1940年5月10日、ナチス・ドイツはフランスに侵攻し、フランス軍は急速に崩壊した。6月までに、フランス軍は差し迫った敗北に直面し、政府は休戦交渉を行うか、北アフリカから抗戦を続けるかという政治的危機に陥った。ポール・レノー首相は抗戦継続を望んだが、多数決で否決され辞任した。後任のフィリップ・ペタン元帥は、1940年6月22日にドイツとの休戦協定に署名した。
この休戦協定により、フランス本国はドイツ占領下の北部と、ヴィシー政権が統治する南部とに分割された。一方、シャルル・ド・ゴールはロンドンに脱出し、6月18日のラジオ演説で抗戦を呼びかけ、9月には自由フランス亡命政府が成立した。
ヴィシー政権はドイツから自治を認められており、フランスの海外植民地は名目上は、そのままヴィシー政権の管理下に置かれた。しかし、すべての植民地政府がヴィシー政権に恭順したわけではない。休戦協定に従ってヴィシー政権を支持する植民地もあれば、連合国側で自由フランス軍に参加する植民地も存在した。
植民地の支持は双方にとって重要であった。ヴィシー政権にとっては、本国が占領された状況下でフランスの国威を維持する数少ない手段であった。一方、自由フランスにとっては、抗戦を続けるための領土的基盤と人的資源を提供する不可欠な存在であった。
多くの植民地政府は当初ヴィシー政権に従ったが、主に連合国による軍事侵攻により、ほとんどが連合国・自由フランス側に移行していった。わずかに、枢軸国の大日本帝国の影響下に置かれる植民地もあった。
以下に、各植民地政府の動向を表にまとめた。
赤色が初期に自由フランスを支持した地域
植民地名 | 自由フランスへの合流時期 | 合流の経緯 |
フランス領セントヘレナ | 1940年6月23日 | 管理人ジョルジュ・コランがド・ゴール派に忠誠を誓い、イギリスの黙認のもと、自由フランスの拠点として維持された。これが一応、自由フランスの初の領土ということにはなるが、些細な出来事であった。 |
メルセルケビール海戦 | 7月3日 | フランス世論は反英で激高 |
ニューヘブリディーズ諸島(英仏共同統治領) | 7月20日 | 英仏共同統治という建前上、ヴィシー政権への支持はイギリスが許さないだろう。実際の統治はイギリスが担った。 |
チャド(仏領赤道アフリカ) | 1940年8月26日 | チャド総督フェリックス・エブエがドゴールを支持した。エブエは仏領ギアナに生まれ、フランス植民地高官に任命された最初の黒人である。彼は元々社会主義者であり、ヴィシー政権の反共和的な政策に明確に反対していた。決断の背景には地政学的な要因もある。チャドは内陸植民地であり、海に通じる貿易ルートを確保するにはイギリス領ナイジェリアとの連携が不可欠だった。ヴィシー政権に従えば、イギリスとの関係が断絶され、様々な現実的危機が生じうる。自由フランスに加わることは、チャドの経済的・行政的生存の道でもあった。エブエの選択により、自由フランスは実質的に初めて、主権を行使できる領土を獲得した。 |
カメルーン | 1940年8月27日 | シャルル・ド・ゴールの使節2名が30名未満のフランス人とともに、1940年8月27日早朝にカメルーンのドゥアラに上陸した。彼らは都市の支配権を掌握し、植民地全体がド・ゴールに合流することを宣言した。 |
コンゴ(仏領赤道アフリカ) | 1940年8月28日 | ブラザヴィル(仏領コンゴの首都)において、フランス領赤道アフリカ総督府のルイ・ユソン将軍(ヴィシー政権派)が、自由フランスの工作活動を主導していたエドガール・ド・ラルミナ大佐らの指揮する少数の自由フランス軍人および地元住民によって逮捕され、権力を掌握された。ブラザヴィルはその後、自由フランス領アフリカの首都となった。 |
