岡藩領三佐(みさ)は、江戸時代の豊後国(現在の大分県大分市三佐地区周辺)に存在した岡藩の飛地領であり、同藩の唯一の外港として機能した港町である。大野川河口の三角州に位置する孤立した中洲にあり、海原村と三佐村にまたがって形成されていた。
歴史
岡藩領有以前
領有の経緯
主な出来事
解体
統治体制
地理・交通
経済
社会・文化
現代
遺跡
参考文献
編集後記
歴史
岡藩領有以前
岡藩が三佐を領有する以前、三佐を含む大野川河口部は幕府領であった。初期の岡藩は、豊臣秀吉の命により文禄2年(1593年)に豊後国岡(現在の竹田市)へ入封した際、豊臣秀吉から「舟着きたるにより御代官を仰せ付けられ」たとされる大分郡の今津留村が藩の船着き場として利用されていた。元和5年には船着場が萩原村に変更された。
領有の経緯
元和9年(1623年)、それまで岡藩の船着き場であった萩原村が、松平忠直(徳川家康の孫)の領地(厨料)となった。その代替地として幕府からは当初乙津村が提示されたが府内藩が拒否し、竹中氏が提示した中津留村を岡藩が拒否した結果、最終的に三佐村と海原村(かいわらむら)が岡藩に与えられた。
元和9年閏8月23日には三佐・海原村の受け渡しが行われ、船着き場や町屋の普請(工事)が直ちに開始された。同年9月13日には、中川式部が三佐へ派遣されて町割を命じ、船奉行の柴山藤四郎も三佐に移り住んだ。これにより三佐は、岡藩にとって瀬戸内海への新たな玄関口という位置づけとなり、藩の年貢米輸送や参勤交代における海上交通の重要拠点として、その整備が本格的に始まった。
このように、内陸藩である岡藩には船着場について格段の配慮がなされている。しかし、このように内陸藩が船着場として外港飛地を持つという例はあまり多くない。豊後森藩が頭成港(かしらなりこう、現在の豊岡地区)にあたる辻間村を飛地として領有していた例があるほか、内陸藩ではないものの、紀伊和歌山藩が伊勢湾岸の白子宿を物流拠点として飛地支配していたことが知られる程度である。
主な出来事
元和9年(1623年)9月13日: 中川式部が三佐へ町割を命じ、港町としての基盤整備が本格化した。船奉行の柴山藤四郎も三佐に移り住んだ。
寛永2年(1625年)6月: 藩主の御座船である住吉丸の船蔵が作られた。
寛永2年(1625年)10月: 港湾施設としての船入普請の願いを幕府に提出した。
寛永3年(1626年)3月: 船入工事のため役人が三佐へ派遣され、閏4月には藩主中川久盛の上洛のため三佐から出発し、家老が見送りに来るなど、三佐からの参勤交代が恒例化した。
寛永13年(1636年): 長さ約330m、幅約90mの船置場の工事願いを幕府に提出。同時に、三佐と岡の間の継飛脚・伝馬など交通・郵便の制度が定められ、三佐の交通拠点としての重要性が増した。
明暦2年(1656年): 大野川中流の犬飼に藩の米蔵が建てられ、併せて町家が立ち始めた。これにより、三佐と犬飼を結ぶ大野川水運の重要性が高まった。
明暦年間(1655年-1660年): 岡藩によって犬飼から下流の大野川の整備が26kmにわたって行われたとされ、犬飼から三佐までの船のルートが整備された。
延宝6年(1678年)4月6日: 「三佐御願替地絵図」が調製され、三佐近辺の浦々の支配状況が描かれた。
貞享元年(1684年): 野坂神社の神殿が造営され、中川家累代武運長久祈願所となった。
貞享2年(1685年): 大分郡の村々が三佐組、海原組、仲村組の3組に再編され、大制札場が三佐村に、小制札場が海原村の4村に設けられた。
宝永2年(1705年)閏4月8日: 三佐浦の百姓家から出火し、町家に延焼する大火が発生。軽役人・水主の家121軒、町家87軒、百姓家27軒、寺1ヶ所、計236軒が焼失し、焼死者2名、馬1頭も焼失した。
正徳元年(1711年)9月: 再び火災が発生し、75軒(士屋敷5、小役人屋敷9、足軽屋敷1、水主屋敷34、町屋26)が焼失した。
元文5年(1740年)6月12日: 久世ヶ瀬橋堤が前年から春にかけて完成し、府内方面からの主要な通路となった。
宝暦6年(1756年)12月: 水主の家から出火し、50軒の家屋のほか、船倉15ヶ所とその中の26隻の船が焼失する火災が発生。
享和3年(1803年)10月: 「三佐町・港絵図」が、三佐町・港などの藩の「用地」と家臣屋敷の検地を行う際に、三佐一帯を見分して作成された。
