豊清水駅(宗谷本線)

2017/12/29


宗谷本線の旅を計画する時は、天塩川温泉での一泊を目安に二日間で縦断する日程を計画することが多かった。本当は音威子府が丁度良いのだがあいにく泊まるところがありそうにないし、名寄では南過ぎる。そういうわけで宗谷本線1日目は天塩川温泉に泊まり、2日目の朝一番の列車で一旦南に下り、豊清水駅に降りた。
勿論僕がその日最初の客で、昨夜から降り積もった新雪を踏みしめた。周りを見渡して受けた印象は、山間の峠の駅、という感じだった。雪原の中に駅だけがぽつんと存在するケースは北海道に多々あるが、見通しが悪いパターンは少ない。旅の中で慣れた孤独感とはまた一味違う、世界との隔絶を感じた。
保線の方が二人ほど駅舎の詰所に居た。そういえば、釧路本線の新得駅で保線員が少ない人数で必死に雪かきをする姿を思い出す。今まで僕は北海道の冬が厳しいという事実やラッセル車が走ることまで知っていたが、それでも、雪が鉄路を阻むという単純な事実を意識してこなかったことに気付く。雪が鉄路を阻むなら除雪が必要で、除雪には保線員なりラッセル車なりで費用がかさむ。JR北海道の苦境の一端を実感として気付いた瞬間だった。
やや遅れてやってきた単行に乗り、さらに南に下った。



東六線駅(宗谷本線)

2017/12/27



網走地方の北浜駅で、茫漠そのもののオホーツク海を見ていた。荒涼とした大地を走る列車を見た時、もうこのくらいでいいかな、と思った。
次に降りるはずだった鱒浦駅を飛ばし、一気に旭川まで入ることにした。北見峠を越える列車は朝を逃すと次は夕方で、今判断するしかなかった。特別快速「きたみ」に乗り込み運行情報を確認すると、夕方の普通列車は荒天のため運休になっていた。まさに綱渡りの旅といったところか。
廃止で失われてしまった所謂「白滝シリーズ」を通過し、昼頃に石北本線を制覇して旭川に着いた。一息付く間も無く宗谷南線に乗り換える。列車は意外と混んでおり、宗谷南線の安泰を感じつつ前面展望が見える場所に立った。
予定を急遽変更したため、宿をとった旭川に19時頃には帰り着けるような駅を探した結果、東六線駅が手頃だということとなった。旭川からある程度近く、何と言っても名前が良い。これは開拓の歴史がある北海道独特の地名で、バス停にはこの種の名前は多くあるが駅名となるとここがほぼ唯一ではなかろうか。

14時頃駅に着いた。当然ながら僕しか降りず、新雪を踏みしめる。駅舎はオンボロだが趣があり、中は暖かかった。周辺に人家は無く、遠くに集落が見えるのみ。
駅周辺の鉄路には鉄道林が卓越しており、盆地の強風の激しさが想像できる。近くの鉄道林に沿った道はかつて飯田線で歩いた道に似ており、季節は違えど感傷的な気分になった。
散策していると、急に小を催した。普通なら適当な草むらに立ちションをするところだが、如何せん積雪があり、九州育ちの人間にはどこですべきか分からない。色々考えた結果、雪を一部掘って小便器と見なすのが良かろうという考えに至った。早速実践、東六線駅は黄に染まった。
問題はここからである。図ったかのようなタイミングで、JR北の除雪隊が駅にやってきた。総勢20名は居ただろうか。即席トイレは隠してはあるが、掘り起こされてしまったら困る!僕は慌てて近くの集落の方まで逃げ出した。

愚行のうちに日は沈んだ。いくらかの通過列車の写真を撮っていると、雪が降り出した。駅舎に避難して暖を取りながら闇夜を舞う雪を見て、北海道を旅しているなぁ、と思った。

天塩川温泉駅(宗谷本線)

天塩川温泉探訪記
2019.12.28


高校2年の頃、年末の北海道を一人で旅した際にここを訪れた。ここに来る前は、北星駅で身も心も雪に閉じ込められそうになり、慌てて列車に乗り込んだ思い出がある。

雪が舞う夜だった。列車は遅れを取り戻そうと、僕が降りた瞬間にドアを閉め発車する。僕は夜独特の旅情を楽しみ、宿に行こうと駅を出た刹那、魅せられることになった。

踏切付属のオレンジ色のライトが闇の世界を切り取り、雪が降りしきる様子が可視化された。しんしんと雪が降る様はまるで無言のオーケストラのようで、遮断桿はさながら指揮棒か。
雪が降っていても、僕は構わず夢中でシャッターを切り続けた。
当時の僕には、その光景が何か、生の意味を知る手掛かりのように思えた。

天塩川温泉では、名の通り天高く雪が降る様を見ながら露天風呂を楽しんだ。最も良い温泉だ。



南幌延駅(宗谷本線)


2017.12.29



僕の青春のハイライト、北海道一周旅行。その終盤、宗谷本線の旅の中で南幌延駅を訪れた。安牛駅に降りた後、途中で特急列車を撮影しつつ南幌延まで歩いてきた。歩いた理由はごく単純、列車が無くて、歩けるくらいには近いからであった。
歩いてきた道には雪除けのシェルタがいくつも連なり、その壁の向こうにもこちらにも何もない世界が広がっていた。ただ貧相な鉄路があり、駅があり、僕がいるだけの世界。白い世界。そうした非日常の世界(重要なのは、その世界は誰かの日常である点だ)に身を委ね、自分を落とし込むために僕は旅をしている、と嬉しくなった。

南幌延駅周辺の散策も済ませたが、全然時間がある。駅ノートを読み、書いていよいよ万策尽きた。満を辞して、ホームやその周りで、初めての雪掻きをしてみた。ホームは誰かが事前にやってくれていたらしく比較的綺麗だったが、それでもなかなかの重労働で、仕事を終える頃には幾分疲れた。

そうしているうちに暗くなった。周囲は深い群青に染まり、踏切の灯りに雪が舞う光景のみが見える。先ほどの茫漠とした世界が一気に縮んでしまい、灯りの届く範囲だけが世界の全てのように感じられた。

もう一駅、上幌延駅に歩こうとするも、道は暗くて怖い。それは霊的な怖さでなく、後ろからやってくる車に自分が気付かれず跳ね飛ばされるやもしれぬという物理的な恐怖だった。

それでも仕方ないので歩いていたら、車が隣に止まる。何事かと思ったら、気の良いおじさんが車に乗せてくれるという。実は、前日も天塩川温泉駅から旅館まで雪の中歩いていたら通りすがりの車に助けてもらったのだ。そのおじさんの好意に感謝し乗せてもらい、ヒッチハイクは親指を立てるものではなく背中で示すものだなと考えながら、礼儀として今までの旅の話を披露した。それなりに喜んでもらえたと記憶しているが、どうだか。

上幌延駅で下ろしてもらったものの、なにせ極寒である。このまま一人で黙っていては死ぬと思い、最近よく話していた女友達にLINEで通話した。
結局、列車が40分遅れで到着する頃には僕の身体は凍えていたし、その女友達には学園祭の後に告白してフラれた。


 




下灘駅(予讃線)

下灘駅探訪記
2017.03.31



下灘駅に初めて訪れた時は、父と二人だった。テレビで見た駅に行ってみようと、大分からフェリーと電車で訪れたのだ。朝4時台のフェリーから空の朝焼く様が鮮烈に見え、父は船室で休んでいたが僕は高揚しずっと甲板にいたのを覚えている。列車に揺られ降りると、青い空に青い海が目前に広がる。父に写真を撮られながら、少年の僕は何を考えたのか、今ではもう覚えていない。帰りの船でアイスを食べ、疲れて寝たことだけが確たる記憶だ。今思えば、僕の秘境駅巡礼の根源はこの旅だったかもしれない。

それからもう一度友人と来た。防災無線の動画を撮るのが趣味の変な友人。中二の頃だ。友人は駅そのものより近くの防災無線に興味があって、二人で正午の「瀬戸の花嫁」のメロディを聴いた。

だから今回で訪れるのは3回目、同じ友人との瀬戸内海一周旅の初日だった。今日は初めて晴天ではなく、雨に降られた。初めのうちは下灘駅サイドも観光客に良いカッコを見せようと晴れさせてくれたが、3回目ともなるともはや気を遣われないようだ。雨は残念ではあったが、身内になれたような気がして悪い気はしない。

駅を一通り見物すると、僕は友人と別れて近くを散策に出た。(友人は防災無線を探していた。)西に暫く歩くと鉄道沿いに集落があって、もう暫く歩くと橋の下に船とレールが敷いてある基地があった。海へ続くレールを見て千と千尋的だなと思った。これが鉄道なら、さぞ楽しかろうと考えた。

