2025年5月22日木曜日

植民地の定義と諸要素②

 前回は、植民地の定義について2点述べた。

今回は、多くの植民地にみられる要素について4点述べる。

強調しておきたいのは、これらは要素であって、定義にはなりえないという点である。


なお、要素は挙げればキリがないので、筆者の関心に沿うものに絞った。




植民地の要素①飛地であること


モンゴル帝国の領土より、ポルトガル帝国の領土が好き。そんな貴方は飛地マニア


世界史上の多くの植民地は、本国から離れた地域に飛地として形成されたものである。

英領インドやフランス領赤道アフリカなどの例を持ち出すまでもなく、列強はヨーロッパ本土ではなくその外側に領土を広げる過程で、周囲を現地勢力や他国領に囲まれた点在的な領域を獲得した。


飛地的に植民地が形成された背景のひとつには、世界史上の展開として、ヨーロッパ諸国が狭いヨーロッパ大陸での領地争いを避け、新世界やアジア・アフリカに拡大していったことがある。


また、ヨーロッパ諸国の各々が貿易や軍事の拠点として、まずは重要な港湾を支配し、そこから内陸へ統治を拡大させていったため、アフリカ分割で見られるような虫食い状の植民地が誕生することになった。



やや視座を変えてみれば、植民地の多くが本国から離れた飛地である理由として、飛地であるがゆえに「植民地」の地位のままであるということもいえる。

つまり、本国から地理的に隔絶しているために、本国の一部として同化されることがなく、それゆえに植民地となったということが考えられる。


例えば、フォークランド諸島は現在イギリスの海外領土である。住民の99%はイギリス系で、本国への帰属意識は強く、地球が続く限りフォークランド諸島がイギリスから独立することはないと思われる。

しかし、それでもフォークランド諸島は「海外領土」であり、イギリス本土ではない。これは、地理的隔絶以外の理由で説明することは難しい。


人間には、飛地をイレギュラーだと感じる習性がある。飛地を本土とみなすのは簡単ではないのだ。それゆえに、飛地の植民地は植民地であり続ける。


東ティモールは、ティモール島の東半分である 出典:毎日新聞

もっとも、すべての植民地が飛地なわけではない。

例えば、朝鮮半島は日本列島と近接しており、飛地というには違和感がある。

また、ロシア帝国のフィンランド支配、インドネシアの東ティモール支配などは、陸続きでありながら、前掲の植民地の定義にあてはまるような統治を行っていた。




植民地の要素②経済的搾取構造があること


セシル・ローズを表紙に据えた同人誌「植民地事情2025」は冬コミで頒布予定!

植民地主義の目的の一つは、経済的利益の追求であった。

最も分かりやすいのが、資源の収奪である。



例えば、植民地主義者として知られるセシル・ローズ(風刺画でおなじみ)は、英領南アフリカでダイヤモンド鉱山の開発で成功を収めた人物である。

彼はまた、英国南アフリカ会社(BSAC)を設立し、ローデシア(現在のジンバブエやザンビア)で金や銅の鉱山開発に携わった。


同様に、フランス領ニューカレドニアはニッケルの産出地として知られている。


また、大日本帝国が太平洋戦争において東南アジアに侵攻した背景には、オランダ領東インドの石油や仏領インドシナのゴムといった資源を確保する狙いがあった。


資源の収奪に加え、労働力の搾取も重要な要素である。上記の資源を産出するために、現地住民が様々な形で労働に従事させられた。

労働によって得られた利益は主に本国に送られ、植民地社会にはほとんど還元されなかった。


こうした労働力の搾取は、植民地内にとどまらず、広域に及ぶこともあった。

例えば大英帝国では、インドから労働者を組織的に募集し、遠く離れたアフリカでのウガンダ鉄道建設に従事させるなど、植民地間で労働力を移動させる実践も行われていた。



労働搾取が特に過酷だったのが農業分野である。

そもそも、大航海時代に行われた有名な奴隷貿易は、西インド諸島の砂糖プランテーションでの労働力確保を目的としていた。


また、オランダ領東インドでは、農民に特定の作物を強制的に栽培させる「強制栽培制度」が導入され、過酷な搾取がなされた。

ベルギー王レオポルド2世が私有地として支配したコンゴ自由国では、ゴム栽培に従事させるための極めて残酷な強制労働が行われた。



さらに、植民地を本国製品の市場として囲い込むことで経済的搾取は一層強化された。

植民地は原料供給地であると同時に、工業製品の一方的な販売先とされ、自立した産業の発展は意図的に妨げられた。

有名な話だが、英領インドでは、綿花を安く買い取った後、本国で加工して綿製品を安価で売り戻すという経済構造が築かれた。これによりインドの地場産業は衰退し、現地経済の自立性は失われ、住民の富は本国へと吸い上げられた。



