2025年5月3日土曜日

長崎県横瀬浦のイエズス会領土にみる植民地性

地方の半島の先端、この国の周縁部にこそ、海外との接触があった

横瀬浦とは、16世紀半ばの日本、肥前国大村領内(現在の長崎県西海市)に設けられた港町であり、ポルトガル船の寄港地として短期間に繁栄を見た。

1562年に大村純忠の主導により外国船受入港として開港された。しかし、わずか1年後の1563年に、キリスト教に傾倒した純忠への反感から、家臣によって焼き討ちされ放棄された。今では静かな漁村が残るのみである。

この港には、植民地的な特徴がいくつかあった。今回は、横瀬浦を題材に「植民地」という概念について理解を深めたい。



植民地的な特徴

横瀬浦には、以下のような植民地的性格を帯びた要素が存在した。

  • イエズス会への土地寄進:大村純忠は、港周囲約2レグワ(約10km圏)の半分を教会に百姓付きで寄進した。ポルトガル人と教会に対し、収益権が保証された。(アルメイダ書簡に基づく) 飛地的に土地と人民が与えられるというのは、いかにも植民地らしい。

  • 租税免除:大村純忠の許可により、ポルトガル船の貿易活動に対して10年間の免税措置が取られた。特定の外国商人に対する租税免除は、植民地的搾取の常套手段である。

  • 宗教的排他性:協会領には異教徒の居住が認められなかった。つまり、宗教的自治権が一定程度保障された。実質的にはポルトガル人専用の地域が横瀬浦に存在したことになる。

  • 港の特権的自治空間化:交易・布教・居住が日本側と区別された空間で行われており、ポルトガル人の「特権的空間」として機能した。従来イエズス会士などが定住した豊後や平戸にはこうした南蛮人の居留区は設定されなかったと考えられており、教会領の概念は横瀬浦に始まるものである。


植民地とはいえない要素

一方で、横瀬浦を植民地(colony)とみなすには欠ける要素も多い。

  • 主権の所在:横瀬浦はあくまで大村純忠の支配下にあり、土地の寄進・租税免除も領主の意思に基づくものだった。主権はあくまで日本側にあり、ポルトガル王国に移譲されたものではない。これは知行地という形態であり、土地はあくまで借地であった。

  • 本国の関与の欠如:土地用益権を与えられたのは、あくまでイエズス会という宗教組織であり、ポルトガルの正式な関与はない。当時のポルトガルは、ブラジル経営やインドでの活動に注力しており、既に独自の貿易圏が構築されていた東アジア世界ではあくまで1プレイヤーとして商業に参入するに留まっていた。そのため、東アジアではイエズス会がポルトガルの尖兵としての機能を果たしていた。しかしこれは実質的な意味であり、正式なものではない。

  • 軍事力の不行使:ポルトガル側は横瀬浦を軍事力による威圧で確保したわけではなく、大名の招致に基づく平和的進出であった。これはポルトガルのインドにおける拠点形成と異なるところである。

  • 恒久性の欠如:与えられた租税免除措置は期限付きであり、後の焼き討ちによって短期間で終焉した。

  • 行政機構の不在:横瀬浦にはポルトガル本国の行政・司法制度が持ち込まれることはなく、制度的統治体制は存在しなかった。これは、わずか1年で放棄されたことも原因のひとつだと考えられる。もし焼き討ちがなければ、次第に制度が整備され、マカオやバタヴィアのように植民地的色彩が強くなっていたかもしれない。


横瀬浦とは何だったのか

横瀬浦の主権は日本側に留保されており、特に本国法に基づく行政・司法などは未発達のうちに焼き討ちされてしまった。よって、横瀬浦を植民地として位置づけることは難しい。

横瀬浦は、近世初期における日本的制度に基づく対外的租界(concession)といえるのではなかろうか。特に注目すべきは、当時の戦国大名が用いた「朱印地」制度との類似性である。

すなわち、横瀬浦においてイエズス会やポルトガル人に与えられた土地・権利は、戦国期に寺社や商人に対して領主が発給した朱印地(朱印状に基づく特権的支配地)と同様の構造を持っていた。租税免除・宗教的自治・一時的支配権の保証はすべて、大村氏による主権の留保のもとに発給された「封建的租界」であり、国際法的な植民地ではなく、日本封建制度における特権的港湾区画と位置づけることができる。

そのため、横瀬浦は「一風変わった朱印地」として理解するのがよいだろう。また、植民地と居留地の過渡的形態を示す先駆的事例であるともいえる。


ちなみに、現在横瀬浦の隣には在日米軍の貯油所があり、向かいには在日米軍佐世保基地がある。しかし、これが植民地であるか云々という話題は政治的に過ぎるので後日に回すこととする。

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