2022年10月6日木曜日

415系たちの挽歌

2022923日、西九州新幹線が開通した。それに先立ち、その前日に役目を終えた連中がいる。415系鋼鉄車、通称白電と呼ばれた電車だ。白電と呼んだことなど、私は一度もないが。

1978年から製造された白電は、大分や福岡、鹿児島を中心に活躍し————なんて説明は、他のブログに任せよう。

筆者は大分市東部で育ち、人生の節々で白電に接してきた。それは私の友人も同様だ。

今回の記事では、筆者の白電への思い出話、友人や家族の白電の話、ラストラン当日の話などを記し、415系への挽歌としたい。

 




筆者の話

私は大分市の端くれに生まれた。

幼い頃から電車はよく使っていた。母親が免許を持っていなかったから、そして週一で大分の街まで楽器を習いに出ていたからだ。ナライゴトは幼い自分にとってつまらないものだったが、今にして思えば貴重な経験だった。

その経験の傍らに白電はいた。18時ころ大分駅発の電車が白電だったと思う。4両で、ボックスシート。親子二人で4人席は気が引けるから、いつもドア脇の二人席に座っていたことを憶えている。当時の大分駅は古く、近くの電波塔には夕方になると無数のカラスが集まっていた。冬に電車に乗るとヒーターで猛烈に暑く、辟易したものだ。


中学進学を機に習い事は引退し、電車に乗る機会は減った。しかしながら、中学の頃から私は鉄道が好きになった。鉄道撮影の為に一眼レフを所望し、買ってもらう為にひたすら勉強した。人参をぶら下げればどこまでも走る、私は単純な男だった。

鉄道撮影をするようになると、赤い815系は嫌いになった。私にはあまりカッコ良いデザインと思えなかったし、何よりいっぱい走る。そしてその分、白電には魅せられた。丸い目は機能美を感じさせ、そもそも白地に青線のデザインが好きだったように思う。久大本線に出かければ、必死に40系を撮っていたような中学生だった。


印象的だったのは、高校受験当日に白電に乗ったことだ。4人席に同じ高校を受ける友人二人と座り、意気込みを語らった。街の学校の連中の悪口で大いに盛り上がった。

そうそう、その友人のうち一人と、今年の正月に白電に乗った。高校の同窓会で「何の成果も得られず」敗残兵として二人で乗った。敗残兵はやさぐれているから、二人で4人席を使うのだった。


高校は無事に受かったから、当然電車通学となった。行きは大体815系だったが、帰りは佐伯行きの415系に乗ることが多かった。街の図書館で勉強すると、帰りは佐伯行き最終くらいの時間になるからだ。特に高三の頃は日々是決戦、一秒を惜しんで勉強していたから白電の中でもリスニングや英単語を勉強したのだ、遅くまで。

こっちが必死こいて勉強していると、ボックスシートの対面に佐伯在住の指定校推薦野郎が座りやがって、話しかけてくるので勉強時間を大いに毟り取られた。ボックスシート唯一の罪である。

一度人身事故にあったこともある。鉄橋の上で一時間半ほど抑止され、大いに困った。

冬場にはやはりクソ暑いヒーターが効いた。当時の私にはそれが受験の近づきを知らせたように思った。


全体として白電(私は鉄オタだったから415と呼んでいたが)にはポジティヴな印象を持っている。人が少なければボックスシートはグリーン車のようだし、旅情もある。そして何より四両編成だ。両数は多ければ多いほど良いと私は思っていた。今でも、815が来るたびにハズレだと思っている。

旅情といえば、到着時刻案内もかなり情緒的であった。私が英単語帳を貪っていると、大分川を渡るあたりで車掌の放送が流れる。幸崎、臼杵、津久見、終点佐伯。大学に合格さえすれば、好きなだけ旅行ができる。車掌の案内だけで、私は多幸感に満ち溢れるのだった。





 

県南の高校に通った友人

「白電はゴジデンで、よく乗ったよ。」

ラストランの当日、近くに住むこの友人と駅まで歩いていると、彼はそう言った。ゴジデン?何それ?私は尋ねた。

「県南の方は大体一時間に1本電車があって。

1時電、3時電、4時電、5時電、6時電、7時電。2時電だけないの。」

電車に分かりやすい名前が付けられるのは、単に一時間に1本のダイヤだけが理由ではないようだ。その高校には彼のように外から通ってる者も多いが、ほとんど全員が同じ電車に乗って帰るのだった。だから「ゴジデン」は彼の言葉ではなく、その高校の「公用語」なのだろう。

大分市の高校に通うと、そもそも自宅から自転車通学する人が多い。また、4方向に線路が伸びているから、同じ方向の電車を使う人は限られる。さらに本数も多いから、友人など乗っていなくて元々という感じであった。

しかし、県南では全員が同じ電車なのだ。彼曰く、4時電には授業の関係で間に合わないから、5時電に乗る学生が最も多いという。だから、5時電には4両編成の415系が充てがわれたのではないか。彼はそう推測しているようだった。

ゆえに、登下校は友人集団と一緒が当たり前。そうなれば、ボックスシートの方が便利に決まっている。

全然知らない「常識」を垣間見ることができた。







街に住む友人

彼は街に住んでいるので移動は専らバスか自転車であった。高校も自転車通学であり、普段は電車に乗らなかった。別府の祖父母の家に行くときに、たまに乗るくらい。「大分で白電に乗った記憶はない。」

「白電に乗るのは」時間をかけて思い出し、彼は言った。「関門海峡を渡るときだ。」


小倉駅でワクワクしながら「下関」行きの白電に乗り込む。トンネルに入り電灯が消えるが、周りは慣れたもので動揺しないので、自分も動揺を抑え込む。やがて下関に着くと、折り返しの白電が「次の九州方面の列車」として案内されるのを聴きながら、自分は「九州方面」に背を向け、本州の鉄路を進んでいく。九州育ちの「18きっぱー」なら、こんな体験を共通して持っているのではないか。それを支えたのが白電であった。

 






ラストランの話

私が帰分したのは3日間程度であったが、その3日の間に415系ラストランが実施されたことはまさに僥倖と言っても良い。

前日にその情報を見て、初めは大分駅で出迎えようかと考えた。しかしながら、やはり何度も乗った地元の駅で見送るのが、沿線に生きた者の務めかと考えた。「県南の高校に通った友人」を誘い、将来について、415系の思い出について語り合いながら、夜の駅で列車を待った。

 

列車がやってきた。ドアを閉め、ゆっくりと加速していく。段々と数を減らすのでなく、いきなり終了というのがなんとも唐突で、現実味がない。そんなことを、テールランプを見送りながら考えていた。

 





 

余談

ラストラン当日、偶然に大分駅にいく用事があり、偶然に一本早い電車に乗り、415系の記念入場券を歩きながら偶然に思い出し、売り切れただろうと思いつつ窓口に尋ねたところ、ラスト1枚が残っていた。限定50枚の記念品、大切に保存していきたい。




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