ただし、香港やシンガポールのような港湾型の植民地では、その場所自体ではあまり搾取構造が存在しなかったと考えられることは、付記しておく。




植民地の要素③同化政策がなされること


文明化の使命論は、植民地主義を正当化した。

そもそも、植民地経営は必ずしも利益を生むものではなかった。人口や資源が乏しかったり、経済が初期状態であったりする地域では、交通インフラ整備や行政組織の設置などの初期投資がかさみ、植民地経営が赤字となる例が多かった。


それにもかかわらず、多くの列強は植民地の獲得・拡大を推し進めた。

その背景には、単なる経済的利益を超えた「文明化の使命(the civilizing mission)」という理念があった。この考え方は、キリスト教的・西洋中心的価値観に基づき、「未開」とみなされた非西洋世界に対して宗教・言語・制度・文化を移植することが道徳的責務であるとするものであった。


特に19世紀以降、植民地支配は単なる領土の拡張ではなく、現地の人々を「文明化」するという名目で正当化された。

植民地住民に教育を施し、宗教を改宗させ、言語や生活習慣を変えさせることが、本国にとっては「人道的行為」とされ、支配を倫理的に装う装置として機能した。これらは、広い意味で同化政策といえるだろう。


この思想は大航海時代にもさかのぼることができる。当時、イエズス会の宣教師たちは布教活動を通じて各地での植民地化を推進し、しばしば支配の先兵として機能した。


また、植民地化はしばしば本国文化への同化を目指すものであり、その実現のためには具体的な同化政策が不可欠であった。

例えば、大日本帝国は朝鮮半島で皇民化政策を実施し、日本語の使用を強制した。

フランスもアルジェリアを「本国の一部」と位置づけ、フランス語教育を徹底し、市民としての権利獲得を条件付きで与える制度を導入した。



しかし、すべての植民地で同化が目指されたものではない。宗主国の統治目的や現地事情によっては、むしろ「間接統治」や「経済的利用」を優先し、文化的同化を抑制したケースが少なくない。


例えば、イギリスはインドや西アフリカ(ナイジェリア、ゴールドコーストなど)において、現地の伝統的権力構造──王や酋長、カースト制度──を温存したまま、イギリス官僚と現地エリートが共同で行政を行う「間接統治(Indirect Rule)」を採用した。

現地住民への英語教育やキリスト教布教は行われたものの、フランス式の徹底的な同化政策とは異なり、文化・言語の完全な置き換えは目指されなかった。



また、香港やシンガポール、マカオといったアジアの港湾植民地では、宗主国の目的は貿易ハブの確保にあり、住民への宗教改宗や言語強制は限定的であった。むしろ商業的繁栄を維持するため、華人商人や在来の行政機構を部分的に尊重し、文化的同化よりも経済活動の自由が重視された。



植民地の要素④本土からの移民があること


満蒙開拓移民の数は27万にも及ぶ


「植民地」という言葉が示す通り、宗主国は支配基盤を強化するために本国から移民を送り込み、現地の人口構成を意図的に変えることが多かった。これは広い意味での同化政策の一環ともいえる。


日本では、満蒙開拓団をはじめ、朝鮮半島・台湾・南洋諸島など各地へ多数の移民を派遣した。


イギリスはカナダやオーストラリアなどの入植型植民地に大量のイギリス人を移住させた。

これら白人入植地は、早期に自治権を獲得するという展開があり、おもしろい。


フランス領アルジェリアでは、1962年独立時に住民の約15%をフランス系(ピエ・ノワール)が占め、その帰還問題が大きな社会混乱を引き起こした。



これらの移民は、植民地支配の“実働部隊”として重要な役割を果たした。彼らは現地住民に先んじて良質な土地を割り当てられ、多くが農業生産に従事した。


一方、熱帯や乾燥帯に位置する植民地では、軍人や行政官以外の一般移民は進まないことが多かった。過酷な気候や熱帯病の蔓延、農業開拓に適さない土地条件などが理由に挙げられる。




以上のように、植民地には定義と要素がある。これを前提にすることで、ある地域のある歴史的状態について、「定義に当てはまるが要素には当てはまらない」「定義には当てはまらないが要素を兼ね備えており植民地っぽい」とか、云々することができる。

