植民地切手の研究 概論とイタリア

 「切手は、小さな紙片である。だがこの紙片は、時にその国の内なる思想を我々に語りかける。特にそれが植民地切手である場合、その国家がどのように自らの姿を世界に示そうとしたのかを、わずか数センチ四方に見ることができる。」


植民地切手(しょくみんちきって、英: Colonial postage stamps)とは、帝国主義時代において、欧米列強(イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、ドイツ、ベルギーなど)が自国の植民地で発行した郵便切手のことを指す。これらの切手は、植民地の行政機関または宗主国の郵政機関によって発行され、宗主国の権威や文化、または現地の風景・民族などがデザインに反映されることが多い。


歴史

ポルトガル領アンゴラ・大統領訪問記念切手(1954年)No.403
当時のポルトガル「海外州」が着色されている。

世界初の植民地切手は、イギリス領モーリシャスで発行されたものであり、いわゆる「ブルー・モーリシャス」として知られている。この切手は、現在においても世界で最も価値の高い切手の一つとされている。その後、帝国主義の拡大に伴い、植民地切手の種類と数も増加していった。

植民地切手の発行には、地域ごとに異なる通貨制度の存在が影響している。各植民地での通貨単位に対応する必要があるため、統一された切手の使用は困難であり、現地に適応した額面とデザインの切手が求められた。また、本国と植民地間で共通の切手を使用することは、物価差や為替の問題から経済的損失を引き起こす可能性もあった。

このような事情から、植民地では本国とは異なる意匠の切手が発行されるのが一般的であり、多くの場合、切手には植民地の地名が記されていた。例としては「モーリシャス」や「インド」などが挙げられる。

特筆すべきは、切手における“Colony”表記の用例である。これは、各宗主国によって異なっており、以下のような傾向が見られる。


イタリア:多数の使用例あり。

フランス:多数の使用例あり(植民地共通切手なども含む)。

スペイン:一定数の使用例が見られる。

ポルトガル:一定数の使用例があるが、貨幣に比べると少ない。

イギリス:使用例は少数(例:オレンジ川植民地、アデン)。

オランダ:使用例は少数(例:キュラソー、スリナム)。

ベルギー:基本的に使用例は見られない。

日本・アメリカ・ドイツ・デンマーク:使用例は確認されていない。


特にポルトガルは、貨幣において「COLONIA」の表記が多用されているにもかかわらず、切手ではその使用が限定的である点が注目される。



イタリアにおける植民地切手


イタリア領エリトリア・20セント切手(1928年)No.128
加刷処理が見どころ。
肖像のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は世界有数のコインコレクターとして知られる。

イタリア植民地帝国は、いわゆる「後発帝国主義国」として分類される。ドイツ、日本とともに、列強の中では比較的遅れて植民地政策を展開した国家である。イタリアは地中海を「我らが海(Mare Nostrum)」と称し、特に東アフリカにおいて、現在のリビア、ソマリア、エチオピアなどに植民地を拡大した。

イタリアが発行した植民地切手には、“COLONIA”(あるいは"COLONIE")という表記が頻繁に見られる。これは切手の図案のみならず、加刷(既存の切手に新たな文字や額面を印刷する処理)にも見られる特徴である。

このような傾向の背景には、イタリアにおけるナショナリズムとコロニアリズムの結びつきが指摘される。イタリアは19世紀中葉に統一を果たした新興国家であり、国民的アイデンティティの形成が他の列強に比べて遅れていた。このため、植民地政策を通じて国家の威信を内外に示そうとした側面があると考えられている。

さらに、イタリア王国には、古代ローマ帝国の後継国家であるという意識が強く存在していた。ローマ帝国が地中海全域に広大な属州と植民市(コロニア)を展開していた歴史に倣い、イタリアは自国の植民地支配を正当化・象徴化するため、“Colonie”という語を多用したと考えられる。イタリア語においては、古代の植民市も近代の植民地も同様にColonieと呼ばれており、この語の使用が古代と現代を接続する象徴的役割を果たしていた。それゆえに、切手にColonieと表記するモチベーションが、他国よりも高かったと考えられる。

このように、イタリアの植民地切手における“COLONIE”表記の多用は、後発帝国としての国際的アピールに加え、古代ローマ帝国との連続性を意識した政策の一環として位置付けられる。