文化10年(1813年): 第10代岡藩主中川久貴が海上安全祈願のため、藩主の御座船「住吉丸」の入港を描いた「岡藩船三佐入港絵馬」を野坂神社に奉納した。
解体
明治4年(1871年)の廃藩置県により岡藩が廃止され、三佐は岡県の一部となり、その後大分県に編入された。これにより、岡藩領としての三佐の統治は終了した。明治期には港湾施設が放棄され、旧御茶屋は学校に、旧御船入は溜池に変わるなど、その姿を変えていった。明治初期の「三佐港地図」からも、町家が著しく省略されており、港町の機能が衰退した様子がうかがえる。
統治体制
岡藩は三佐村に三佐奉行を配置して支配した。町には町役人として乙名や組頭が置かれ、町屋敷には年貢と町役が免除された。
岡藩では、村を68の組にまとめ、組単位に千石庄屋(大庄屋)を置いて統治する千石庄屋制が採られていた。延宝6年(1678年)の絵図には、三佐を含む飛地5村が三佐組として一括されていたことが記されているが、貞享2年(1685年)には三佐組(三佐と三佐塩浜)・海原組(海原と葛木)・仲村組(仲村・秋岡と直入郡伊小野村)の3組に再編された。
地理・交通
三佐は、大野川河口の三角州にある孤立した中洲に形成された。乙津川、小中島川、別府湾に三方を囲まれ、水上交通の要地であった。享和3年(1803年)の「三佐町・港絵図」によれば、三佐町は町家と堀川(船入・港)の港湾地区に大きく分けられ、両者の境には「広小路」が設けられていた。
水上交通の要地であると同時に、洪水などの水害を受けやすい地域であった。正保郷帳では「水損所」と記されており、水害の多さがうかがえる。島の周囲には川の増水による水害に備えるため、石垣の護岸が築かれていた。町域は、本町・中町・裏町という南北方向の通りと、広小路にほぼ平行する横町、そして新町・出町・下町といった後に開かれた通りで構成されていた。三佐村と海原村の村境は複雑に入り組んでいた。
周辺の領有が入り組んでいた点が地理的な特徴である。東に臼杵藩の飛地である家島村、南に熊本藩の飛地である鶴崎村、西に幕領や延岡藩の飛地があり、豊後国内でも屈指の飛地銀座であった。大野川・乙津川の交通の隆盛がうかがえる。
陸路での主要なアクセスは、元文5年(1740年)に完成した「久世ヶ瀬橋堤」が府内方面からの通路として機能していた。この橋堤を渡り、海原村内に設けられた門と番所を抜けると、新町から本町通りを経て広小路に到達する。
三佐の港は、岡藩の物資輸送において重要な中継点であった。岡城下からは陸路で大野川中流の犬飼まで運ばれ、そこから大野川を川船で下って三佐に至るルートが主流であった。三佐では、小型の川船から大型の海上輸送船への積み替えが行われ、主に瀬戸内海を経て大阪や江戸へ物資が運ばれた。参勤交代においても、藩主の御座船が三佐港から出港していた。領内には物資を保管する倉庫群が立ち並び、多くの商人や藩の家臣、船頭などが居住していた。
寛永13年(1636年)、長さ約330m、幅約90mにも及ぶ船置場の工事願いを幕府に提出し、また三佐と岡の間の継飛脚・伝馬など交通・郵便の制度が定められ、三佐のもつ意味は大きくなった。港の中枢部には、藩主宿泊用の御殿や役所、銀札蔵、米蔵、作事小屋、武具蔵、船道具蔵などが集中して配置され、厳重な警備のため石垣が巡らされ、出入り口には番所が置かれた。
大野川の河川交通は明治初期まで盛んで、16の舟問屋と135の運船があったとされているが、大正6年(1917年)に犬飼まで鉄道が開通すると、川舟交通は衰退した。
経済
主要な産業の一つとしては製塩業が挙げられる。元和年間(1615年〜1624年)には、三佐海辺で塩浜が始まり、釘屋風塵がその創業に関わったとされる。文化元年(1804年)の記録によれば、三佐村には20人の塩浜持主がおり、合計38ヶ所の塩浜を経営していた。
一般的な江戸時代の塩浜経営では、塩浜の所有と生産、販売がそれぞれ異なる主体で行われるのが基本だった。塩浜は「ハマトリ」が所有し生産し、藩は税を課したり統制したりしたが、販売は塩問屋が仲介し、手数料を得る形であった。
一方、三佐の塩浜経営は問屋資本による支配が明確だった。三佐では、塩浜の所有こそ村人の個人にあったが、塩問屋が生産に必要な用具や経費を負担し、生産された塩の全てを集荷する体制が確立されていた。これは、問屋が販売だけでなく、生産段階から深く関与し、実質的に経営を管理していた点で一般的な形態とは異なる。強力な問屋支配がなされていたという点が特殊である。