ウバンギ・シャリ(仏領赤道アフリカ) | 1940年8月29日 | チャドとコンゴの例に続き、ウバンギ・シャリ(現在の中央アフリカ共和国)の知事が1940年8月29日にシャルル・ド・ゴールへの忠誠を表明した。これにより、親ヴィシー政権の軍人との間で首都の支配をめぐる短い戦闘が発生した。 |
オセアニア(ポリネシアの旧称) | 1940年9月2日 | タヒチは1940年8月31日に合流し、フランス領オセアニアの全域は9月2日に続いた。これは主にジョルジュ・オルセリ総督と、自由フランスを圧倒的に支持する住民投票を9月2日に実施した地元住民の努力によるものだった。これは親英感情とドイツとの戦いを続ける意欲に影響された。 |
インド | 1940年9月7日 | フランス領インド(ポンディシェリ、カーライカル、マエ、ヤナム)の現地政府は、イギリスに影響され、自由フランスへの合流を宣言した。周囲をイギリス領インドに囲まれた立地とイギリスの圧力が主要な要因であった。 |
ニューカレドニア | 1940年9月19日 | ヴィシー政権の任命した高等弁務官アンリ・ソートゥーが、現地の住民からの圧力と、この地域におけるイギリスおよびオーストラリア軍の影響を受けて、自由フランスに合流した。 |
ダカール沖海戦 | 9月23日 | 自由フランス初の軍事作戦が失敗、反英感情の強化、ヴィシー政権の支配権示威 |
ガボン(仏領赤道アフリカ) | 1940年11月12日 | 知事のジョルジュ・マッソンは1940年8月28日に自由フランスへの忠誠を誓ったものの、フランス人住民の多くと保守的なカトリック司教から反対を受けた。1940年11月にルクレール率いる自由フランス軍が軍事攻勢(ガボンの戦い)を開始し、11月9日から10日の戦闘の後、ガボンは11月12日に自由フランスに強制的に合流した。これにより、仏領赤道アフリカの全地域が自由フランスの勢力圏となった。 |
委任統治領シリア | 1941年7月12日 | ドイツ航空機がイラクの親枢軸派の反乱を支援するためにシリアを経由して給油を許されたため、1941年6月にイギリス、英連邦、自由フランス軍は「シリア・レバノン戦役」(エクスポーター作戦)を開始した。1か月の戦闘の後、ヴィシー軍は敗北し、イギリスの支援を受けた自由フランス軍が支配権を掌握した。この忠誠の転換は、枢軸国の影響を防ぐために地域を確保するための連合軍の軍事介入の直接的な結果であった。 |
サンピエール島・ミクロン島 | 1941年12月24日 | 1941年12月24日、ド・ゴール将軍の命令を受けて行動したミュズリエ提督は、アメリカやカナダの事前承認なしに、自由フランス海軍を率いて島の支配権を掌握した。住民投票が行われ、自由フランスへの合流を圧倒的に支持する結果となった。この行動は、ド・ゴールがすべてのフランス領土を自由フランスのために確保し、西半球における枢軸国の影響を阻止しようとする意志によるもので、アメリカやカナダとの間で外交問題を引き起こした。 |
ウォリス・フツナ | 1942年5月27日 | 地元の聖職者アレクサンドル・ポンセ司教とフランス駐在官レオン・ヴリニョーは当初ヴィシー政権に忠実だった。しかし、太平洋におけるウォリス島の戦略的重要性から、アメリカ軍が1942年5月に基地を設置した。ド・ゴールは以前からウォリスの奪還を命じていたが、作戦は遅れていた。自由フランス軍はアメリカの支援を受け、軍事作戦で島の支配権を掌握した。これは島の戦略的重要性や連合軍の軍事介入による強制的な合流であった。フツナ島はその後、1942年7月14日に合流した。 |
フランス領西アフリカ (ダカール、セネガルなど) | 1942年11月 | 1940年9月の「ダカール沖海戦」(メナス作戦)では、イギリスと自由フランス軍(ド・ゴール率いる)がダカールを占領し、フランス領西アフリカを自由フランス側に引き入れる試みを行ったが、ヴィシーフランス軍によって撃退された。フランス領西アフリカは1942年11月の連合軍の北アフリカ上陸作戦(トーチ作戦)までヴィシーの支配下にあり、その後、北アフリカと西アフリカのヴィシー軍は最終的に連合国に忠誠を切り替えた。これは、当初からの自発的な合流ではなく、軍事的な進展による広範な転換の一部であった。 |
