2022年11月9日水曜日

本郷を歩く・本郷一丁目

2000年度生れの我々ミレニアム・ベイビー世代は、大学生活をCovid-19に破壊された世代である。

といっても、一年生の頃は普通だった分、下の世代よりはわずかにマシではある。年齢が西暦下2桁に一致して便利だとか、この世代は悪いことばかりじゃない。

しかしながら、本郷キャンパスに進学したのはコロナの後だったから、キャンパスに足を運ぶ機会は自ずと少なくなった。いや、「自ずと」というのは嘘で、交通費節約と朝の睡眠確保のために意図的ににオンラインで受講できる授業を選びまくっていた筆者の怠惰のせいだった。ゴロゴロしながら単位を取りたい一心で訳のわからない農業経済学みたいな授業も受けたが、いつか役に立つだろうか。

 

ともかく、本郷に足を運ぶ機会が少ないまま東大での四年間が終わろうとしている。これはよくない。本郷をしゃぶり尽くさねば!将来東大トークをする時に困るし!こういったモチベーションで、運動も兼ねて本郷界隈を散歩することとした。

 

本郷とは、地図上では次の区域を指す。

 


一丁目から七丁目まであり、東大は七丁目で、北東の隅にある。

ちなみに基本的なことだが、丁目の番号は皇居に近い順に振られている。

 

七丁目まであるなら、一丁目から順番に回るべし。こういうわけで、今回から番外編を合わせて8回、『本郷を歩く』を連載する。筆者の感受性に従った「本郷おもしろスポット」を紹介していく。

 


本郷を歩く・本郷一丁目

 

二限のゼミを終え、もうやることは何もないので本郷散歩に赴くこととした。春日通りを西に向かい、本郷一丁目の方に歩く。春日通りは徳川家光の乳母・春日局に由来し、本郷地域を1〜3丁目の南側と4〜7丁目の北側に分断する。

このあたりの地下には都営大江戸線が通っている。池袋に住むとメトロが三路線もあって便利なので、あまり都営地下鉄を使う機会がない。


1丁目の北東端の方にかわいいビルがある。小さめで、屋上に広告をつけてまるで秘密基地のよう。欲しい。

その1階に「ユニーク社」なる会社がある。マップで見た時はうさんくせえベンチャー企業かと思ったが、行ってみると個人経営の電器屋さんだった。こうなると、一気にイメージが改善する。気のいい変わり者のおっちゃんが経営しているのだろう。

 

春日通りはすぐに白山通りにぶつかる。白山通りまでが本郷地域であり、その向こうはかつての後楽園球場、現在の東京ドームがある後楽地域である。

別にただの街歩きだから厳密にどこまでが本郷!とかやる必要はないのだが、境界線が好きなのと、拘りが強いので、こんなことになっている。一般的に「東大生っぽい」と言われる気質を筆者に探すならばこの辺ではないか。知らんけど。

 

白山通りを南下する。ここで丸の内線の高架をくぐる。丸の内線は地下鉄でありながら高架線も持つ、おもろ路線である。これはもちろん、東京に「谷」が多いことに由来する。渋谷、世田谷、日比谷とか。千駄ヶ谷、鶯谷、雑司ヶ谷、そして茗荷谷とか。

丸の内線茗荷谷駅はお茶の水大学の最寄駅であり、ちなみに筆者は木内昇の「茗荷谷の猫」という短編小説集が好きである。

ともかく、丸の内線は「谷」の区間は地上を走る。茗荷谷駅の隣の後楽園駅はまだ地上駅、そして本郷三丁目駅は地下駅。この事実から分かるように、本郷地域は高台になっているのだった。

高架の奥には東京ドームシティがある。興味ない。

 

高架をくぐると、ちょうど丸の内線の電車が通るところだったので逆から撮った。その奥に見えるのは柔道の聖地・講道館。沢木耕太郎「深夜特急」で読み齧った知識によれば、「姿三四郎」という映画の主人公が講道館に所属しており、その映画がタイで人気とのこと。外国で流行る日本の作品といえば、筆者はトルコに行った時、本当に道端の兄ちゃんが「おしん」を知っていて感動した覚えがある。

 

話とともに歩みも脇道に逸れていた。奥に大都会のエアポケットとして鎮座するのは「出世稲荷神社」。件の春日局はもともと明智光秀配下の斎藤氏の娘で、山崎の戦いののちには敗軍の娘となったが、結果的に将軍の乳母に上り詰めたということで、出世神社。

筆者は時代に合わず出世欲が強いので是非とも拝みたかったが、カップルが境内でイチャついていたので遠慮した。境内で何してんだ!

 

白山通りに戻る。遠くにはWINS後楽園の文字が輝いている。たまに期限が切れそうな馬券を払い戻しに行く。場所が分からなくても、爺さんの後ろに着いていけば大体辿り着ける。

 

都営三田線の水道橋駅。そういえば、白山通りの下には都営三田線が通っている。本郷一丁目は北の境界は大江戸線、西は三田線、南は中央線が通っている面白い地区である。

三田線の三田は慶應の三田であろうか。三田、慶應のくせにダッセー名前だ。田舎の小字みたい。ちゃんと住所に「字三田」って書けよ、ギャハハ。

不必要な慶應煽りをしてしまったが、実は三田は田舎の小字みたいな地名ではなく、大化改新以前の「屯田(みた)」に由来する歴史ある地名。それはそれでケッ!って感じだが。