今後は、何か記事を書く際に、この記事のリンクを貼っておくことで、その場での議論を省略しようと思う。あぁ、いい記事が書けたな~

2025年5月18日日曜日

植民地の定義と諸要素①

 筆者は植民地が大好きで、いつも植民地のことばかり考えている。

植民地のコインばかり集めている。(画像は仏印の銀貨)


ところで、「植民地」という語は曖昧で、「ある地域が植民地である」と明確に言うことは難しい。

そこで、本稿では私的に「植民地」を定義することとした。

見えてきたのは、植民地と呼ぶに欠かせない「定義」と、多くの植民地が共有する「要素」である。

これらを順にみていきたい。



植民地の定義①主権が宗主国に侵奪されていること

植民地の定義②本土になっていないこと(制度的又は実質的に宗主国本土と区別されていること)


植民地の要素①飛地であること

植民地の要素②経済的搾取構造があること

植民地の要素③同化政策がなされること

植民地の要素④本土からの移民があること




植民地の定義①主権が宗主国に侵奪されていること


現存する海外領土は、主権の一部を欠いている。



ある共同体の「主権」を奪うことこそ「植民地化」の必要条件である。


「主権」は大きく三種類に分けることができる。


①国家の統治権

「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。」(ポツダム宣言)

②最高独立性(対外主権)

「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(日本国憲法前文)

③最高決定権

主権が国民に存することを宣言し」(日本国憲法前文)


これらの一部または全部を欠如することが、植民地の条件といえる。


例えば、仏領アルジェリアでは植民地市民は参政権を持たず、アルジェリアの在り方はフランス政府が決めていた。典型的な植民地といえる。

また、現在も世界各地に残るヨーロッパ諸国の「海外領土」(グリーンランド、ケイマン諸島、ニューカレドニア等)は、たいてい高度な自治が保障されている。しかし、外交権や防衛権は本国が管理しており、やはりこれらの地域も植民地の定義に部分的に当てはまるといえる。


逆に、例えば長崎の出島は、オランダの影響を強く受けつつも、あくまで幕府の主権が維持されており、よって植民地であるとはいえない。



植民地の定義②本土になっていないこと(制度的又は実質的に宗主国本土と区別されていること)


日本大百科全書「蝦夷地」より


筆者は、植民地とは「本国の一部として完全に編入されるまでの過渡期にある地域」のことだと考えている。

例えば、現代の日本人で「日本領北海道」という言い方をする人はほとんどおらず、北海道を植民地とみなす人はごく少数派だ。しかし、北海道が日本に併合されていった過程は、典型的な植民地化の流れと完全に重なる。


・先住民の搾取

松前藩による場所請負制を通じ、アイヌの資源や労働力が一方的に収奪された


・先住民の土地収奪と同化政策

北海道旧土人保護法(1899年)により、アイヌの伝統的な土地利用が制限され、農耕への転換と日本語教育が強制された


・本土からの移民導入

屯田兵制度などで大量の和人移住者を送り込み、社会構造を本州型に再編した


これらの点は、国連人権委員会など国際機関も「植民地主義的措置」として指摘している。それにもかかわらず、私たちが北海道を「植民地」と呼ばないのは、制度面でも実質面でも本州以南との区別がほとんどないからだ。

なぜかひとつだけ「道」だし、北海道の人は本州以南のことを「内地」と呼んだりはするけども、植民地的関係はほぼ消え失せ、事実上は完全に同化されている。


同様のプロセスは、東北地方や九州地方、さらには世界中の多くの地域でも繰り返されてきた。同化が成功した地域は「植民地」とは呼ばれず、同化を拒んだ地域だけが「植民地」とみなされる。

したがって、「植民地状態」を定義する際には、「同化の有無」という視点を欠かすことはできない。



以上の2点が植民地の定義である。


次回は、4要素を取り上げる。記事自体はすでに書き終えているが、校正や画像挿入が面倒くさいし、何より長いと読者が飽きるので、次回にする。





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冬コミで「植民地事情2025 植民地通貨の歴史」(仮題)という同人誌を頒布します。

なぜ植民地に独自の通貨が発行されたのか、その現状はどのようであるか、ということを熱く書きました。

よろしくお願いします。

2025年5月3日土曜日

長崎県横瀬浦のイエズス会領土にみる植民地性

地方の半島の先端、この国の周縁部にこそ、海外との接触があった

横瀬浦とは、16世紀半ばの日本、肥前国大村領内(現在の長崎県西海市)に設けられた港町であり、ポルトガル船の寄港地として短期間に繁栄を見た。

1562年に大村純忠の主導により外国船受入港として開港された。しかし、わずか1年後の1563年に、キリスト教に傾倒した純忠への反感から、家臣によって焼き討ちされ放棄された。今では静かな漁村が残るのみである。