フランス領北アフリカ (アルジェリア、モロッコ、チュニジア) | 1942年11月 | 1942年11月の連合軍の「トーチ作戦」後、この地域の忠誠は転換した。ヴィシーフランス軍との激しい戦闘と、アンリ・ジロー将軍とシャルル・ド・ゴール将軍間の複雑な交渉と権力闘争を経て、これらの地域は最終的に連合国側に合流し、1943年6月にアルジェでフランス国民解放委員会(CFLN)の基盤となった。これは軍事介入と戦略的必要性の直接的な結果であり、最初からの内部的な合流ではなかった。当時、アルジェリアは海外領土ではなく本土の一部とされていたため、自由フランス政府は遂に本土を獲得し、定義上亡命政府ではなくなった。 |
レユニオン | 1942年11月28日 | レユニオンの植民地政府は、連合軍の圧力(特にインド洋に位置することからイギリス軍)と自由フランス側の行動の影響を受け、1942年11月28日に自由フランスに合流した。北アフリカでの連合軍上陸とそれに続く多くの植民地の忠誠転換後、孤立したレユニオンのヴィシー政権は維持が困難となり、駆逐艦レオパルドによる上陸作戦によって、自由フランス軍によって占領された。 |
マダガスカル・コモロ諸島 | 1942年12月14日 | マダガスカル島は戦略的に重要であり、太平洋戦争の勃発後、イギリスは日本が海軍基地として利用することを恐れていた。ヴィシー政権はアルマン・アネ総督の下でマダガスカルを支配していた。1942年5月、イギリス軍は大規模な島への侵攻(アイアンクラッド作戦)を開始した。数か月の戦闘の後、1942年11月にヴィシー軍は降伏した。その後、1942年12月14日にポール・レジャンティロムを総督として自由フランスに正式に引き渡された。これは地政学的な懸念による連合軍の軍事征服による強制的な忠誠の転換であった。なお実際のところ、日本軍はイギリス東洋艦隊を駆逐しインド洋の制海権を確保こそしていたものの、マダガスカル方面への進出には消極的だった。 |
ソマリランド (ジブチ) | 1942年12月26日 | フランス領ソマリランドは、アフリカで最後までヴィシー政権に忠実であり続けたフランス植民地であった。長期にわたる連合軍の封鎖とそれに続く軍事圧力を受け、1942年12月26日に自由フランス軍に降伏した。ヴィシー総督ピエール・ヌアイユタは、イギリス軍と自由フランス軍に対して厳格な封鎖を維持し、深刻な物資不足と植民地での飢饉を引き起こした。紅海の入り口というジブチの戦略的重要性から、最終的にイギリスの圧力と自由フランスの軍事行動により、連合国側に合流せざるを得なかった。 |
ギアナ | 1943年3月16日 | ギアナは南米大陸の北東部に位置し、周囲を連合国寄りの勢力(イギリス領ギアナ、オランダ領ギアナ、ブラジル)に囲まれており、徐々に孤立感を深めていた。自由フランスの工作活動と、フランス領アンティル諸島(マルティニーク、グアドループ)の合流に向けた動きに影響を受け、最終的に現地指導者と住民の意思により自由フランスに合流した。 |
アンティル諸島(マルティニーク、グアドループ、サン・マルタン、サン・バルテルミー島 | 1943年7月3日 | 当地域、特にマルティニークはカリブ海の戦略的要衝だった。アメリカとイギリスは、マルティニークに停泊したヴィシー艦隊の脅威を警戒し、資産凍結、物資供給制限などの経済的圧力と海上封鎖を強化した。長期にわたる物資不足と生活困窮は住民の不満を高め、自由フランスへの共感が広がった。また、北アフリカでの連合軍の勝利(トーチ作戦)が、孤立したロベール提督の判断に決定的な影響を与えた。最終的に、ロベール提督は降伏を宣言し、島々は自由フランスの支配下に入った。 |