なお、イタリアの植民地貨幣においては、Colonieの語は使われておらず、これはポルトガルと正反対である。イタリアが領有した東アフリカ地域はマリア・テレジア銀貨の流通が非常に盛んであり、イタリア独自の植民地貨幣は一般に根付かず、貨幣の種類が少ないことが、Colonie表記の貨幣がないことの理由に挙げられる。


ギャラリー





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冬コミで「植民地事情2025 植民地通貨の歴史」(仮題)という同人誌を頒布します。

なぜ植民地に独自の通貨が発行されたのか、その現状はどのようであるか、ということを熱く書きました。

よろしくお願いします。

◎中津巡検②中津競馬場跡

移行済

https://note.com/3ccr/n/n445d46fae893


①山国川の県境

②中津競馬場跡

③薦神社

④沖代平野の条里制

⑤小祝地区

⑥御境川と吉富町


県境探訪を終え、本日のメインイベントに向かった。


いま、九州に競馬場は2カ所ある。中央競馬の小倉競馬場と、佐賀県競馬組合が運営する地方競馬・佐賀競馬場の二つである。


一昔前は他にも色々な競馬場があったというが、筆者は往時を知らない。

ただ、大分県にも、中津にひとつあったということだけは知っていた。

中津競馬場を少し調べれば「悲劇」という文字が目に付く。

20億円もの累積赤字に耐えかねた中津市長が、一方的に、突然、廃止を決めたのだった。2001年のことである。


中津競馬組合には大分県も構成団体として加入してあるが、県がなにかしたという動きは見えてこない。おそらく黙殺したのであろう。


この市長の決定につき色々意見はあろうが、中津競馬を廃止する方向性については、妥当と思われる。

(むろん、対応が拙速・粗雑であるという批判は避けられないが。)


地方競馬全体の売上は2001年当時は下落基調であったし、その後10年間も下落し続けた。

NARの売上総計が上昇に転じるのは、スマホによりネット投票が普及する2012年まで待たねばならない。


結果的に、存続しても赤字が膨らむばかりだっただろう。

そういう意味では、中津市長の損切りは好判断ではなかったか。



中津市は、競馬場や厩舎団地の広大な敷地を再開発用地と見込んだ。

実際、そうなった。


行政には、ギャンブルの乱数生成機として競馬は大掛かり過ぎるという思想があり、この強固な思想的根拠に基づく競馬場の廃止は今日も続いている。先日、シンガポール競馬が最後の日を迎えたことも、これである。


まぁ、僕が中津市長でも同じことをするし、シムシティ・中津市がリリースされたら競馬場廃止は序盤の鉄板ルートになるだろう。


だいいち、今でこそ競馬場は観光地となっている面はあるが、元来、外部不経済が勝る施設である。


また、中津競馬廃止当時は同じような「まだ廃止になっていない競馬場」が全国に他にもあったから、競馬場という施設の特殊性というか、物珍しさも相対的に少ない時代であった。


御託が長くなった。

中津競馬場が廃止されて二十余年、再開発が進み、すっかりどこにでもある(が、地元にとっては不可欠である)風景となった中津競馬場跡から、その痕跡を見出そうというのが、本稿の趣旨である。