水道橋といえば、水道橋博士。たまにどっちか分からなくなる。国会議員になったのが水道橋博士で、アトムを作ったのがお茶の水博士か。

調べたところ、水道橋博士は風貌が博士っぽく、お茶の水にキャンパスがある明治大に通っていたが、「ひとつ手前でいいや」とのたけしの判断からその名前になったそう。

 

その水道橋がこれである。古代ローマ人は上京したての頃についつい「水道橋駅」を「すいどうきょうえき」と読んでしまい、恥をかくというのがもっぱらの噂(要出典)。

厳密にはこの橋は二代目で、初代はもう少し下流にあったそう。そりゃそうだ、今の橋は水道じゃなくて人が歩いてるもんね。

 

そしてこれが神田川。本郷の最南部で、川の向こうは神田神保町。神田川と電車の風景は、東京にちょっと住んだことがあればお馴染みのものだろう。

 

ちょっと一丁目の路地裏を探検する。これは金刀比羅宮。総本宮はもちろん讃岐国にあり、これは東京分社である。金毘羅さんは航海の神様で、瀬戸内海航海の守り神だったに違いない。近年では各所でのコンプライアンス意識の高まりに伴い「コンプラさん」としても放送関係者を中心に信仰を集めている(要出典)。

 

その隣にはひっそりと稲荷神社があった。稲荷神社の赤い鳥居、僕は好きだよ。そう言ってあげたくなる可愛さである。愛おしい。

 

坂を登る。東京は谷の町であり、ということは坂の町でもある。忠也坂という。丸橋忠也という人物が慶安四年に幕府の転覆を企てた慶安事件で捕まったが、その捕縛場所に近いということでこの名前になったという。忠義に厚そうな名前のくせに、とんだ悪党だ。

筆者からはこんなゴミみたいな感想しか出てこないが、司馬遼太郎もこの人物を「本郷界隈」で少しだけ描いている。少しだけなので、筆者と司馬先生のどちらが巧いかは分からない。

 

忠也坂を登ると、やたらと女子学生が多い。桜蔭高校があるからだ。本当は正門の写真を撮りたかったが、不審者として逮捕・検挙・起訴・投獄されそうだったのでやめた。

桜蔭高校はいわゆる「女子御三家」である。桜蔭、女子学院、あと一つはどこでしょう? 正解は雙葉。ちなみに「雙」は「双」の元々の字である。

とりあえずここに娘を行かせておけば東大に入れてくれるということだ。しかし、中学入試しかない。東京で育つのはなかなか大変である。

桜蔭高校。日本最難関の女子校にして、渋谷の「松蔭高校」と間違えられることがあることでお馴染み。「このハゲー!」の一発ギャグで一世を風靡したお笑い芸人・豊田真由子の出身校でもある。お茶の水女子大学のOGによって創立され、教員もお茶の水で固めている。そんな高校。ちなみに、高校敷地の隣にプール覗き放題の高層マンションが建つとかで大揉めしているらしい。

 

桜蔭高校からの下り坂、左手には元町公園のコンクリがあり、穴があった跡がある。これが防空壕であると、グーグルマップはいう。本当だろうか。防空壕に入ったことがないのでよく分からない。

 

神田川に沿う外堀通りが、本郷地域の南のメインルートである。自転車が颯爽と走っていく。気付けば秋である。葉が赤い。もしかして、秋って散歩にうってつけ?

「最近は秋が全然ない」とか言うけど、全然あるじゃないか。危うくTwitterのオタクに騙されるところだった。やっぱり自分の目で街を見ないとダメだ。Twitterを捨てよ、街に出よう、である。

 

近くに都立工芸高校がある。工芸高校の名に恥じず、アートクラフト科・インテリア科・デザイン科・マシンクラフト科・グラフィックアーツ科などが用意され、しかも定時制もある。

都会と地方の差ってこういうところだよなあ、と思う。以前に何かの記事で、釧路に育った東大生が高校生の頃、「大学とは高校を卒業した人が行く場所だ」ということを知らなかったと言っていた。ハカセがいるところ、程度の認識だったそう。

流石にそんなことはないけど、でも地方の人生の幅はずっと狭い。想像もつかないような生き方が東京ではできる。学校の先生をやりながら博士課程に通うなんて、全く想像もできなかった。

ま、色んな生き方があることが必ずしも善ではないことは、地方代表として言っておく必要があるだろうが。

 

工芸高校を見ながら東京への恨み節を述べたところで、元町公園に寄る、予定だったが、閉鎖されていた。そんなあ。まあ別にこの場所に用はない。この場所に寄ろうと思ったのは、ここが本郷一丁目一番の土地だから、というだけである。政治家の人がよく言う「一丁目一番地」である。それだけ。

 

一旦二丁目の方に入り、壱岐坂を通って一丁目の領地まで戻ってきた。一丁目の中心を貫く壱岐坂は、由来がはっきりしない。江戸時代においても見解が分かれていた。何某かの「壱岐守」が住んでいたことは確かだろう。はっきり分かっていることは、今のこの壱岐坂は江戸時代の壱岐坂とは異なるということだ。

 

あえていえば「新壱岐坂」であろう。旧壱岐坂は、新壱岐坂に分断されている。上の写真が白山通り側、下の写真が本郷通り側である。あ〜、壱岐島に行きてえなあ。

 

旧壱岐坂の隣にあるのは東洋学園大学である。東洋大学ならギリギリ知ってるけど、東洋学園大学は分からない。不明な大学があれば、まずは偏差値を調べるのが筆者の性である。情けない。37.5。検温で弾かれそう。

 

北進すると、ビルのテナントに気になる文字が。「解放出版社」。当然、部落解放運動に関連する。何か言おうと思ったが、怖いのでやめておく。

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