広州湾 | 合流せず | 広州湾租借地は自由フランスに合流しなかった。1943年2月にヴィシー政権との合意により日本が占領した。1945年の日本の降伏まで、名目上はヴィシーフランスの管理下で日本軍の占領下に置かれ続けた。戦後、フランスは直ちにこの領土を中華民国に返還した(1945年8月18日)。 |
上海 | 合流せず | 上海フランス共同租界は自由フランスの支配下に入ることはなかった。この租界は1943年までヴィシーフランスの管理下に置かれた。1941年12月の真珠湾攻撃後、すでに上海の大部分を支配していた日本軍は、共同租界を事実上占領した。フランス共同租界は当初一部の自治権を維持したが、ヴィシー政府は1943年7月に日本の支援を受けた汪兆銘政権に治外法権と租界そのものを正式に放棄した。1945年の日本の降伏後、戦後の自由フランス臨時政府は1946年2月に租界の中華民国への返還を承認した。したがって、この租界が自由フランスに「合流」することはなく、その主権はヴィシー政権から敵の支援を受けた政権に譲渡され、その後戦後のフランス政府によって中華民国に正式に返還された。 |
インドシナ | 合流せず | フランス領インドシナは自由フランスに合流しなかった。1940年9月には日本軍が北部仏印に進駐し、1941年7月には南部仏印にも進駐した。この地域は第二次世界大戦中、名目上はヴィシー政権の支配下にあったものの、実質的には日本の軍事プレゼンスと影響下に置かれ続けた。これは日本の東南アジアにおける地政学的な利益と、協力せざるを得なかったヴィシー政権の弱さによるものである。 |
初期の1940年には、イギリスの影響が強い地域や、指導者がド・ゴールを支持した仏領赤道アフリカが早期に自由フランスに合流し、その後の活動拠点となった。一方で、ヴィシー政権が支配力を維持する地域では、自由フランスの試みは成功しなかった。1941年から1942年中頃にかけては、枢軸国の影響排除を目的とした連合国の軍事介入や、孤立した地理的条件から自由フランスへ忠誠が転換するケースが見られた。
アルジェ近郊の海岸にて。1942年11月、イギリス海軍の兵士たちと、イギリスおよびアメリカ陸軍の兵士たち。
大きな転換期となったのは、1942年後半から1943年にかけての連合軍による北アフリカ上陸作戦(トーチ作戦)だった。この作戦を契機に、フランス領西アフリカや北アフリカの植民地が大規模に連合国側に転換し、自由フランスの重要な基盤となった。この成功は、レユニオンやマダガスカル、ソマリランドといった他の孤立した植民地にも波及し、連合国の海上封鎖や軍事作戦によってほとんどの植民地が自由フランスに合流した。
地域別に見ると、仏領赤道アフリカは指導者の自発的決断により早期に合流し、自由フランスの拠点となった。太平洋・インド洋の植民地はイギリスやオーストラリアの影響や戦略的重要性から軍事介入を受けて合流するケースが多かった。アメリカ大陸・カリブ海では、地理的孤立と経済封鎖が住民の不満を高め、自由フランスへの合流を促した。一方で、広州湾や上海、インドシナといったアジアの植民地は、日本の強い影響下に置かれたため自由フランスに合流することはなかった。
自由フランスへの移行スタイルは主に四つの類型に分けられる。
第一に、指導者の自発的決断によるもので、チャドなどがこれに当たる。
第二に、住民の圧力や意思決定によるもので、オセアニアやニューカレドニアが挙げられる。
第三は、連合国や自由フランスによる直接的な軍事介入や圧力によるもので、シリアやガボンがその例である。
最後に、連合軍の戦略的進展、特にトーチ作戦のような大規模な動きが波及して広範な植民地が転換するケースで、北アフリカや西アフリカがこれに該当する。これらの多様な経緯を通じて、自由フランスはフランスの主権を回復し、対独抗戦を継続するための基盤を確立していったのである。