「コンゴ自由国という名の私有地を持つベルギー国王レオポルド2世の私腹と彼と結託した各民間会社の金庫はいやがうえにも膨れ上がり、それに反比例して、コンゴの先住民社会は疲弊し、荒廃し、その人口は激減していった。
……正確な数字の決定は望めまい。」
<藤永茂『『闇の奥』の奧』>
コンゴ自由国は、1885年にベルリン会議で承認された国である。
しかし、その実態はベルギー国王レオポルド2世の私有地であった。
近代において、王が国を「所有」する中世的な事態が生じたことが興味深い。
ノルマ未達成で手首切断などの苛烈な支配が国際的な批判を巻き起こし、結局1908年にコンゴ自由国はベルギー領コンゴに移管された。
レオポルド2世は、ヨーロッパの小国が列強と対峙するには、列強と同様の植民地を持つことが必要と考えた。
隣国オランダの東インド経営に刺激を受けたと思われる。
彼は列強の支配が及んでいないところとしてコンゴ盆地を見つけ出した。
この領有がベルリン会議で認められ、ベルギーは本国の約80倍の広大な植民地を持つ植民地帝国として存在することとなった。
結局、苛烈な支配の末に、正式にベルギー領へと移管されたことは、先述した。
なぜコンゴ自由国は初めからベルギー領としてある意味通常の支配がなされなかったのだろうか?
これには、先代・レオポルド1世のハワイ戦略から考える必要がある。
レオポルド1世が即位した19世紀前半は、既に列強は潜在的な植民地を獲得しつつある時代であった。ここでレオポルド1世はハワイの領有を巡って現地会社ラッドアンドカンパニーと交渉していたが、ラッドアンドカンパニー側の財政事情で頓挫してしまう。「ベルギー領ハワイ」は幻に終わったのだった。
レオポルド2世は1世の息子であり、父の影響を多分に受けたものと思われる。そういうわけでレオポルド2世も植民地獲得に意欲的であった。
しかし、今度はベルギー政府が財政難を理由にこれを拒絶した。植民地はカネがかかるのだった。
こういう理由で、コンゴ自由国は国王の私領となった。
ベルギーの植民地は他にも僅かにあるが、コンゴはその中でも特に広大なものであり、また特に富を産出したことは議論がなかろう。
コンゴ自由国の通貨単位はコンゴフランで、ベルギーフランと等価であった。
意匠はヒトデのように見えるが、コンゴ自由国はほとんど海に接していないし、おそらく国旗と同様の五芒星をデザインしたものと思われる。
裏面には
”LEOPOLD II ROI DES BELGES SOUV.DE L'ETAT INDEP.DU CONGO”
のレタリングがある。
”L'ETAT INDEP.DU CONGO”はフランス語で「コンゴ独立国」であり、「自由」の文言は含まれていない。
ベルリン条約第1条でコンゴ川流域は自由貿易とすると定められていることを意識した他称が「自由国」であり、自称はあくまで独立国であったことが、この銅貨から読み取れる。
自由とは自由貿易を意味し、住民が自由というわけではなかったことは、散々先述した。
紙幣は発行がなかった。
銅貨としてはかなり大型であることが、お気に入りポイントである。
ベルギー領コンゴ(準備中)
ベルギー植民地帝国(準備中)
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