゆえに観客も静かなのだった。



地方競馬場の良いところは馬との距離が近いところである。期待のルーキー今村騎手を目当てに人々がパドックに群がる中、筆者はスマートにパドックから返し馬に入る地点に陣取っていた。今村騎手頑張れ!と言いつつ、今村騎手以外の人気馬を買い、当てた。


真っ黄色の騎手がいた。川崎所属の町田騎手である。川崎では他に山崎騎手と酒井騎手がそれぞれ赤と青の一色の勝負服を用いている。流行ってるのだろうか。一色の勝負服はヨーロッパでは高貴とされていて、ゴドルフィンの青一色は有名だろう。といっても、日本では青一色は先約があって使えていないが。

 

この日のメイン11レースはJRA交流のけやき賞。筆者はなんとなく7番人気の永野猛蔵・ボルカンバルの複勝を100円購入。すると、なんと大外から差し切って1着になってしまった。筆者は嬉しすぎて絶叫でカメラの画角もおかしくなってしまった。応援している馬が後ろから飛んでくるという光景が久しぶりなのだった。

100円が330円になるだけでこのように騒げるのだから、燃費が良い。しかしながら、同行した筆者の友人は人気馬の単勝を握っていたので、非常に気まずい時間ともなった。

 

レース後、ファンが帰るなり最終レースのパドックを見ている裏で、ひっそりと口取り式が行われていた。社台の地方共有馬だろうが、平日の昼間に来れる人もいないので結構寂しいものであった。筆者は永野猛蔵騎手のことが(名前が硬派だから)好きで、「猛蔵おめでとう!」と叫ぼうかと思ったが、それも恥ずかしいのでやめた。しかしながら、本人も嬉しかっただろうし、叫べば良かったと後から後悔した。アンちゃんがあんな閉鎖的な社会で生き抜いていくのはなかなか大変そうである。

 

12レースは『秋の空特別』で、その名に違わぬ見事な秋の空だった。レースは以前に船橋競馬を見に行った際に大穴を開けたドラムが差して同着1着。応援していたので嬉しかった。

 

これは南浦和駅。乗り換え先がことごとく競馬場の所在地なのは何か意図があるのだろうか。

 

同行の友人と池袋でジンギスカンを食べた。うめえ

 

とまぁ、これだけだとクソつまらん記事にしかならないので、後日もう一度行ってきた。しかも非開催日に。浦和競馬場は非開催日に行くのが面白いのだ。乞うご期待。