『九州王朝説』という説がある。
Wikipediaによれば、
>九州王朝説は、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府がその首都であったとする説である。
邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から、太平洋戦争後では長沼賢海らがいる。古田武彦も九州の邪馬壹國(邪馬臺國)が倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立したが、天智天皇2年(663年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡に向かったとしている。
もともとこの説は「九州ナショナリズム」(九州島こそ神聖な土地だ、福岡が日本の首都だ、いやいや大分が首都だ)に立脚するものではなく、「かつての日本列島には多元的に国家が存在していたかも」という話である。古田武彦氏はしっかり学術論文の形で世に問うており、『国史大辞典』の「天皇」の項にも反映されている。(下線は引用者による)
>『魏志』倭人伝にみえる「邪馬壹国」(多くの学者は「壹」を「臺」と意改している)の位置については、多年、畿内説と九州説とが対立していて、畿内説によれば、その女王卑弥呼は三世紀にすでに小政権連合の盟主となった畿内大和政権の首長とされるが、九州説によれば、まったく別の政権で、のちに大和政権に征服されたと考えるか、それが東に移って畿内政権となったと考えるか、その一分枝が東に移って畿内政権となり、本流はそのまま九州王朝としてのちのちまで存続したと考えるか、見解が多岐に分かれている。四世紀の倭の状況は中国の正史から窺えないが、『宋書』に五世紀の倭の五王、讃・珍(『晋書』では弥)・済・興・武が順次朝貢したとの記事があり、雄略までの記紀の天皇系譜と大体一致し、紀の紀年を修正すると年代もほぼ合うので、これによって仁徳以後は記紀の天皇系譜を信用するのが学界の大勢であるけれど、仁徳の父応神の実在を認めない説、応神以後は筑紫から畿内に侵入して河内王朝を建てた新しい権力者とする説などがあるほか、五王は畿内の王ではなく九州王朝の王とする説もあって、学説が多様に分かれている。
>[参考文献]
古田武彦『よみがえる九州王朝』(『角川選書』四〇)
しかしながら、まあこういう異端説には玉石混交に人が群がり、さらに九州ナショナリズムを刺激するということでもうめちゃくちゃになり、現在では学界からガン無視されている。
筆者も九州ナショナリズムに脳を侵されているので基本的には九州王朝説を支持したいが、しかし流石に問題点も多く見える。せっかく東大で日本史を勉強したのだから、多少は実証的な態度を持って取り組めたらと思う。
ところで、先述のWikipediaに次のような記述がある。
>太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名字(あざ)が遺存し、太宰府に「天子の居処」のあったことをうかがわせる。
「これ、本当?」というのが、本稿の主題である。
調べてみると、「大裏」という地名が出てくる。現地に行ってみた。
「大宰府」というと多くの人は「太宰府天満宮」の方を思い浮かべるだろうが、モノホンの大宰府は古代九州を統治した役所のことである。権限の大きさから「遠の朝廷」と呼ばれていた。
(ちなみに九州王朝説ではこの「遠の朝廷」という表現の「遠」とは距離ではなく時間であるとして、大宰府が「昔の朝廷」すなわち九州王朝の都だったとする「斬新な」主張を行なっている。こういう頭の体操、好きすぎる。)
その大宰府の建物が「大宰府政庁」であり、写真がその跡地である。筆者は卒業論文で藤原純友について扱ったが、その海賊・純友が焼き払ったのが大宰府政庁である。
ちなみに、古代史では大宰府、普通は太宰府と書く。太宰府市HPによると
>一般には古代律令時代の役所、およびその遺跡に関するダザイフは「大宰府」、中世以降の地名や天満宮については「太宰府」と表記されるようになりました。現状では、行政的な表記もこれにならい、「大宰府政庁跡」「太宰府市」というように明確に使い分けています。
とのこと。
その大宰府政庁跡の裏手に、小さな石碑がある。
これは、旧小字の地名が住居表示を行う際に失われるため、太宰府市が石標に刻んで建立したものだという。全国の市町村に見習って欲しい。
太宰府市の文化財情報にはこの石標について、次のようにある。
>住居表示により古い地名が失われるため、平成5年(1993)8月に太宰府市が旧小字名を石標に刻して建立したもの。地名「大裏」は内裏、紫宸殿ともいわれ、天智天皇の内裏跡や安徳帝の行宮があった場所だという謂われが残っている。大宰府政庁の政庁域全体がこの地名である。