その後友人と合流し、松山に出発した。
僕の生涯に渡る旅の起点で、節目ごとに訪れてきた下灘駅。最早、僕の成長アルバムのようだ。今後も定期的に訪れ、駅と共にこれまでの僕の人生を見てみたい。
旅の中で少年は青年になり、大人になる。

Have a nice day

 観光都市の側面を持つイスタンブルを歩くと、例えばこんなことがある。
 朝方、まだ人通りも少なく施設も空いていないので、ブルーモスクのベンチで本を読んでいると、男が隣に座る。
「日本人?元気?」
マティオと名乗るその男は、僕をガイドしようと提案した。その刹那、僕は高校の恩師の忠告を思い出す。
「ブルーモスク周辺には日本人目当ての客引きが多いから気を付けろ。」
だが、異国で本を読むくらいには暇もしていたし、何より先ほどアフガニスタン人に間違われ日本人としての自信を失っていた僕に日本人?と声を掛けてくれたのが嬉しく、気を付けながらも着いていくことにした。
 広場を連れ回され、展望の良いテラスからモスクの写真を撮らせてくれ、喫茶店でチャイも奢られた。そして遂に謎の絨毯屋に連れ込まれた。
 万事休すかと思いきや、絨毯屋の兄ちゃんは日本語ペラペラで、特に購入の無理強いもしてこなかった。彼は大河ドラマ『おしん』に感動して日本に渡ったという。トルコでおしんが人気なのは承知していたが、しかし僕はおしんについて無知なので対応に困った。朝食にパンも分けてもらい、客引きのガイドも合わせて気分が良くなった僕は多少のお土産を買って店を出た。
 また別の日、公園で涼んでいると客引きが現れる。ひまわりの種のお菓子を分けてくれ、食べ方も教えてくれる。彼はデザイナーで、お土産を売っているらしいが流石にノーセンキューだ。そう伝えるとすぐに彼は引き下がり、
"Have a nice day!"
と言って去っていった。その清々しい去り際は、人がある街に親しみを感じるのには充分過ぎるほどだった。

迷子の夜明け/イスタンブル小噺

 イスタンブル新空港は成田空港のように都市から離れていて、僕が着いた朝4時頃でも高速バスが走っていた。1時間弱で市街に到着、イスタンブルの大地を踏みしめたはいいが、周囲には人影がない。東京だったら、いくらかの賑わいがあると思うが、人っ子一人いない。
 寂しい街を一人歩く。ホテルに行ってwi-fiを使おうと思うのだが、全然ホテルの場所が分からない。初めのうち、これも経験だ、自動的に街歩きができるぞガハハ、とアホを言って地図を見なかったのが祟り、もはや地図を見ても己の場所が分からない。標識はケマルパシャのおかげでローマ字表記ではあるのだが、如何せんトルコ語なので解せない。同じような道を徘徊し、モスクを見つけてはブルーモスクなどの観光地ではないのかと調べて現在地の特定を試みた。疲れた僕は、親切な通行人の”Can I help you?”を「ちょっと助けてくれない?」という真逆の意に解釈していまい”Soryy, I also have trouble.”と言って足早に去る、などをやらかしもした。
 もはや現在地の特定を諦め、昼にはバザールで賑わうだろう小径を一人で下った。そして、この状況を疲れつつ楽しむ僕を発見した。インターネットが使える日本では、もはや迷うことはない。迷ったのは何年振りだろうか。これこそ非日常、海外旅行の醍醐味ではないか。
 旅の幸先は最悪かと思われたが、むしろ最高じゃないか。東の空は紅く染まり、屋台ではパンが焼かれ始めた。



東大受験体験記

これは筆者が20192月に東京大学を受験した記録である。

個人的回想を多分に含むが、ノンフィクションであり、幾らかは受験戦略に役立つことも書いてあると思うので、そこだけでも読んでいって欲しい。

(2022.10.6 加筆訂正の後再公開)

 

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中国共産党の指導者鄧小平は人生で三度失脚したという。長征時、大躍進政策時、そして第一次天安門事件の時。

だが、彼は三度復活した。そして現代中国への道を切り拓いた。

 

2019年、2月。

ただひたむきに必死に演習を重ね東京に乗り込んだ「僕」は、しかし、三度倒れた。

だが、三度立ち上がった。時に人の助けを借りながら、僕は立ち上がった。

ありがとうを、君に。

ありがとうを、全ての人に。

 

 


試験前日の朝。これまで続けてきた始発登校・23時睡眠のおかげで生活リズムは完璧で、普通に早起きできた。高校入試の前夜は寝付けなかったものだが、今回はとにかく睡眠を希求していたのですぐに寝ることができた。大学受験は三大欲求との戦いだ、僕は概ね全ての欲に毎日敗れ続けたが……


 地方から東大を受験しに行くのは受験「旅行」だ。サブバッグには着替えや歯ブラシ、カイロ、マスクなど細々としたものを入れ、いつも使っていたリュックサックには勉強道具を詰め込んだ。何なら少しサブバッグにも参考書を詰め込む。


 詰め込んだ教材は鉄壁とまだ解いていない東大オープンの過去問、青本東大世界史25カ年や、「去年出たから出ないだろう」という考えから解いていない2018地理を一応持っていった。これら『最後の足掻き』グッズに加え、御守りとして恩師に出し続けてきた添削ノート、奇跡的に満点を取った夏の東大実戦数学の問題用紙、書き込みまくった地図帳、原研哉『白』、そして近所の神社の御守りそのものもカバンに納めた。


 意気揚々と駅まで自転車を漕ぎ、電車ではキムタツの東大リスニングのピンク色をやった。これまで30日間、毎日1問ずつ解いてこの日に完結した。自信を高めて学校に行く。


 僕の高校は各地方に受験引率の先生が付いてくれ、さながらツアー旅行のようだった。広島方面のバスの隣に我らが関東方面のバスがあり、空港まではそのバスで行った。後で聞いたところによると、広島方面の受験団はそのバスで8時間かけて広島にそのまま突っ込んだそうだ。地方生の大学受験には限界旅行が伴うリスクがある。


 JALで東京まで行く。僕は北海道まででも新幹線で行くタイプなので飛行機は滅多に乗らないのだが、それが仇となったか、着陸前から耳が急激に痛くなった。着陸後も痛みは続き、空気が入ったように音がくぐもって聞こえる。「リスニング試験の詰み」を感じ必死にネットで調べ、空気を抜こうと試みる。昼食は理系の友人と食べたが、化学の会話をされたので耳がクリアでも何も解せなかっただろう。


 母校御用達の新宿のホテルにチェックインした後、高校OBの東大生に案内され文系志望4人と共に駒場試験場へ下見に向かった。

 歩いていると代ゼミタワーが見え、次いで巨大な新宿駅に圧倒された。山手線に乗ったらしいが、今自分がどの方角に向かっているのか全くわからない。少しして渋谷駅に着き、京王井の頭線に乗り換えた。僕は、駒場が渋谷に近いということさえ知らなかったのだった。


 駒場東大前駅には駿台や河合塾の受験生応援広告が掲示されていた。ある先生は「予備校は、本当は受験生に落ちて欲しい癖に」と言っていたが、僕としては、結局落ちる人数は同じわけなんだから、予備校は善意で予備校生はもちろん全受験生の健闘を祈っている、と信じたいのだった。


 昼下がりの駒場キャンパスは閑散としていた。受かったら、二年間通うことになるキャンパス。銀杏並木も枯れ果てていたが、銀杏の金色をこの秋に見てやろう、と闘志が沸き上がった。KOMCEEや生協の建物の真新しさに驚いた。


 先輩に1日目がどうあろうと関係ないから最後まで頑張れ、と助言を頂きつつ帰途に着き、ホテルで夕食を食べた。校長や学年団の先生方に応援の言葉も頂き、一層やる気になった。寝る前に、東大では無いが同じく関東方面の某大を受験する彼女に会い、互いに励まし合い就寝。やはり、すぐ眠ってしまった……

 

 


僕が東京大学を本気で志したのは、確か高二の冬休みだった。遅い方だと思う。というのも、僕はそれまでは大して東大に興味はなく、写真への熱い思いから東京藝大の芸術学科(或いは先端芸術表現科)を志していた。とにかく東京で写真を撮りたかった。そして高二の夏に、東大のオープンキャンパスに行くと言って東京藝大のキャンパスを見に行った。だが、何かが違う……。そもそも僕は写真が好きであって、芸術は好きではないのではないか。しかし、だからと言って芸術を諦め東大に行くのは妥協、逃げではないのだろうか……。