①第一コーナー


競馬場の施設として最も華やかでフォトジェニックなものはなにか。それは、本馬場である。

筆者は、自ら「本馬場入場」したいがために非開催日の浦和競馬場に足を運んだこともある。


その本馬場、走路の遺構が中津競馬場跡にはある。


これは航空写真でも確認できる。当時の写真と見比べると、北側にやや不自然なカーブを描いた土地があるのが見て取れる。

これが、中津競馬場最大の遺構・第一コーナー跡である。



現地に行く。問題の土地は公民館として活用されており、外側にフェンスが設置されている。

このフェンスが、おおよそ競馬場の第一コーナー・第二コーナーの外壁に当たる。


つまり、公民館の土地はおおむね走路であったことになる。



フェンスは当然新しいものだが、土地の形状が歴史を語りかける。

かつてはまさにこの辺りで、行った行ったの先行争いが繰り広げられていたはずだ。


尤も、客観的には、公民館の周囲を闊歩し、フェンスと一緒に写真を撮る成人男性2名である。怪しまれないか不安だった。怪しかったであろう。


②第三コーナー



たとえば、不自然にカーブしている道を航空写真で見つけ、古い写真で調べてみると、実はそれは鉄道の廃線の跡だった、ということがある。

道を曲げるからには何かしらの理由が必要なのであり、廃線ではなくとも、一曲がりごとに歴史がある。



中津競馬にもそれがある、と言いたいのだ。

ホームセンターの東側の道がカーブしている。これが、おおむね、第三コーナーの外側に沿っている。

ただ、面白くないことに、走路があったのはグッデイの土地であり、道路はその外縁をなぞるに過ぎない。が、それは仕方ないであろう。


③スタンドと直線


中津競馬は右回りで、西側が最後の直線である。よって、コースの西側にスタンドがある。スタンドの跡地には新しい建物が立っている。

特筆すべきは、建物の東側の縁が綺麗にスタンドの縁と重なっていることである。

つまり、今の建物は、ほとんど完璧に当時のスタンドと同じ座標にあるということである。


その今の建物とは、ドラッグストア・コスモス大貞店である。

コスモスは、九州を制覇するローカルチェーンである。余談ながら、コスモスの創業者は2940億円もの資産を持ち、日本の長者番付で第16位にランクインしている。

我が家はよくコスモスに行く。安いからである。

同じチョコが、コスモスでは218円のところ、イオンでは350円くらいする。


なぜ安いのかについて、会社側は、現金主義を理由に挙げている。

コスモスの特徴として、電子決済に一切対応しないことがある。

電子決済派の筆者としては閉口するところだが、まぁ安いので、小銭の処分がてら通っている。


そういうわけで、無理矢理当時のスタンドと今のコスモスの共通点を挙げるならば、現金が飛び交っている点のみが挙げられるだろう。


蛇足として、コスモスは店内に信じられないほど大量の監視カメラが設置してあり、絶対に笑うと思うので、調べてみてほしい。むろん、本文とは何の関係もない。

コスモスと新鮮市場の間に、何の利用もされていない残余地がある。航空写真で比べると、スタンドとコースの間の観客スペースに見える。

競馬場跡地だから当然市有地だと思って、平気で入ってみたりした。


が、調べてみると、近隣の「薦神社」の境内地であった。

司法書士受験生なので、土地を見たら、当然、登記をとる。まずは公図をとって地番を調べ、その地番の登記をとって、びっくりした。甲区1番に「合併による所有権登記」とあり、それだけであった。こんなもの、初めて見た。


「合併による所有権登記」というのは、土地同士を合筆したことを示す登記で、土地家屋調査士が行う。つまり、司法書士の領分の外であり、ましてその受験生に過ぎない自分が詳らかに語ることはできようがない。


所有者が薦神社なのも解せない。

コスモスが建っている389-5の登記簿もとったが、ここも同じように薦神社の境内地となっており、コスモス薬品の権利がみえない。

コスモスほどの企業が登記をしないことは考え難いので、筆者が何か重大な勘違いをしていると思われるが、よく分からない。

コスモスの所在地389-5を頼りに公図をとったが、もしかしたら地番が異なるのかもしれない。



せっかく一通三百余円の登記簿を三通もとったのに、分からないことが増えただけだった。

コスモスの向かい側は太陽光発電基地となっている。

筆者は土地活用について太陽光発電信者で、世界の端までソーラーパネルを敷き詰めたいと考えている。が、いざ古跡がそうなっているのを見ると、思うところはあるものだ。


④厩舎団地の壁


競馬は、競馬場だけでは成立しないのが、厄介なのだ。近くに馬房を備えた厩舎団地を備える必要があり、その分、占有面積も膨大になる。

中津市は競馬場をぶっ壊し、厩舎団地の跡地に野球場を建てた。野球場の駐車場辺りが、およそ厩舎団地の跡地である。

この日は大学野球の試合が行われており、ちょっと信じられないほど人がいた。広大な駐車場が満杯であった。

中津競馬が存続していたとして、これだけ車を集めただろうかと思う。

厩舎団地の唯一の痕跡が、この外壁である。

多少馬が蹴っても大丈夫そうな立派な壁である。


地元のテレビ大分が2022年に中津競馬を特集しており、その際にはこの壁が中津競馬の唯一の面影とされていた。


実際には、前述のように他にも面影は見て取れるのだが、工作物として残っているのはここだけである。


続いて、スタンドの土地所有者として本稿でも登場した「薦神社」に向かった。