この港には、植民地的な特徴がいくつかあった。今回は、横瀬浦を題材に「植民地」という概念について理解を深めたい。



植民地的な特徴

横瀬浦には、以下のような植民地的性格を帯びた要素が存在した。

  • イエズス会への土地寄進:大村純忠は、港周囲約2レグワ(約10km圏)の半分を教会に百姓付きで寄進した。ポルトガル人と教会に対し、収益権が保証された。(アルメイダ書簡に基づく) 飛地的に土地と人民が与えられるというのは、いかにも植民地らしい。

  • 租税免除:大村純忠の許可により、ポルトガル船の貿易活動に対して10年間の免税措置が取られた。特定の外国商人に対する租税免除は、植民地的搾取の常套手段である。

  • 宗教的排他性:協会領には異教徒の居住が認められなかった。つまり、宗教的自治権が一定程度保障された。実質的にはポルトガル人専用の地域が横瀬浦に存在したことになる。

  • 港の特権的自治空間化:交易・布教・居住が日本側と区別された空間で行われており、ポルトガル人の「特権的空間」として機能した。従来イエズス会士などが定住した豊後や平戸にはこうした南蛮人の居留区は設定されなかったと考えられており、教会領の概念は横瀬浦に始まるものである。


植民地とはいえない要素

一方で、横瀬浦を植民地(colony)とみなすには欠ける要素も多い。

  • 主権の所在:横瀬浦はあくまで大村純忠の支配下にあり、土地の寄進・租税免除も領主の意思に基づくものだった。主権はあくまで日本側にあり、ポルトガル王国に移譲されたものではない。これは知行地という形態であり、土地はあくまで借地であった。

  • 本国の関与の欠如:土地用益権を与えられたのは、あくまでイエズス会という宗教組織であり、ポルトガルの正式な関与はない。当時のポルトガルは、ブラジル経営やインドでの活動に注力しており、既に独自の貿易圏が構築されていた東アジア世界ではあくまで1プレイヤーとして商業に参入するに留まっていた。そのため、東アジアではイエズス会がポルトガルの尖兵としての機能を果たしていた。しかしこれは実質的な意味であり、正式なものではない。

  • 軍事力の不行使:ポルトガル側は横瀬浦を軍事力による威圧で確保したわけではなく、大名の招致に基づく平和的進出であった。これはポルトガルのインドにおける拠点形成と異なるところである。

  • 恒久性の欠如:与えられた租税免除措置は期限付きであり、後の焼き討ちによって短期間で終焉した。

  • 行政機構の不在:横瀬浦にはポルトガル本国の行政・司法制度が持ち込まれることはなく、制度的統治体制は存在しなかった。これは、わずか1年で放棄されたことも原因のひとつだと考えられる。もし焼き討ちがなければ、次第に制度が整備され、マカオやバタヴィアのように植民地的色彩が強くなっていたかもしれない。


横瀬浦とは何だったのか

横瀬浦の主権は日本側に留保されており、特に本国法に基づく行政・司法などは未発達のうちに焼き討ちされてしまった。よって、横瀬浦を植民地として位置づけることは難しい。

横瀬浦は、近世初期における日本的制度に基づく対外的租界(concession)といえるのではなかろうか。特に注目すべきは、当時の戦国大名が用いた「朱印地」制度との類似性である。

すなわち、横瀬浦においてイエズス会やポルトガル人に与えられた土地・権利は、戦国期に寺社や商人に対して領主が発給した朱印地(朱印状に基づく特権的支配地)と同様の構造を持っていた。租税免除・宗教的自治・一時的支配権の保証はすべて、大村氏による主権の留保のもとに発給された「封建的租界」であり、国際法的な植民地ではなく、日本封建制度における特権的港湾区画と位置づけることができる。

そのため、横瀬浦は「一風変わった朱印地」として理解するのがよいだろう。また、植民地と居留地の過渡的形態を示す先駆的事例であるともいえる。


ちなみに、現在横瀬浦の隣には在日米軍の貯油所があり、向かいには在日米軍佐世保基地がある。しかし、これが植民地であるか云々という話題は政治的に過ぎるので後日に回すこととする。