 

 そうした青臭い葛藤を払拭するのに秋を費やし、ようやく東大志望を決意したのが冬休みだったというわけだ。成績はさして悪い方ではなかったが、なにせ藝大志望だったためにそれまで数学の授業を放擲してきたのが痛かった。特にベクトルなどは全授業で寝てしまっていたため、当然に苦手だった。そんな状況で冬休みに宿題として出された東大数学傑作選と対峙したために、正直すでに心は折れかけた。それでも、数学を自分の弱点として受け入れ、目を背けることなく春休みに対策したのは、我ながら賢明だったと思う。

 

 先輩が卒業し、学校は春休みになった。僕が始発で(といっても田舎の始発は6時過ぎだが)登校しても、勉強場所として便利な中央廊下には誰もいなかった。一人きりで7時から10時までは数学の薄い冊子を何周もやった。グランドからは野球部の練習の声が聞こえてくる。皆、まだ勉強より大切なものがあるのだろう。得したような、それでいて羨ましいような気がする。10時から1時間程度英語か地歴で息抜きして、11時になったら昼食休憩。陽気な日差しを浴びながら学校前のスーパーでカップ麺を食べることもあれば、数少ない登校してきた友人(もちろん「数少ない」は「友人」には係らない)と、丘を下った所にある回転寿司やラーメン屋に行くこともあった。春爛漫、桜が景気良く咲いていた。一年後、桜の下で僕は笑っているだろうか、なんて考える。そこで日をたっぷり浴びると勉強がどうでもよく感じて、しばらく追加で休憩。午後はぼちぼち理科基礎の課題をやったり読書感想文の本を読んだりし、4時頃学校が閉まるので駅前の図書館に移動し、怠惰な昼下がりを取り返すべくガッツリ4時間勉強する……。そんな日々を二週間繰り返した。長い昼食休憩はともかく、ここで僕の基礎力は一気に伸びた。春にダレていたら、以降太刀打ちできなかっただろう。

 

 そのようにして春から約一年間、僕は必死に駆け抜けてきた。いや、その言い方は適切ではない。駆け抜けてきたように見え、実際にはただ追いつかれないように逃げてきただけだ。追いかけて来るのはもちろん見えない敵……都会の超進学校の連中でもあった。だが実際のところ追ってきたのは『理想的に勉強を続けている僕』だった。理想に現実が勝てる筈はないが、理想的に勉強しないと到底超進学校連中には適わない。だから僕はそうした理想の自分に打ち勝つため、闇に紛れて開門前の高校の中央廊下で朝六時半から勉強し続けた。わけのわからない東大数学の添削に必死にしがみつき、国語も現古漢の添削に足繁く通い、英語も鉄壁を購入してやり込んだ。では地歴は、と言うと、むしろ勉強を我慢した。もともと地歴が好きであり勉強したくて仕方がなかったが、夏までは国数英だと思い懸命に我慢した。

 

 そう、夏までは……。全ては、夏の東大模試で良い判定をかっさらう為であった。代ゼミ、河合、駿台……全勝したいが、どれかだけでも良い。とにかく、超進学校連中と互角以上に渡り合えているという証左が欲しかった。それはまた、理想の自分でいられている自信にもなる。

 

短い春が終わり、勝負の夏が来る。模試の結果は、代ゼミC判定、河合オープンB判定、そして駿台の東大実戦はA判定だった。平均してB判定といったところ、まぁ上々。だが駿台のA判定は数学満点というミラクルによるものであり、他教科は平々凡々だった。本番でミラクルに頼っても仕方が無い。嬉しい気持ちもありつつ、自分の実力を過信しないように注意しつつ。毎日学校に行き、たまに友達とチャリで遠出したりしながら、短い夏は過ぎていった。

 

 秋になった。受験が迫るにつれ、中央廊下で勉強する人数も増え、仲間ができた。職員室に近いから、気軽にしつこく、様々な先生に教えを乞うた。例えば、数学克服の為、定積分が面積である理由とか自明な部分の証明とか細かい部分を信頼できる先生を訪ねて沢山教えてもらったり、語り合ったりした。

 

 地歴の勉強も遂に解禁した。世界史の論述本を読み漁り、地理のマンツーマン授業(東大地理受験生が僕しかいなかったために生じた、ドラゴン桜もびっくりの個別授業)での過去問対策も熱を帯びてきた。地歴は点差が開きにくいが、一点でも多く取っておきたい。受験戦略以上に、得意な科目へのプライドがあった。

 

 夜は図書館での勉強をやめ、溜まり場となっていた風吹き荒ぶ駅の机で友人と切磋琢磨し、やがて彼女に出逢った。電車の中では自作の英単語暗記カードや鉄壁、東大リスニングに励んだ。とにかく、一分一秒に必死だった。「刹那的」とはこの時期の受験生を形容するためにある言葉だろう。

 

 センター試験までのカウントダウンが始まり、すぐに冬休みに入る。冬休みも年末年始含め毎日学校に来た。この頃はもっぱらセンター対策が中心で、毎日本番通りの順番でワンセットをこなして合計点数に一喜一憂し、誤答を復習。時々気分転換に東大数学対策をする、という風に、2018年は終わった。

 

 新年、グランドに集合して初日の出を拝み、先生方お手製の豚汁を飲んで気合十分。目前に迫るセンター対策に最後の力を注ぎ、遂に一次試験、センター試験当日。

 

 世界史で満点を確信し、地理に備えてトイレに行ったり、隣の人がスマホを出しっぱなしなのを教えてあげたりしながら、センター二日間を終えた。自己採点は翌日に学校で行うことになっていた。学校までバスで戻り、解散。久々に彼女と会って、学校から海まで散歩した。気にしないようにしていた国語の失敗を吐露して慰められ、志望校の話をし、ちょっとした思い出話をした。今思い返せば、こういう友人や彼女との些細な会話が、勉強ばかりの忙しない生活においてとても尊かった。

 

 翌日、自己採点。僕の、隣の人の、後ろの人の、そして教室中の人の人生がある程度定まるという特異な空間に緊張したが、採点結果は上々。心配していた国語も評論文満点というファインプレーのおかげで持ち堪え、合計で目標の九割を超えることができた。この年のセンターは易化らしく、教室中がなんともホッとした空気に包まれた。この日はそれで解散となり、今日ぐらいは遊ぶかと思いつつも、コケた友達を回転寿司で慰めた後は再び勉強を始めた。センター試験を終えた程度で浮かれるほどの馬鹿ではなくなった、と自分の成長を想った。

 

 翌日からは二次試験対策講座が始まり、毎日東大の過去問と向き合い続けた。この頃に東大数学添削の目標60題を達成し、深い満足感を得た覚えがある。先生と、友人と共に向き合った60題だった。必ず実力になっているだろう。

 

 センター後も朝は始発で来た。いつも勉強していた中央廊下には、朝早く来ると後ろから陽が差した。放課後には窓から見えるグランドの空が時計代わりになり、冬枯れした木々は受験が近いことを思わせる。ここで僕は同志と語らい、切磋琢磨した。色々なことがあった。

 

 そして、受験を迎えた。

 

 


 若干の雨、駒場東大前駅には様々な予備校の職員が応援に来ていた。

「河合塾でーす!受験生の皆さん頑張ってくださーい!」

当然、その応援は僕ら予備校と無縁の地方生には関係無い。開門まではまだ時間がある。周りは皆勉強していたが、僕は最早あまり勉強する気になれず、ただボーッとしていた。じりじりと規制線が後退し、そして僕は試験場の13号館に向かった。

 

 トイレは混んでいた。着席時刻寸前になんとかトイレを終え席に戻ると、すぐに試験官たちが注意事項を喋り始める。しかし、その最中にもトイレから帰ってくる人は沢山居て、案外「ゆるい」印象を受けた。試験前三十分は出歩けないのが原則だが、それでもトイレは致し方ない扱いらしく、数人が一人の職員に伴われてトイレに行く様子が何度も見受けられた。ならば慌てず、空いているこの時間に行けば良かった……。しょうもないことで落ち込む僕であった。

 

 机は若干椅子側に傾いていた。普通に置けば鉛筆は転がってしまう……。ここで、昨日彼女から貰った消しゴムが役立った。消しゴムはずり落ちないから、鉛筆をその上側に置くことでこの問題は解決した。かくも悪戦苦闘をしていると、問題・解答用紙が配布された。解答用紙を見て、現代文は例年と同じ形式だ、などと確認する。

 