また、三佐は瀬戸内海航路の重要な寄港地の一つでもあり、江戸時代後期には安芸国竹原(広島県)や日本海側の石見国浜田(島根県)など、全国各地からの廻船が立ち寄っていた記録が残されている。これらの廻船は積荷を売り込むために立ち寄り、三佐の商業活動を活発化させた。菜種油や小麦、大麦、大豆、米、椎茸、たばこ、綿実などを積んだ船が確認できる。
石高は三佐村と海原村を合わせて550石程度であった。
社会・文化
江戸時代中期頃から始まったとされる野坂神社の本祭りが、氏子により二日間にわたって行われていた。この祭礼では、人形山車や太鼓山、神輿が練り歩き、地域コミュニティの中心となっていた。野坂神社は岡藩との結びつきも深く、貞享元年(1684年)には岡藩主が嵐からの無事帰国を感謝して神殿が造営され、中川家累代の武運長久を祈願する場所となった。
境内には、文化10年(1813年)に第10代岡藩主中川久貴が海上安全祈願のため、藩主の御座船「住吉丸」の入港を描いた「岡藩船三佐入港絵馬」が保存されている。この絵馬には藩主の御座船が三佐港に入港する様子が鮮やかに描かれており、当時の参勤交代の様子や港の繁栄を伝える貴重な資料として、1991年には大分市指定有形文化財となっている。また、この絵馬の下部中央には遠見灯籠が描かれており、遠見山の歴史的重要性がうかがえる。境内にある樹齢400年以上のソテツの大木3本も、参勤交代の際に岡藩主が海上安全を祈願して植えたと伝えられ、1974年に大分市名木に指定されている。
町内には円光寺、尋声寺、海潮寺の三寺が点在し、人々の信仰生活を支えていた。
現代
現在は新産業都市の指定を契機に開発された臨海工業地帯の一部となっている。沿岸部は埋め立てられ、昭和電工系のクラサスケミカルのコンビナートとなっている。東西を臨海産業道路(大分県道22号線)が貫き、沿線には様々な工場が並ぶ。ニトリの大型店舗が存在する。かつて大分地方法務局の出張所が存在したため、士業の事務所が多いことが特徴である。
2025年1月現在の三佐地区の人口は2253人である。
小中島川に面する三佐北地区では、老朽化した木造住宅が密集するなど、都市基盤整備の課題があったが、平成19年度(2007年度)から28年度(2016年度)にかけて「密集市街地の改善」を目標とした事業が進められ、道路整備などが図られた。
遺跡
現代の大分市三佐地区は、臨海工業地帯の一部として発展し、旧来の松林の様子は残っていない。しかし、江戸時代の面影は一部に残されている。
野坂神社: 江戸時代から変わらず三佐地区にあり、岡藩との関係を示す「岡藩船三佐入港絵馬」や樹齢約400年のソテツが残されている。絵馬はいつでも見学することができる。
遠見山: 標高7.9mの小山で、江戸時代には岡藩が参勤交代の御座船や航行する船の標識として遠見灯籠(灯台)を設置していた。現在も金比羅様の祠や三角点が山頂にある。
三佐御茶屋跡: 現在の太刀振神社境内が、かつての岡藩の藩主休息所兼役所であった御茶屋跡とされている。太刀振神社には岡藩の三藩主が合祀されている。
参考文献
豊後岡藩三佐町・港絵図について
http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=kc19705
三佐御願替地絵図(中川家文書) 解説
https://kmj.flet.keio.ac.jp/exhibition/2014/05.html
『大分市史 中』
岡藩【シリーズ藩物語】
地図はopen-hinataを使用。
https://kenzkenz.xsrv.jp/open-hinata/?s=ZY7An1
編集後記
筆者は植民地が大好きで、植民地といえば飛地である。江戸時代、幕藩体制の下で多くの飛地が形成されたことは、筆者にとってはよろこばしいことである。
「幕藩体制における飛地」の総論的なものを書く力量は筆者にはないので、筆者が興味がある飛地について、各論的に書いていくこととする。飽きる前に、豊後国内の飛地を網羅できたらいいなぁ
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