下線部は、「「大裏」は内裏や紫宸殿を意味するかもしれないぜ」くらいの意味であると、太宰府市文化財課に確かめた。つまり、Wikipediaがいう小字「紫宸殿」「内裏」が存在するという説は、「大裏」の解釈そのものを地名と誤解したものかもしれない。あるいは、太宰府市の書き方が悪いかも。
「大裏」はダイリと読む、と後述の「明治前期 全国村名小字調査書」にはある。北九州市門司区にも「大裏」という地名があり、それは目前の壇ノ浦に沈んだ安徳天皇の伝説に由来するという。「大裏」は確かに「内裏」に通ずる地名なのだ。
次に、「朱雀門」はどうだろうか。
「朱雀門」はないが、「朱雀」は政庁付近の大字名であり、今も住居表示に使われている。『角川日本地名大辞典』にも「朱雀」という項が当然あり、次のようにある。
>平成7年~現在の太宰府市の町名。1~6丁目がある。もとは太宰府市通古賀・南・太宰府の各一部。
御笠川を跨ぐ橋は「朱雀大橋」という。
さらに、政庁南側の道路は「朱雀大通り」という。
朱雀大路というのは律令制において、宮殿から南方に向かう道のこと。朱雀というのは南方の守護神。名探偵コナンにそういう話あったよね。
筑紫野市HPに大宰府版・朱雀大路について解説があったので引用。
筑紫野市「大宰府朱雀大路と湯大道[二日市西]」
>大宰府政庁跡からまっすぐに南へのびる中央大路(朱雀大路)は、古代の都市計画の骨格ともいえるものですが、これまでの発掘調査で、その幅は35メートルから36メートル(平城京朱雀大路の約半分)であったことが判明しています。
筑紫野市役所の南に「湯大道」という南北に細長い小字名が残っていますが、これは朱雀大路から都城の南郭外へとつづく古代官道のなごりと考えられます。
平成22(2010)年に筑紫野市教育委員会が作成した『筑紫野市古地形図』によると、北流する鷺田川の河道が直線的にのびる場所が数ヶ所あり、朱雀大路の南延長線上に当たっています。現在は市街化してわかりにくくなりましたが、筑紫野市役所の西方を二日市温泉の方向へまっすぐにのびた道があった可能性があります。
他に、大宰府政庁周辺に「それっぽい」地名はなかろうか。これを探すべく、筆者は「明治前期 全国村名小字調査書」を大学図書館から拝借してきた。これは明治時代に各村に小字地名をまとめて提出させたもので、関東大震災で大部分が丸焼けになったが、九州など一部は災禍を免れて今に伝わっている。借りたのはそれを写したもの。東大の史料編纂所には原本が保存されているらしいが、流石に閲覧できないだろう。そもそも、史料編纂所図書館はクソ使い勝手が悪いから近寄りたくない。
ともかく、この本の福岡県・観世音寺村のものを書き写したのが以下になる。
朝日
御所ノ内ゴショウノウチ
露切ツユキリ
今道
堂?
土井ノ内
五反田
日吉
不丁ウチョウ
油田
大楠ヲヲクス
広丸
来木
蔵司
大裏ダイリ
筑山ツキヤマ
学業ガクコヲ
安?寺アンヲヲジ
住ヶ元
松ヶ浦
大浦谷
千代岳
今光寺
山ノ井
鼓石
丸石
東連寺
ぱっと見、「大裏」「蔵司」「御所ノ内」がいい感じ。朱雀がないのは、大字だからだろうと思う。
「大裏」は上で見た。
「蔵司」はくらづかさ=内蔵寮。太宰府政庁の西の丘陵で、ここにも小字の石碑が残っているが、気付いたのが現地巡検の後だった。
皇室関係の出納事務を担当する役所のこと。ただ、大宰府においても「蔵司」は皇室と関係なく存在していたようで、この地名は九州王朝説でキャッキャするよりもむしろ、大宰府蔵司のあった場所だと真面目に考えた方が良さそうである。
特別史跡『大宰府跡』・ 蔵 司 地区の調査成果 ~大宰府史跡第236・245・246次調査~
「御所ノ内」はそのまんま。小字の地名なんて調べても分からないだろうとスルーして巡検を終えたが、この記事を書くに当たって一応ググってみると、なんとこの物件がヒットした。
「シャーメゾン御所ノ内」。そんなのもう皇居じゃん……住みたい……。シャーもペルシア語で「王」を意味することだし……。
そういうわけで、このシャーメゾン御所ノ内の周辺一帯が「御所ノ内」で、多分探せば石碑があるだろう。探したかったな〜。縁起が良い地名だと住宅メーカーが採用することで後世に残ることがある、という貴重な事例だとおもいました。
まとめ
「明治前期 全国村名小字調査書」にも無かったことから、Wikipediaの「太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名字(あざ)が遺存」するという表現は誤っている。「大裏」「朱雀」、「蔵司」「御所ノ内」で勝負しようぜ!
おまけ:水城
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