 僕の得点計画は、二次試験で国語65/120点、数学30/80点、地歴合わせて80/120点、英語で70/120点を何としてでも確保し、センターの圧縮101点と合わせて合格最低点をヌルッと超える、というものだった。さて、国語は比較的安定する教科だが、しかし古典は解釈を間違えれば大量失点の可能性がある非常にリスキーな教科だ。慎重に取り掛かろう。そうやって何度もこれまで考えてきたことを心の中で復唱しているうちに、遂に東京大学の二次試験が始まった。

 

 ルーティーン通り、まずは漢文に取り掛かる。漢詩じゃない、良かった!2010年代前半にあった過去問の漢詩は全くもって意味不明で、漢詩出るな出るなと切望していたのだ。本文の内容は学校教育を憂う話で、要所は抑えただろう。「東大の漢文は文章レベルこそ簡単だが、設問がいやらしい」というよく言われる言説を、見事に体現した問題だったと思う。

 

 漢文では失敗なく切り抜けた。次は、古文。僕の東大合格の必要条件は「古文と数学で失敗しないこと」であった。逆に、失敗さえしなければ絶対に合格する自信があった。というのも「試験勉強というのはどれだけ失敗しても何とか合格点を超えるように対策するものである」という真理に比較的早く気付いたからである。この真理に鑑みるに、古文と数学はギャンブル性が強過ぎる。だから、古文は過去25年分をみっちりこなしてきたがどうだろうか……

 

 課題文は易しく、設問も答えやすい。拍子抜けの感はあったが、事故を起こさないことが目標なのだから、つまり古文は成功だった。第一の難所を乗り切った。

 

 次に評論文に取り掛かる。評論は直近の添削で40点中25~30点を安定して取っているから、自信があった。一読すると既視感を受ける。そうだ、あの話に似ているのだ。

 

 それは東大現代文で出題歴のある原研哉の『白』という本だった。うちの高校では入学前の春休みから全生徒にこの本を強制的に買わせて読ませる教育が行われており、その為に出版社がわざわざ増刷したというのがもっぱらの噂だが、その増刷の真価が三年の時を経て発揮される時が来た、と感じた。

 

 天が僕に味方した、と思うと同時に困惑した。こういう場合の訓練を受けていないぞ、と。つまり、似た話に引っ張られずにその文章から解答を導き出す訓練だ。しかし悩む時間も惜しかったため、微かに『白』の内容を取り入れつつ書いた。恩師が東大現代文のキーワードとして『個』を挙げていたのを思い出し、最後の120字には思いっきり『個』を詰め込んだ。どれだけ効いたかは、分からないが。

 

 最後は随想か、高得点は期待できないし失敗しても大したことは無い。気楽にやると決めていた。作者は聞いたことがあるな……あぁ、彼女が好きな映画監督じゃないか。このように余裕をかましつつ、分からないのは飛ばしつつ埋めていった。最後に不明箇所にとにかく日本語を書いて埋め、国語の試験は終了となった。

 

 とにかく長い答案回収時間が終わると昼休みになった。高校の友達と会うのも面倒で、一人で食べた。周りにもぼっち飯の同志は沢山いたが、トイレのために外に出ると都会の進学校の連中が皆で飯を食っていた。僕には全く馴染みのないこのキャンパスも京王井の頭線も、全て彼らの庭なのだなぁ。やや虚しくなった。落ち込んでも仕方がないことくらいは分かっていたが、仕方がないから落ち込まないことは当時の僕には難しかった。僕はダライ・ラマではないのだ。

 

 午後、いよいよ勝負の数学の時間となった。この100分間が事実上合否を決める。天下分け目の決戦、皇国の荒廃この一戦に有り、身震いが止まらない。2完が理想だが、1完3半でも良いし、もうなんでもいいから30点を取りたい。これまでの努力を思い起こして自分を鼓舞し、試験が始まった。 開始の合図と共に用紙を開き、まずは4問を全て眺める。

 

これまでに問題の選球眼は養ってきた。第一問は図を描けば押し切れそうに見えて、()の計算に手間取って時間を取られそう。第二問はベクトル、()は丁寧にやれば解けそうだが、()は全く見えない。第三問は確率、随分簡単な設定だが、コインが一周する処理が面倒臭そうだ。そして第四問はまたベクトル、しかも一文字固定。なんとかいけるはずだ。

 

 以上が初見の感想だ。傾向から考えて微積は絶対に出るだろうと考え、万全の対策を施してきた。さらに、4問あるうちの第一問は比較的簡単だと聞いていたため、「微積の第一問」なんてまさに鴨ネギだ。絶対に完答したいと思った。第三問の確率は好きな分野で『ハッと目覚める確率』という参考書を何度も回して訓練していたので、出てくれて嬉しかった。長年東大文系数学で確率は鉄板だったが、前年は出ていなかったから不安だったのだ。

 

 しかし驚いたのは、ベクトル2問と一文字固定の出題だ。実は高校の担任で東大数学を担当する恩師にこれまで一年間散々、ベクトルが出る、一文字固定は東大数学永遠のテーマだ、などと言われてきたのだ。追い風に乗って意気揚々と解き進める。

 

 しかし物事はうまく進まない。第一問()を解き、()で計算に詰まり一旦飛ばした。第二問、第三問、第四問と解き進めていくがどうも要領を得ない。特に得意の確率の()がイマイチなのが精神的に辛く、正直言って絶望した。浪人だ〜。僕の東大受験の中で三度訪れた「もうダメかも。」の一回目だった。

 

 この時思い出したのは先述の『白』にも出てくる徒然草の『ある人、弓射ることを習ふに』の逸話だった。

 

標的に向かう時に二本目の矢を持って弓を構えてはいけない。その刹那に訪れる二の矢への無意識の依存が一の矢への切実な集中を鈍らせるという指摘である。この、矢を一本だけ持って的に向かう集中の中に白がある。

                       原研哉『白』より抜粋

 

 今、ここで諦める、浪人するという選択肢があること自体が一の矢への『切実な集中』を断つ。そう気付いた瞬間に僕は一度目の挫折を乗り越えた。なんとも単純でおめでたい性格だが、僕は元来単純な男だった。とにかく諦めかけた第四問とにらめっこし、一方を固定してもう一方を動かすという原始的な一文字固定法で()を何とか突破、()はわからないので適当に図だけ書いて部分点を乞う。第三問では文字通り二の矢すなわち()を捨て、()でしか使えないまたまた原始的な数え上げで何とか場合の数を数え上げた。第一問は気合で完答し、第二問は時間との勝負、最後の最後にグラフの間違いに気付き慌てて書き直したため、グラフに適切な数値を書かず、公式を丁寧に計算せず一気に答えを書く、という二つの手抜きと引き換えに時間ギリギリで何とか正解の値を得た。 

 

 一日目の試験が終了、高校の仲間と落ち合って(縁起でもないが)一緒に帰る。一緒じゃないと絶対に迷うからだ。会話は試験の核心をつかない当たり障りのないものだけで、結果を知るのが皆怖いのだな、と思った。

 

 新宿駅からホテルまでの道を歩いていると、闇に光が満ちる大都会の情景にふと心を奪われた。そして、明日にはここが僕の街になるということを確信し、ホテルに戻った。

 

 夕食の後、ホテルに自習室があるのに気付いたのでそこで勉強した。地歴の勉強は直前まで効く。東大オープンの過去問を解き、2009年の世界史を解いたところで眠くなって自室に戻った。自習室には落書き用のホワイトボードが備えてあり、様々な受験生がここで勉強し夢を書き付け、おおむねその夢を叶えたことが分かった。明日は僕の番だ。

 

 こうして長い一日目が終わった。

 


 

 それは未明のことだった。

 

 暑さで目を覚まし、ホテルの分厚い布団を脇に放って眠らんとするが、まだ暑い。暑いんじゃなくて熱いんじゃないか、体温が。そう気付いた瞬間全身から冷や汗が吹き出す。

 

 なぜ、どうして今日なんだ、なんで今日風邪を引くんだ。起き上がると頭がボーッとする。呆然とし、取り敢えず冷たいペットボトルを脇に挟みクールダウンを図るも、そりゃ無駄だった。ネットで『大学入試 風邪』で検索して地獄のような種々のエピソードを目の当たりにし、すっかり泣きそうになった。

 

 こういう時に頼れるのは何と言っても母親である。お母さん、風邪薬はどうすればいいだろうか……。そう聞こうと思い電話を掛けるも応答がない。クソババア!

