2023年2月20日月曜日

藤原純友の乱・その1(地理・時代背景)

 筆者は大学で日本古代史を勉強し、藤原純友で卒論を書きました。

「藤原純友の乱」は史料が少ないために非常に謎が多く、どこか「未解決事件」っぽさがあります。

世田谷事件や井の頭事件など未解決事件の謎に(不謹慎ながら)興味がある筆者としては、「藤原純友事件」にも同様に興味が惹かれ、卒論のネタに選んだわけです。

 

そこで「藤原純友の乱」を未解決事件として考察していきたいと思います。

基本的には、卒論の焼き増しですが。

 

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「藤原純友の乱」は瀬戸内海を中心に生じた内乱事件です。

位置関係はこのような感じ。

 


古代日本は九州の大宰府〜瀬戸内海〜京のルートが経済の大動脈でした。その大動脈で海賊が蜂起しているわけで、今でいえば愛知県が武装蜂起して東海道新幹線を封鎖したようなものでしょうか。大事件なわけです。

 

「藤原純友の乱」の考察にあたり重要な地名が「伊予国日振島」です。


伊予国は今の愛媛県にあたります。(このブログでは大分・愛媛間の「豊予海峡ルート」を激推ししていますが、この「豊予」の「予」は「伊予」の「予」です。)

日振島は愛媛県の西側にある島で、人口800人程度。豊後水道に浮かんでいます。

この島の名前が歴史上に初めて登場するのが、純友の乱です。

 

純友の乱は簡単にいえば、伊予国(日振島?)に住んでいた純友が瀬戸内海でドンパチやって、負けが込んできたのでどこかに隠れ(日振島?)、最後に大宰府を燃やして一花咲かせて死んだという事件です。

 

 

次に、この当時の時代背景について見ておきたいと思います。

純友の乱は西暦939年12月に始まった事件です。939年は天慶二年です。

日本史を勉強すると慣れるのですが、門外漢には元号表記って結構だるいと思います。

「承平」「天慶」の2つだけでも覚えて帰ってください。承平は下1桁が一致していて分かり易いかと。

 


純友の乱が勃発した十世紀というのは、概して何もなかった時代です。次の表は歴史まとめ.net様から引用したものですが、3件しか年表レベルの事件がありませんでした。

 


「794うぐいす平安京」ということで、939年というのは平安京が始まってから150年ほど経とうかという頃です。平安時代も150年もやってればだんだんグダってきていまして、法律をしっかり決めて政治をやる「律令制」もだんだん衰退してきました。中央が乱れれば、地方も当然に乱れてきます。

藤原道長が摂政に就任するのは約80年後の1016年ですから、藤原家の全盛期というわけでもない。


こういう微妙な社会的気運の中で、藤原純友の乱が起こったわけです。

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