 

 どうしよう……。僕はもう、誰かに励まして貰わないと泣いてしまいそうだった。そして、彼女が一日目で既に試験を終えていることを思い出し、電話をするも、出ない。そりゃそうだ、早朝と呼ぶには早すぎる深夜だ。取り敢えずLINEだけ送り、震えながら、若干泣きながら横になった。一体どうしよう……インフルエンザだったら試験どころでは無い。完全に終わりだ。

 

 もうダメかもしれない……。

 

 そうしているうちに少し眠ってしまった。起きた時、直前に彼女からLINEが来ていた。偶然目が覚めたそうだ。それから彼女は僕のために自前の薬を分けてくれ、更にホテルのコンビニまで薬や栄養剤を買いに行ってくれた。風邪薬はおろか保険証すら持ってきていないという自分の愚かさに呆れつつも、彼女の優しさが嬉しく、さっきとは別の涙が出た。心の底からのお礼を言って、短い睡眠をとると朝になった。

 

 幸いにも、頭がボーッとする程度で済みそうだった。しかし歩くと具合が悪く、朝食も碌に食べられなかった。友人たちは自分の試験で手一杯だろうに、それでも僕に手を貸してくれた。

 

 昨日で試験を終えた彼女含む数人に見送られ、昨日同様に駒場へ向かった。開門を待っていると、急に腹が痛い。具合も悪くなってきて、その場に座り込んだ。試験場で着席してからも具合が悪く、吐きそうだ。しかしどうにも吐けそうになく、結局腹が痛く熱っぽいまま地歴に突入した。

 

 風邪だろうが、ルーティンは崩さない。毎日丸亀製麺に行くのと同じだ。解く順番は世界史は3--1、地理は1--3で、予定の時間配分は5-20-40、地理で85分だった。つまり得意の世界史で時間を稼ぎ、熟考長考を要する地理論述に時間を割く作戦だ。東大地理はとにかく問題が多く、正直85分でも間に合わないかもしれなかった。世界史も正直に申せば65分は最速ペースで、70分は覚悟していた。得意な割に、時間配分はカツカツだった。

 

 そういうわけで、まず世界史の第三問・小問集合10題からとりかかる。()でドニエプル川かヴォルガ川で一瞬迷い、通常の世界史学習で出てくるのはドニエプル川だと判断して正解だった。細かくやり過ぎることで思考が邪魔される一例だ。一問あった奇問はすぐに捨てることを決意、これも好判断だった。

 

 予定通り5分以内に第三問を終え、短文論述の第二問に移る。テーマは国境、なんと昨日自習室でやった2009年の過去問と同じテーマだ。追い風を受けながら解き始める。練習通り要素を詰め込み、不明部分は誤魔化しつつ片付け、第二問終了時点で経過時間は25分、良い感じのペースで第一問に進む。

 

 第一問は大論述。指定語句を用いて600字程度で課題に答えるという、世界史の試験の中で最も深い理解を要する形式で、これに挑むだけでも東大を受験する価値があると僕は思う。今年のテーマはオスマン帝国崩壊史。僕は一度思想も含めてその歴史をノートにまとめたことがあった。高校の前のスーパーで買った茶色いキャンパス・ノートの1ページ目、中央に思想の変遷が描かれ右端に子細が汚く書き連ねてあるという画像が鮮明に呼び起こされる。僕の勝ちだ。


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以下、問題文と再現答案。


1989年(平成元年)の冷戦終結宣言からおよそ30年が経過した。冷戦の終結は、それまでの東西対立による政治的・軍事的緊張の緩和をもたらし、世界はより平和で安全になるかに思われたが、実際にはこの間地球上の各地で様々な政治的混乱や対立、紛争、内戦が生じた。とりわけ、かつてのオスマン帝国の支配領域はいくつかの大きな紛争を経験し今日に至るが、それらの歴史的起源は、多くの場合、オスマン帝国がヨーロッパ列強の影響を受けて動揺した時代にまでさかのぼることができる。

 

以上のことを踏まえ、18世紀半ばから1920年代までのオスマン帝国の解体過程について、帝国内の民族運動や帝国の維持を目指す動きに注目しつつ、記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に22行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 

アフガーニ一 セーヴル条約 ミドハト憲法 ギュルハネ勅令 日露戦争 ロンドン会議(1830) サウード家 フサイン=マクマホン協定

 


かつて先進的官僚制・常備軍を誇ったオスマン帝国は、多民族国家ゆえに国民主義の高揚と共に解体していく。18世紀後半、アラビア半島でイスラームの原点に還ろうとするアラブ民族主義的ワッハーブ運動が活発化、19世紀にはサウード家と結び今のサウジアラビアの原型となるワッハーブ王国を建国した。19世紀、ギリシアが英仏の支援を受けロンドン会議(1830)で独立を達成すると、次にムハンマド・アリーとの間でエジプト・トルコ戦争が生じた。これを受けアブデュルメジト一世はギュルハネ勅令でタンジマートを開始、西欧化で帝国の維持を図ったがかえって西欧への経済的従属化を招いた。19世紀後半、オスマン主義や立憲化運動の高揚を受けミドハト憲法が制定されたが、アブデュルハミト二世により露土戦争を理由に停止された。露土戦争でバルカンのキリスト教圏を失うとアフガーニーのパン=イスラーム主義での帝国の維持が模索されたが挫折し、日露戦争での立憲政の勝利を受けトルコ民族主義的青年トルコ革命に至った。帝国は第一次大戦に同盟国側で参戦するも、同盟国の敗色が濃厚になると英の秘密協定により領土を分割された。だがバルフォア宣言とフサイン・マクマホン協定は各々ユダヤ人とアラブ人にパレスチナを与える点で矛盾していた。大戦後帝国はイズミルを巡りギリシアと戦争を継続、その最中軍人ケマル=パシャが台頭し帝国は滅んだ。彼はセーヴル条約で失ったトルコ人居住地を回復し代償にアラブ人居住地を放棄、英仏の委任統治領となり多くが第二次大戦前に独立したがパレスチナ問題は残った。クルド人問題も残った。


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 大論述に比較的素早く答えられたため、終わってみれば世界史に費やした時間は60分だった。地理に90分、つまり大問一問あたり30分も割けるのは、この本番が初めてだ。

 

 地理のページを開く。僕が初めて東大地理の問題を見たのは、春の課外講座だっただろうか。マンツーマン授業に戸惑い、問題を眺めてさらに戸惑った。図の意味が分からず、何を問われているのかもイマイチ分からない。最初の二ヶ月は毎回「これが本番で出たら落ちるな……。」と思っていた。苦戦はしたが、そこはマンツーマン授業、先生と発問・質問を投げ交わすうちに次第にやり方が分かっていった。

 

 解説において、東大地理の問題には出題者・東大教授のメッセージが多分に含まれていると先生は仰った。この知識を用いて、この図からこう考えられる学生が欲しい、と。言うなれば、地理の試験とは東大教授との対話のようなもの。これを信条にこれまでやってきた。

 

 オーソドックスな問題が続く。客観問題が不明なのは痛いが、論述は概ねできた。70分程度で一旦全て終わり、不明な空欄を埋める作業に入る。だがここで具合が悪くなり、頭がボーッとしてきた。そういうわけで、熟考ができなかったために空欄には適当に言葉を羅列してタイムアップ。無念だが、答案作成途上で具合が悪くなるよりはよほど良い。強引に自分を励まし、昼食休憩となった。

 

 昼ご飯は喉を通らず、彼女に貰ったラムネを数粒飲んだだけだった。段々と咳も酷くなってきた。リスニングで周りに迷惑をかけてしまうかもしれない……。隣のメガネ女子には悪いなあ。もはや勉強する気力はなく、天を仰ぐ。頭上には、なんと奇跡、リスニングのスピーカーが完全に頭上にあった。これは天が味方するどころか、勝利の女神が爆笑している。僕はなんて運が良いんだ。やはり日頃の行いだろうか。リスニングに関して、僕はドラゴン桜の愛読者なので早々に重要性を認識して取り組んできた。更に音の条件も良いときた。これはこの勝負もらった、と思った。しかし。

 

 僕の座右の銘は『二度あることは三度ある』。

二度ある挫折も、三度ある……。

 

 試験の説明が始まり、ゾロゾロと受験生が着席する。配られた解答用紙を見て愕然とした。なんだ?裏に謎のⅣとⅤの解答欄があるぞ?新傾向か!?と非常に動揺した。(これは実は「英語以外の」外国語受験者用の解答欄だったが、田舎者には知る由もなかった。)他にも解答欄を確認すると、おぉ、悪夢の1B英英要約が姿を消している!1Aも少なめの80字、これは吉か凶かわからない。しかし1Aの分量が少ない分どこかが増えているかもしれない……2Bが英訳ではなく自由英作文に戻ったか?と分析した。さぁ、これを走り切れば全てが終わりだ。なんとかぶっ倒れずに済みそうだ、つまりこれを走り切れば受かる!圧倒的な自信を持ち、最後の試験を始めた。

 

 絶対にルーティーンは崩さない。まずは全体を概観する。2Bはそのまま英訳問題か、これは時間に余裕が持てそうだ。リスニングは五択のまま。4Aは一番ヤバいタイプの問題、潔く捨てようか。5は文章が少し長い。よし、普通通り解く!まずは和訳の4Bに取り掛かる。

 

 和訳は安牌、想定配点15点なら12点以上は欲しい。河合塾の大問別問題集で対策もしたので堂々と挑む。練習通り8分程度でそこそこの精度の答案を作成できた。

 

 よし、次!

 

 そう、東大英語は流れ作業、情報処理能力をも問うている。素早い切り替えが大事だ。次は2B、まずは簡単な英訳から片付ける。と、解けない!?学校配布の英作文問題集を「意味ね〜」と思いつつ勤勉に解き続け、例文集を暗記し、ドラゴンイングリッシュなる例文集にまで手を出したのに、この程度が解けないのか、なんて仕打ちだ!ダメだ、書き直しだ!やばい、分からない!

 

 脳内は大混乱、しかし落ち着け、切り替えよう、言ったばかり、切り替えが大事なのだ。自由英作文に移る。課題は新しい祝日について。じゃあ、好きな旅の日を作ろう。旅の日は旅をする日で……えー……過労死が増えている今、癒しが必要で……難しいな……じゃあもう過労死メインで書くか......。逡巡を経てなんとか自由英作文を突破し、2Bもなんとか書き上げ、ここまででおよそ25分が経過。試験開始45分後に始まるリスニングの前にやることで残すは1Aの要約とリスニングの下読み、ということは1Aには15分程度かけられる、なかなか贅沢だ、と問題を解きながら同時並行的に時間配分を考えるのも東大英語の実力のうちではなかろうか。

 

 1Aの英文要約は過去問に類を見ないような、問題文に具体的な指示がある問題だった。これは対策する受験産業側としてはつまらないだろうなと思いつつ、受験生としては面倒な思考が省けて、特にフラフラしながら問題を解いている僕にはラッキーだった。1Aを終えて現在35分。なんとリスニング下読みに10分も割けることとなった。一瞬色気を出して4Aを少し解こうかと考えたが、しかしリスニングの下読みに時間をかけ過ぎるということはない。You can’t do too muchだ。リスニングを盤石にしようと考え、完璧に下読みを施した。正直、下読み予定時間の5分で下読みが終わったためしがなかったので、10分も下読みできたのは非常に助かった。

 

 そして、にも関わらず、地獄が始まる。

 

 45分経過後、突如としてゴリゴリの肉声案内放送が始まる。「予備校模試の美しいアナウンスを見習え」と思うやいややゴリゴリ肉声かつボソボソ声の英語らしき言語が流れてきた。ふざけるな、ハキハキ話せ!しかし文章自体は遅い。なんだこの程度か、聞き取ろうとする。

 

 しかし、何も聞き取れないのだった。一体なぜだ!?確かに、これは僕に限らずだと思うが、僕にとっては結局英語はいつまでもどれだけ勉強しても外国語であり、日本語のように流暢には頭を流れない。しかし、集中しても聞き取れないのは久々だ。そして、これこそが僕が一番危惧していた状況だった。何が恐ろしいかと言えば、リスニングの試験は切り替えられない。2Bの時のように他の問題に移れない。単語を断片的に拾う高校入試のような戦法では到底五択を選べない。混乱するうちに声の調子が変わった。話は落ち着いたらしいが、こっちは入試に落ちそうだ、ヤバい、これはもうどうしようもない、完全に終わった。リスニングが出来なければ30点が吹き飛び、絶対に東大には受からない。脳裏には河合塾福岡校が浮かぶ、福岡校の世界史の鬼・青木先生が手招きどころか手を掴んでくる。ごめんなさい高校の先生方、あんなにリスニング演習をしてもらったのに、ごめんなさい……

 

 

 

 

 

 

何を諦めているんだ僕は!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

僕は今までリスニング演習を大量に積んできたじゃないか!!!!!!!!

何より、僕は今までどれほどの人に助けてもらってきたんだ!!!!!!!

一年の頃からT先生は僕を特別に鍛えてくださった!他の英語科の先生方もいっぱい添削してくださったじゃないか!いや英語科に限らない、国語も飽きるほど添削に通ったし、S先生は東京藝大に行きたいと駄々をこねる僕に親身に相談に乗ってくれたじゃないか!数学だって同じだ、添削はもちろん、H先生なんて他学年部なのに放課後に毎日毎日数学談義に付き合ってくれたじゃないか!世界史の先生も偉そうだけどよくしてくれたし、地理なんかマンツーマンだぞ!両親は浪人費用が無いから本当はリスキーな東大受験は嫌だろうに受けさせてくれたし、色々な面で応援してくれた!友人達も、一緒に模試終わりにラーメンを食いに行き、一緒に色々なことをやって、そして一緒に勉強してきたじゃないか!

 

 そして、何より彼女だ……。大学生になって東京で一緒に遊ぼうという約束の為に会う回数を減らし、それでも会いたい僕を諌め、今朝は早朝にも関わらず駆けつけてくれた彼女……。

 

 僕の受験は僕だけのものじゃない。簡単に投げるわけにはいかない。全てのお世話になった人への感謝と共に、そう感じた。

 

 そして、こんなにも恥ずかしいことを真剣に、心から思える日が来るとは思わなかったし、こんなことを思えただけでも受験を頑張った甲斐があったと思った。

 


 既に3Aの一回目の放送は終わりかけていた。でも、二回目がある。絶対に諦めないと誓った人間は強かった。続くリスニングをなんとか切り抜け、小説文である大問5にかかる。5は、リスニングよりも分からなかった。だけど、もう負けない。悩んで分からない問題はもう空欄で良いや、でも分かりそうな問題にその分思考をつぎ込もう。5を終え、残すは1B4A1Bは段落整序問題で、多分人生で一番集中して英文を読んだだろう。リスニング以降の失敗を取り返そうと意気込んでいた。本当は意気込み過ぎるのはダメだが、仕方ない。いいじゃないか、1Bは全問正解だった。結果オーライとはこのことだ。

 

 最後は難解な文法問題の4A。いや〜、この問題に限っては精神論でどうにもならない。一応長い英文を読み、記憶に留めておいた引っ掛けパターンを想起するもパターンに当てはまるものはなし。経験に基づく勘で不適部分を選び、僅かに残った時間で英作文の訂正をし、そして全てが終わった。

 

 会場に気怠い空気が立ち込める。試験終了後一時間は経ったが、未だ退出指示が無い。スマホも触ることができない。皆、項垂れるか、近くの者と喋るか、本を読むか……。だが皆、出来た者も出来なかった者も、ある種の安堵感を抱えていた。ある者が挙手し、新幹線の時間に間に合わないと言い出す。どこ出身だ、という試験官の質問に彼は盛岡ですと答え、会場に笑いが起こる。皆、お疲れ様。

 

 

 

 

 遅い遅い合格発表の日まで、僕は予備校各社の解答速報から自分の点数を何度も何度も計算しては一喜一憂し、後期試験の小論文添削をそこそこに受け、僕を三年間鍛え上げてくれた高校を卒業した。沢山映画を観て、居ても立っても居られず四国に渡って放浪し、遂に3月10日を迎えた。ドラゴン桜に則り合格発表は独りで見ようと決めていたので、10時頃高校の最寄り駅に行った。早く行き過ぎたので駅ビルの本屋をブラブラするも、どうしても足は参考書のコーナーに向かってしまう。勉強に集中できない時、よくここに来たものだ。そして、持っている本を仕上げてから次の問題集を買おう、なんて思ったものだった。

 

 やがて、12時になった。東大のホームページを再更新し続け、繋がると一思いに自分の番号があるらしきところを拡大する。あった、あった!思わず叫びそうになり、叫んでも良いやと思って、でもガッツポーズで留めた。まずは学校に電話、先生も確認しており、よく頑張ったと言われる。次に塾に電話、大学受験とほぼ無縁だった小さな塾なので、すぐさま塾に大きな『〇〇君東京大学合格おめでとう』のノボリが立ち並び、町中に僕の合格体験記のチラシが配布された。恥ずかしいが、誇らしい。

 

 そして彼女に電話した。彼女は既に合格を決めていた。彼女は今、高校にいると言う。そして、高校には友人や、お世話になった先生方がたくさんいると言う。電車で行こうと思ったが、流石は田舎、次の電車は30分後だ。天気は悪いが、仕方ない。僕は今までの全ての感謝を伝えようと、高校まで雨の中を走り出した。

 

 そうして、僕の東京大学物語が始まった。




第三夜

 秘境の旅人の朝は早い。僕は常にそう言い続けて4時起き5時起き上等な旅を行なってきたが、今朝は例外だった。6時に優雅に起き、適当に支度をして6時半頃にホテルを出た。窓の様子からてっきり雪だろうと思ったが、今朝は雨だった。らしくないじゃないか、北海道。そう呟きながら駅へ向かった。
僕がいくら優雅な朝だと言っても世間的には早朝なわけだが、帯広駅ではもう既に駅弁が売り始められていた。名物の豚丼の駅弁を買って3番のりばの列車に乗り込む。
始めはそうでもなかったが、次第に通勤・通学の乗客が増えてきた。適当にほっつき回っている身としては、なんとも肩身が狭い。さらに、普通列車もほとんど止まらないような辺鄙な駅で降りるというのだから最悪だ。車両の乗客全員が怪訝な目で、立ち上がる僕を見つめる。
旅を始めた頃は、この視線はなんとも耐え難いものだった。悪いこともしてないのに謎の罪悪感に襲われる。しかし最早秘境の旅人たる僕はこの視線に慣れ、むしろ旅人としての誇りすら感じていた。チャオ、皆さんお元気で!なんて思いながら降りる。

降りた羽帯駅は林の中の駅だった。近くの国道を除けば、在るものは木々と雪原、鉄路のみ。惜しくも来春(2018年春)には廃止が決まっているこの駅は、やはり期待通り非常に長閑な駅だった。直近の雪が降ってから駅に降りるのは僕が初めてのようで、ホームに降り立つと新雪に足型が付く。歩けば足跡が残る。歩くのが勿体無い、なんて初めて思った。
駅ノートを書きながら1,2本の通過列車を見送った後、札幌方面新得行きの普通列車に乗り込み羽帯駅を脱出した。春にはこの駅は林に還る。今僕が居た空間はただの鉄路となり、もうそこに訪れることはできない。春は別れの季節だ。

新得で折り返し、釧路方面の列車に乗る。出発まで構内を歩いていると、作業員が二人、スコップでホーム上の除雪を行なっていた。北の大地で鉄路を維持する大変さが思われ、実状を知らず南の九州でJR北の駅廃止策に苦言を呈すだけの自分の愚かさが思い知らされたと同時に、こういう実状との出会いが旅で得られる成果だ、とも思った。若き日のチェ・ゲバラが思ったように、僕も思う。もっと旅をしなければ、世界を見なければ……。

帯広を過ぎると、列車は広大な大地を走り始める。遠くの林が地平線を隠す、そんな車窓だった。霧が立ち込め、やがて右手に海が見える。低気圧で荒れた日本海を眺めるうちに、尺別駅に着いた。
跨線橋に上ると、強風が身を打つ。どこまでも白い空と、荒涼とした大地。人が住むには険し過ぎたのだろう、駅前には骨組みだけになった民家の廃墟が数軒点在する。尺別はそんな場所だった。
特急との交換を済ませた普通列車が去ると、何者の気配も消え去る。地球に一人取り残されたような気分で周辺を散策した。
荒れた草原の中の獣道を進むと、海に出た。海風が草を薙ぎ倒し、雪を溶かす。砂浜には荒れ狂う日本海の熾烈な波が襲い、流木が打ち付けられていた。行ったことは無いが、北極海沿岸などもきっとこんな様相なのだろう。
日本の最果てに来てしまったのだな、と心から思った。

砂浜で写真を撮るのに夢中になり、大きな波が迫るのに気が付かなかった。ええい、ままよ、乗るしかない、このビッグウェーブに!というわけにもいかずに命からがら波から逃れるも砂浜に足を取られ、結局靴がどっぷりと浸水してしまった。ぬちゃぬちゃと駅まで歩き、必死に乾かした。そんなバカなことをしている間に、だんだんと日が差してきた。
尺別に似つかわしく無い高規格な道路をしばらく歩くと国道に出た。トラックが猛スピードで脇を通り抜け、一台通る毎に寿命が縮むような思いだった。道路脇で行くべき場所を探り、暫く彷徨った末に遂に辿り着いた。
眼下には広大な原野が広がっていた。先ほどの尺別駅も遠く見える。白い雲は東の彼方に去り、代わって青空が延々と続いていて、僕が好きなオレンジ色の午後の太陽光線が世界を温かく包んでいた。静かな世界を一瞬特急が横切り、僕のカメラが子気味良い音を数度鳴らし、そして全ては元に戻った。



尺別の隣の音別駅まで歩いて、列車に乗った。音別駅には青色のニットを忘れたので、今も忘れ物入れに飾られていることだろう。列車は相変わらず日本海沿いを走る。夕暮れの黄金色の太陽光を海が、波が跳ね返す風景。旅をしていて良かったと思える至福の時である。やがて古瀬駅に着いた。

駅に着いた頃には、気が早い北海道の太陽はもう沈みかけ、暗くなっていた。古瀬駅にあるのは保線用の小屋だけ。ホームは木造で、待合は無い。何も無いのだ。
なんてつまらないのだろう、僕はそう思ってしまった。僕が求めているのは『広大さ』なんだと知る。薄気味悪い森の中に取り残された駅と僕、それはそれで趣があるが、僕が求めているものとは少し違う気がするんだな。
なんとかせねば、そう思いがむしゃらに駅前の道を歩き進む。暫く行くと、広い場所への入口があった。一瞬躊躇われたが、広大さを巡る先程の逡巡を思い出し進むことにした。
WindowsXPの丘みたいな場所に出た。もう日は暮れたのだろうが、ピンク色の雲が空を流れる。あの丘の向こうから、雲が生まれているように思えた。丘の向こうに進みたい衝動に駆られたが、周囲が本格的に暗くなったので駅に戻った。
未知のままにしておくのも良いだろう。謎は謎のままが良い、とも言う。

釧路に着いた。秒速24mの暴風が吹き荒ぶ中チェックインし、クリスマスの夜を一人で過ごす。気掛かりは明日乗る予定の列車が強風で止まらないかどうかだけで、クリスマスに一人で過ごしている虚しさなど気付きもしなかった。


良い旅を

船旅を重ね、経験を重ねるうちに、海に対する考えが変わった、深化したように思う。


博多港、21時。ロビーにはそれなりに人が居た。老人が多い。平日の夜、何のために船に乗るのだろうか。

五島行きのフェリーもあるのか。五島列島や壱岐対馬は行政上は長崎県だが、交通面では福岡県との繋がりが深い、と聞いた通りだった。

フェリーでは1枚50円で毛布を借りた。毛布を布団のように使い、雑魚寝の二等室で寝床を確保した。2枚借りると掛け布団にも出来るのだろう。

テレビでは水曜日のダウンタウンが流れていた。内容は、芸歴が長くてもバイトをし続ける芸人の苦労を紹介するものだった。周りを見渡すと、多分似たような境遇であろうおじさん達が死んだ目でテレビを見つめていた。僕はそれを具に観察した。

23時、消灯。寝ようと努めるが、船が湾を出たらしく、波が激しくなった。時化ってるというアナウンスはあったが、ひどかった。苦しく、断片的な睡眠だった。

4時半、対馬比田勝港に着いた。今降りるか7時に降りるかを選ばねばならない。もう少し寝ていたいという思いがあるが、前夜調べたバス情報によると6時40分のバスに乗らないとどうしようもないらしい。そうは言ってもタクシーを使えば良いのだが、如何せん金がかかる。仕方なく、夜、誰もいない比田勝港に上陸した。揺れない地面に安堵した。

と言っても、とても暇だ。周りにもTwitterにも誰もいない。しばらく待合で休み、バス停まで歩いた。東の空が少し明るい時間だからか、夜空に星は少なかった。そう言えば、僕は星が見たいんだった。

群青色の空、オレンジ色の街灯。いとをかし。

バス停で、前日調達したコンビニのおにぎりを食べた。東の朝焼けが心を洗う。朝焼けはピンクで、夕焼けはオレンジな気がするが、そうかな。

バスに間違えて乗り、急いで次の停留所降りて次のバスに乗り換えようとしたところ、次のバスとは今降りたバスのことだったので、全力でバスを追いかけ飛び乗った。バカ。

訳の分からんバス停で降りた。ここから韓国展望台まで片道4.8kmの山道を2時間で往復しなければ、もう予約したジェットフォイルには乗れない。小走りでスタートしたが、すぐにバテた。

なんか、45分で着いた。人の平均速度が4km/hと聞くので、僕の6.4km/hはなかなか鍛えられているのではなかろうか。

韓国展望台では、坂道を上るにつれ水平線が見えるようになっており、エモい。ガスっていたが、対岸は見えた。

防人の時代から、ここから対岸を睨み付けた男達がいたのだろう。今、船は見当たらないが、船が来たとしたらすぐに見通せるように思える。歴史浪漫を感じつつ、来た道を戻った。

バスで2時間揺られ、対馬の南、厳原に着いた。バスでうたた寝する時間は、普通よりもむしろ長く感じる。幸せな時間だった。対州そばは、そこまでおいしくなかった。

九州郵船の滅茶苦茶な地図を参考にターミナルに辿り着き、旅客のみのジェットフォイルで本土に帰った。港から駅までは、初めて西鉄バスに乗ってみた。

博多からはいつも通り、博多-小倉-中津-大分で南下していった。もうこのルートをこの時間に通るのは何回目だろうか。小倉駅ホームでラーメンを食べた、というのも。


少年は、勉強の中で青年になるのだ、と誰かが言う。僕はまだまだ少年かもしれないが、しかしまあ好青年なので青年なのだろう。
そして思う。青年は旅の中で大人になるのだ、と。

夜行フェリーで寝る経験も、国境の海を睨み付ける経験も、うたた寝する経験も、西鉄バスに乗る経験も、きっと僕を形成する要素となる。
何より、旅をして良かった、と思った。
そういう旅をしていきたい。一生ね。

愛媛単独放浪記、思索

待ち望んだ晴天のはずだった。

僕は受験勉強を一年以上やり続けたが、そのモチベーションは常に、終わったら旅に出る、に尽きていた。そして受験が終わる。合格発表までに旅に出ておきたい、発表の後、また一年旅に出れないかもしれないから。そう考えていた。
確かに天気は雨と曇が続いていて、写真には向かない。じゃあ、夜に撮影散歩でもすれば良いのではないか。というか、旅と写真は別なんだから、天気は関係ないじゃん。そもそも、曇りでも雨でも良い写真は撮れるだろ。
そういう"物語"……自分を責めるような正論、理想論……ばかり浮かんできたが、結局僕は怠惰に映画を貪る日々を過ごした。再現答案も小論文もほとんど書かずに。
だが、3月8日は遂に晴れてしまう。彼女はどこかに行き、会えない。
僕は独り、旅に出るしかなかった。


朝、わざわざ紙の切符を買って、いつもと逆の列車に乗る。通学の高校生に囲まれ、居心地が悪い。本を読みながら、車窓を見た。朝の日に燃える山。燃えると萌えるが同じ発音なのは必然なのだろうか。そう思ううちに臼杵駅に着いた。
港にはいつも車で送られていたので場所がイマイチ掴めなかったが、駅から歩いて15分ほどで着いた。ターミナルで宇和島運輸の券を買う。オレンジフェリーの方が安かった。ふと外を見やると、いつもと違う稜線が見えた。そうか、これが旅なのか。

フェリーの二等室はやはり雑魚寝スタイルだった。ひとしきり船内を見て回った後、暫く寝た。やがて船は動き出した。
浅い眠りを経て、10時頃起きた。到着は11時過ぎなので、まだ時間は沢山ある。船の売店でコスパの悪い弁当を買って、近くの窓際の席に座った。

僕は光り輝く海を見た。太陽光が乱反射して、僕に届く。それはとても美しい風景であると同時に、僕はこの先の人生で、幾度と無く同じかそれ以上の美と出逢えるということを僕に知らしめさせた。旅がしたい、いや、しなければ……。
心を震わせながら冷たい弁当を食べた。


軽快な音楽が鳴り、やがて接岸した。青い国・四国に降り立つと、僕はすぐに別の船に乗る。

離島に行きたかった。多分、自分があまり経験しない環境に身を置きたい、という想いがあったのだと思う。どの島に行くか。姫島、保戸島は行ったことがある。じゃあ、県南の深島とか屋形島とか。でも、バスの都合で日帰り出来ない。合格発表もまだなのに、泊まりはちょっと金がかかりすぎる。じゃあどこか……Googleマップを手繰り、八幡浜大島なる島を発見した。
そういう訳で、僕はすぐに大島行き定期船に乗り込んだ。

船内は地元の老人でいっぱいだった。僕はもっと閑散とした感じを想定していたが、まぁ考えてみれば当然である。少し肩身が狭い。20分ほど隅っこでひっそり過ごし、大島に上陸した。


大勢と、僅かな大学生らしき観光客は右に進んで行った。ならば僕は左に行こう。僕はなぜだかそう思った。海沿いのコンクリートの道を進む。

八幡浜大島には2つほど無人島がくっついている。僕はてっきりそこには行けないと思っていたが、橋で繋がっていた。橋のひとつはコンクリートの地面だけで手すりがない、沈下橋ってやつだった。
海沿いは良い。夏に来たらもっと良いかもしれない。信号機はおろか道路標識も無い島だ。長閑な風景は確かに心に染みる。

でも、それだけなんだ。魂を揺さぶるような写真は撮れない。何度ファインダーを覗いても心打たれない。投げやりに道を歩いた。僕は何をしてんだ。
無人のその島から帰る途中、向こうで原付のおばちゃんが海に入って何かを取っていた。いやぁ、話しかけるべきだった、と今思う。何かあったかもしれない。僕は会釈だけで通り過ぎた。

僕は旅が好きなのか?じゃあなんで僕は今、この何も無い島で退屈なんだ?僕が退屈なのか?……高二の夏、秘境駅で思ったことが蘇る。でも、その悩みは北海道で吹っ切れたはずだ。北海道にあって、ここに無いものはなんだ?

きっと、旅情なんだろうな。僕は大学で世界一周したりするつもりだが、そうする上で、なぜ自分が旅が好きなのかを考えたことがある。結論は、僕は旅でなく旅情が好きなんだ、というものだった。島には、思ったほどの旅情がなかった。それだけだった。帰りの定期船に早めに乗り込み、寝た。

八幡浜の街を歩く。3年かそれ以上ぶりだ。しかし、鄙びた商店街も街並みもあまり変わってはいなかった。駅でJR四国のトクトクきっぷの案内を見ながら時間を潰し、15時発の八幡浜駅発、三崎行きのバスに乗った。

大分の東部、佐賀関の近くに住む僕にとって、佐田岬半島とは地理的にとても近い土地だった。Googleマップを開くと初期画面に入るほどの。それでも、僕は行ったことが無かった。通ったことはあるのかもしれない。でも、行ったことは無かった。

佐田岬半島先端の町・三崎行きのバスも同様に利用者は意外に居た。バスは大分に船で繋がる国道197号を西へ走る。凄まじい悪路だった。197はいくな、とは本当で、久大線を彷彿とさせる車両の揺れだった。伊方原発が近づくと原発反対のキャンペーンポスターが並び、左手には青い午後の海が見えた。バスは時折後続車に道を譲りながら進み、定刻8分遅れで終点三崎に到着した。

駆け込みで16:30発の国道九四フェリーに乗り込んだ。意外にも、利用者は沢山いた。シャトル運航は伊達じゃない。1時間ほどの優雅な航海、左手に佐賀関の煙突が見えた情景が印象的だった。

九州に上陸、バス停で少し待つと大分方面の大分バスが来た。旅行客と共に乗り込む。

僕は、どうして旅に出たのだろう。色々なことを考えた。事実として、色々な意外なことがあった。これは確実に実地的体験に基づく学びである。でも、是非はさておき、別にそんなことしたいわけでもない。じゃあなぜ?

西へ向うバスは、海沿いを走る。時刻は18時前、西の空は暖かい。左へカーブを曲がると、夕陽が車内に射し込んだ。


夕陽を見るため、とか言いたいわけじゃない。ただ夕陽を見ていると、また旅をしたい、と無性に思った。多分、夕陽を見てなくても、空が曇っても僕はそう思っただろう。思えば昔からそうだった。やってる最中は何が楽しいのか分からない。でも、やり終えたらまたやりたくなる。中毒みたいなものなのか。

旅は強いて言えば旅情を楽しむもので、楽しくない旅があっても、それはたまたまそれが僕に向いていなかった、と考えれば良く、旅全体が楽しくないと一般化する必要は無いのだろう。このセンテンスが、僕の現時点での旅論だ。そしてきっと、旅の中でこれは更新されていくだろう。その更新こそ旅なのかもしれない。
バスを降りると群青色の空が出迎えた。